夜に融けて (全話連結型)

夜に融けて

 無性に踊りたくなる。

 人通りのない交差点。夜。外灯。コンビニの看板。

 駆け出す。跳ねる。回る。ぴたっと止まって。信号が変わる瞬間に、もういちど、跳ねる。

 遠くで車の走る音が聞こえる。近付いてくれば、歩道に逃げるだけ。いまの私は、交差点の真ん中。この十字路が、私にとっての世界のすべて。

 たのしい。跳ねる。回る。駆ける。

 オレンジの街灯も、赤と緑に切り替わる信号も、月の光さえも。すべてが私を照らしてくれる。私は、いま、ここにいる。

 踊れ。踊れ。私は、いま、世界の中心にいる。


 ***


「はっ、はっ、はぁ」

「すごい」

「うわっ」

「あっごめんなさい。見てたんです。コンビニのレジから」

「あ、ああ、コンビニの店員さんですか」

「はい。すごかったです。なんというか、綺麗でした」

「ありがとうございます。踊ってて綺麗なんて言われたの、はじめて」

「えっ」

「親から無理矢理やらされてた習い事だったので。ダンス」

「そうだったんですか」

「将来はダンサーとか言ってて。とんでもない迷惑ですよ。踊ってても怒られるし、踊ってなくても怒られるし」

「大変なんですね、踊るってのも」

「ほんとですよ。だから、意地でもダンサーにはならないって決めてるんです」

「えっ」

「事務の仕事につくのが夢です。秘書検定とか簿記とか取って」

「うわ実用的なやつ」

「えへへ。踊りなんかしんでも仕事にしねぇぞって思ってます」

「残念だなぁ」

「え」

「あっごめんなさい。踊り、きらいなんですもんね。忘れてください」

「なんで残念なんですか?」

「いやあの、ごめんなさい」

「きかせて」

「近い近い」

「あっごめんなさい。汗とかついちゃった」

「いやあの、こんなに夜に融けて踊るのがうまいのに、踊りの仕事をしないなんてもったいないなって」

「もう一回言って」

「いやあの」

「もう一度」

「踊りの仕事をあきらめるなんて、もったいないなって」

「違う」

「近い近い」

「その前のところ。夜になんて言ったの?」

「あ、夜、ええと、夜に、融ける?」

「夜に、融ける」

「ごめんなさい」

「うれしい。私の名前、融っていうの。あの、あなたは?」

「私ですか。山です。山と書いて、山」


 ***


 その日を境に、私の踊りは変わった。


 コンビニのレジの人のことを考えながら、踊るようになった。そして、踊るとき必ず、夜の雰囲気や匂いを思い出しながら動いた。


 自分でもびっくりするぐらいに、周りが変わっていった。おこられることがなくなった。踊り終わったあと、見ていた人や先生が拍手するようになった。


 親は、踊る私を見て泣いてた。もう何も言うことはない。あなたの好きな道を選びなさいとか最近は言い出しはじめている。私の教えた踊りは間違ってたとかなんとか。


 簿記や秘書検定の勉強をやめて、踊りを練習するようになった。

 毎日、夜が待ち遠しかった。


 夜に踊るんだ。コンビニの前で。私の交差点で。あのひとの前で。また、綺麗って言ってもらえるように。


 ***/


「お茶、飲みます?」

「飲みます。踊ると喉かわいちゃって」

「アイスもありますけど」

「アイスっ」

「お茶と一緒にどうぞ」

「ありがとうございます」

 年齢の分からない、女の子だった。小柄。ショートヘア。お茶を飲んでアイスを食べている姿は高校生ぐらいに見えるが、踊りはじめると明らかに二十才から三十才ぐらいの整った姿に見える。

「おいしい」

 事務の仕事がどうこうと言っていたから、おそらく大学生ぐらいだろう。秘書検とか簿記とか言っていたし。

「毎日の楽しみなんです。ここで踊るのが」

「そうですか。よかった。私もあなたが踊るのを見ていると、夜勤も悪くないなって思えます」

「うふふ」

「近いです」

「あっごめんなさいまた汗が」

 この女の子の汗。不思議な匂いがする。登山した霊峰の、山頂の香りに似ているかもしれない。

「今日はタオルを持ってきました」

 彼女が、私の首筋についた彼女自身の汗を拭き取りはじめる。

「あの」

「あっのど動いた」

 喋れねぇ。

「はい。大丈夫です。どうぞ」

「そのタオルで、ご自分の汗を拭えばよろしいのでは?」

「え」

 女の子。目がおっきく開く。

 そして、頬を赤くして、縮こまる。


 ***/


 なんか動きが、ちょっとずつ、ぎこちなくなっていった。なんか違う。夜と一緒になれてない。踊りの質が変わってしまった。

 しかし、先生と親の絶賛は増した。拍手もたくさんもらえるようになった。そしてなぜか、男女問わず、もてはじめた。

 デートの誘いを片っ端から断った。

 そもそも、たいしてかわいくもないし、胸も小さい。こんな女のどこがいいのかわからなかった。

 私は、コンビニのレジの人にさえ見てもらえればそれでいい。

 コンビニのレジの人。

 タオルで首についたわたしの汗を吹いたときの。のどの動き。

「あっ」

 わかった。

 夜と一緒になれてない理由。動きがおかしい理由。

「あのひとに、見てもらいたいんだ。世界の中心とかじゃなくて。あのひとに、私を」


 ***/


 踊りが、明らかに違っていた。

 誘っている。何かを。

 表現を志した者だけが理解できる、感情の機微。心の質感。伝えたい思い。情念。

「参ったな」

 コンビニの夜勤の分際で、もしかしたら、すさまじいものを見せてもらっているのかもしれない。

 あのとき感じた、山の頂上のような匂い。表現の頂を目指す者の匂いということか。

 忘れていた感情が、踊りと共に呼び起こされていく。

 描きたい。

 もういちど。

 私の中にある、絵を。

「これは、お茶とアイスじゃ足りないな」


 ***


「は、は、はぁ」

「おつかれさま」

「みて、くれました?」

「ええ。すごかったです。いままでとは違う」

「ほんと?」

「あなたも、表現者なんですね」

「ひょ、表現?」

「私もなんです。まあ、昔の話ですけど」

「何か、やってたんですか」

「ええ。おっと」

「あれ、近付けない」

「ちょっと今日はくっつかれると差し障りがあるので」

「なんですか差し障りって」

「気にしないでください」

「気になる」

「画家だったんですよ」

「がか?」

「お絵描きです。山の景色を描いてて。実は私の絵は7桁の価値があります」

「えっと、え、ひゃくまんえん」

「うそです」

「びっくりしたぁ」

「8桁の価値を出したこともあるので」

「いっせんまっ」

「真に受けないでください」

「あ、へ、なんか、その、すいませんでした。こんな中途半端なおど、踊りを」

「いやいや。ただのコンビニの夜勤ですから。いつも楽しみに見てます」

「え、えへ」

「おっと」

「なんで離れるんですか」

「差し障りがあるので」

「なんですか差し障りって」

「あなたの感情を私は理解できます。表現を志す者なので」

「あ」

「そういうことです」

「あ、いや、えっと」

「うわ、かわいいな。そうか、恋愛感情は初めてなのか」

「はい。はずかしながら」

「私もです」

「えっ」

「だからなんというか、差し障りがあるので」

「差し障りって何」

「ご想像にお任せします」

「最近私も、もてるんですよ」

「そうなんですか。キャンパス内では引く手あまたでしょうね」

「キャンパス。絵の?」

「いえいえ。大学の」

「大学?」

「そういえば、毎日のように夜ここに来て踊ってますけど、大丈夫ですか勉強とか」

「学校で寝てます。授業中とか」

「やっぱり。だめですよ。授業はちゃんと受けなきゃ」

「大丈夫です。一次関数とかヨウ素反応とか、教科書読むだけで分かりますよあんなの。みんなばかみたい」

「えっ」

「どうしました?」

「すいません、あの、差し支えなければ、どこの学校なのか教えてもらっても?」

「そこの中学です。この道進んだ先の」


 ***/


 わかった。

 あのひとが、私の感情を分かると言った。それと同じで、いま、目の前にいるあのひとの、感情が、わかってしまう。

「え」

「そうか、中学生か」

「待って」

 近付いた。抱きつく。

「まって」

 差し障りがあるといった。いまのあなたは。差し障りがないのか。目に、私の姿が、写らないのか。

「なんで」

「なんでも何も、あなたが中学生で、私が二十代後半だからですよ」

 年齢。

 年齢に差し障りが。

「なにそれ。十才ぐらいしか」

「夜間に女の子がひとりで外出しちゃいけません。もうここに来てはいけない」

「なんで」

「あなたが中学生だから」

「中学生だからなんなの。あなただって」

「やめておけ。苦しいだけだぞ。そこらへんの同世代と青春を過ごせ」

「なんで、どうして」

「わるかったな、俺が声をかけたのが、間違いだった」

「まって」

「すぐに帰れ。次ここに来れば、学校にでも電話するぞ」


 ***


「あぁ。俺だ」

『おう。どうした山オナニー野郎』

「やめろその呼び名は」

『てめえ私の結婚式にも来ないでどこぞのコンビニでバイトしてたって聞いたぞ。ころすぞ?』

「お前の結婚式に俺が出てどうする」

『出ろよ。そして私の身柄を結婚相手から奪うとかなんかこう、あるだろうが』

「ねぇよ」

『山オナニー野郎が。オナニーしすぎでしね』

「仕事の依頼だ」

『は、あ?』

「聞こえなかったか」

『仕事ってお前、もしかしてまた』

「描く。準備ができた」

『山オナニー野郎。ついに、ついにお前、また筆をおろす気になってくれたのか』

「お前、夫の前でもそんな口調じゃないだろうな」

『黙れ。てめぇが山としかセックスしねぇから仕方なくこうなったんだろうが』

「すまない」

『謝るなよ。てめぇ、その口ぶりだと、女ができたな?』

「いや」

『ごまかすなよ。てめぇが山でしゃせいするのを私が一番近くで見てきたんだ。あんたのを復活させるのは、間違いなく女だ。極上の。で、どんな女だよ』

「中学生」

『は、あ?』

「ガキだよ。一次関数とかヨウ素反応とかやってる中学生のガキ」

『おまっ、は、犯罪じゃねぇか』

「だよな」

『せめて私とかにしとけよ。不倫になるけど不倫で捕まることはねぇぞ。さすがに中学生は、おまえ、捕まるぞ』

「だよな」

『おまえ』

「だから、断った。そして俺は、山に籠る」

『そ、そうか。わかった。とりあえず準備はする。また霊峰だの険山だのにするか?』

「いや、普通の山がいい」

『普通の?』

「その辺にある、標高四百メートルぐらいのやつだ。普通の山がいい」


 ***/


 踊れなくなった。


 先生も親も、めちゃくちゃ優しくなった。そして、もてなくなった。


 次の日の夕方、夜を待ちきれずに交差点に向かった。人通りのある交差点。コンビニのレジ。違う人がいた。夜を待った。あのひとがくるのを信じて、ずっと待った。

 夜の23時。コンビニが閉まった。


 私の心も、閉まってしまったみたいになった。


 次の日も、その次の日も、コンビニは23時に閉まった。


 コンビニの灯りがない交差点に立って、踊ろうとした。


 足が。手が。心が。出てこない。


 踊れなくなっている。足に蔦が生えて、コンクリートとくっついている感じがする。


 コンビニ。灯りがない。


 いや。


 明かりが点いた。


 走った。蔦がどうとか、一気に頭から吹っ飛んだ。



 コンビニのなかに入った。


「あら、かわいいお客さんだこと。いらっしゃいませ。ようこそコンビニエンスストアドリームロールへ」

 違う。

「あ、あの」

「あっ私の名前ですか。甘味です。甘味と書いて甘味。そのままです」

 あのひとは。

「ちがくて。えっと。夜勤の」

 あのひとはどこだ。

「ここで夜勤をしている人は、どこ、ですか」

 いない。どこに。

「ああ、山さんね。彼は遂に夢を取り戻したのよ。ここを辞めてもう本職の仕事に戻ったわ。ドリームロールの深夜営業はなくなりました。23時で閉まります」

 いない。

「あ」

 あのひとが。いない。

「あああ」

「ちょ、ちょっと、どうしたの」


 ***/


 厄介な客が来たな。

「なんで泣いてるのよ。ちょっとちょっと」

 女の子。たぶん、同世代。

「小間、美田ちゃん。さっきの新作持ってきて」

 仕込み途中だったが、しかたない。このギャン泣きしてる女の子で試すか。

「小間、はやくしろ」

「小間遣い荒いんだからもう」

「持ってきましたっ」

 美田と小間が走って現れる。新作のお菓子。ロールケーキ。

 袋を破って、泣いている女の子の口にぶちこむ。

 女の子。

 音が、というか呼吸が、止まった。

「あれ」

「喉に詰まってないですか?」

「いえ、大丈夫です」

 美田の見立て。

「お、大丈夫だ」

「よしありがと。ふたりともたすかった」

「いえいえ」

「じゃあ仕込みに戻りますね」

「おねがい」

 さて、どうしたものか。

 目の前の女の子。

「あの、どうしてここへ」

「ごめんなさい帰ります」

「いやいやいや。帰るなよ。気になるよ。教えてよ?」

「おかし」

「ん?」

「さっきのお菓子をもう少しください。それが条件です」

 がめついな、こいつ。

「いいよ。食えよ」



 食いながら、話し始めた。

 コンビニの前で夜に踊るのが楽しかったこと。夜勤のおっさんに声をかけられたこと。恋をして、踊りがうまくなったこと。中学生だというのがばれて、おっさんがいなくなったこと。

「はぁ、そんな経緯が」

 山さん意外とやるな。中学生をひっかけるとは。

「あのひとはいまどこですか。教えてください」

「訊いて、どうするの」

「え」

「訊いて、会って、どうするの」

 無言。

 はじめての恋愛で頭のねじが飛んでいっちゃったタイプか。

「美田ちゃん」

 とりあえず、美田を呼んだ。うちで美術の心得があるといえば、あの子だろう。

「はい。美田です。お菓子の増量ですよね?」

 気が利くねぇ。

「うんありがと。あとなんかこの子ね、山さんに恋したんだって」

「は?」

「なんですか」

「え、この子だって」

「中学生だってさ」

「はぁぁ?」

 美田。見たことないような顔。

「なんですか」

「あなた、山さんの絵、知らないでしょ」

「うぐ」

 おっ。

 なんか分からんけど中学生の女の子に効いたぞ。

「あなたみたいなガキが、本当にあのひとと同じ場所に立てると思ったの?」

「うぐ」

 なんだ。すごいなうちの美術班。

「あの人の前でしか踊れないみたいな顔してさ、あなた、はずかしくないの。山さんの絵は、誰が見ても認める最高の絵なのよ。あなたの踊りは誰が見てもはずかしくないものになってるの?」

「う、うるさい」

「そんなんじゃただのガキね。一生かかっても山さんにたどりつくのは無理よ。あきらめておうちでねんねしなさい」

 やばくないか。

 美田。去り際、耳打ち。

「たぶん山さんの夢を取り戻させたのはこの子です。踊りも見たことあります。育てれば、大きくなると思います」

「おっけ」

 目の前の女の子。震えている。怒りと、やるせなさと、悔しさ。

「ねぇ、あなた、うちでアルバイトしない?」



 ******/



「おう。戻ったか。今回は長かったな。どうする。すぐ次の山を抱きに行くか?」

「いや、一旦やめる」

「そりゃあ、休みなしで全国津々浦々の平凡な山を登りまくってるからな。それも三年間。いいかげん疲れたろ」

「疲れたというか、ちょっと甘いものが食いたくなってな」

「コンビニか。行くんだったら私にも差し入れをくれ。ようやくガキがまともなめしを食えるようになったんだ」

「そうか、子供が生まれてからもうそんなに経つか」

「あぁ。てめぇが自分勝手に山でしゃせいしてる間に命が育まれたよ」

「おまえ、子供ができてもその路線で行くのか」

「黙れ山オナニー野郎」

「おい」

「あ、なんだ山オナニー野郎」

「あれはなんだ」

「あ。てめぇニュースとか見てねぇのかよ」

「ああ。教えてくれ。どうなっている」


「世界的ダンサーの公演だよ。なぜかこの街に縁があるらしくて、定期的にここに来るんだ」


「チケット、取れるか」

「即日完売。秒レベルさ。今からやっても無理だ」

「そうか」

「へへ。私を誰だと思ってやがる。てめえが山でしゃせいしたあとの紙を売って大儲けしてるんだぜ。ちょっと待ってな。ほら。VIP席だ。存分に楽しめよ。公演開始は、ええと、14時半だ。走れば間に合う」

「ありがとう」



 会場。駆け込んだ。


 公演。ちょうどいま、はじまるところ。VIP席というのは本当らしく、完全個室だった。とりあえず、近場にあった水とお菓子をいくつか流し込む。


「あ?」


 ドリームロールのお菓子だった。


「なんでここに」


 しかし、どうしようもなく、美味い。走った身体に染み込んでいく。最高の味。


 幕が上がる。


 彼女がいた。


 3年前と変わらない顔。変わらない雰囲気。


 踊り。


 違っていた。三年前のものではない。


「これは」


 俺の描いた、山か。


 踊りから、山の匂いがする。


 彼女の匂いと山の匂いが、混ざったような踊り。


「すごいな」


 俺の描いた山が、踊っている。



 踊りが、終わった。

 会いに行きたくなる心を、なんとか閉じ込めた。

 彼女の踊りは、俺に向けたものではない。いま会えば、俺の心で、彼女の踊りを壊してしまうかもしれない。

 それは、できない。


 もう、会うべきではない。彼女は、私を喪失したことで、芸術性を獲得した。


 席を立った。

 とぼとぼと、歩く。

 三年前のあの日。突き放さず、差し障りのあるまま抱きしめていれば、どうなっただろうか。彼女を、得られたんだろうか。

 彼女は、私にもういちど描く力をくれた。そしてそれは、三年間も私を山と向き合わせてくれた。

 その三年間よりも大事なことが、あのとき、抱きしめていれば、得られたのではないのか。

 彼女の思いを、突き放さず、受け止めていたら。


 考えても、仕方のないことだった。


 ドリームロールに挨拶だけして、また、山に戻ろう。たぶんしばらくは、描けない。

 彼女の顔が、踊りが、目に焼きついてしまったから。この失恋を、表現する術を、持っていなかった。


 電話。

『どうだった。最高だっただろうが』

「ああ。素晴らしかった。彼女にはもう会えないな。すぐ山に戻るよ」

『なんだてめえ失恋したみてえな口調で』

 電話を切った。

 誰とも話す気にならないし、誰とも会う気になれない。

「ドリームロールのお菓子が、食べたいな」


 ***/


 電話。

「はい」

『おまえが。おまえなのか。本当に』

「誰?」

『三年前。山に関する画家と会ったことは。その相手と、恋愛関係にあったか』

「あなたは」

『その人の下ネタ敏腕女マネージャだ。いいからこたえろ。はやくしろ。たのむから』

「そのひとは、私の初恋相手です。その人に会うために私は」

『そうか。お前なのか。なんてこった』

「あの、せめて名前を」

『いいかよく聞け。山オナニー野郎がこの街にいる。おまえの公演をさっき見て、なんか変な勘違いをしたらしい』

「あの」

『追ってくれ。たぶんあいつは前勤務してたコンビニに顔を出すはずだ。はやくしろ。あいつの創作の源泉は他者を愛する心だ。山を通して誰かを恋い焦がれてる。たのむ』




 コンビニに、駆け込んだ。もう夕方。

「甘味さん」

 四年前も、こうだった。いなくなったあのひとを追って。

「あのひとは」

 四年間。自分を磨き続けた。あのひとの絵を見て、あのひとに釣り合う女になるために、全てを懸けた。

「ごめん融ちゃん。引き留められなかった。もう会うつもりはないし連絡もしないでくれって」

 喉から出かかった嗚咽。歯をくいしばって耐えた。

「あのひとは」

 まだだ。まだ。

「あのひとはどこに」

「わからない。ごめんなさい」

「くそっ」

 落ち着け。落ち着くんだ私。ここで終わるわけにはいかない。

「美田先輩。お菓子をください。あとお茶」

 奥から美田先輩が走ってくる。

「行きなさい融。山さんはたぶん空港よ。あのひとは山のひとだから、何をやっても山に戻る。飛行機を腕ずくでも止めてきなさい。はいこれお菓子とお茶」

「ありがとうございます。行ってきます」


 ***/


 吹けば飛ぶような、小さな空港。ガラス張りの窓。滑走路。のろのろと動く飛行機。

「おい、本当にいいのか」

「なにがだ」

「このまま行って」

「なんのことだ」

「おまえの恋人があのダンサーだって、私は知らなかったぞ」

「言わなかったからな。それに、恋人でもなんでもない」

「くそっ。おい、もう少し待ってくれ」

「待たないよ。ドリームロールでも引き留められたけど。俺に彼女と会う資格はない」

「三年前、じゃねぇ四年前に喧嘩別れしたからか?」

「そうだ。中学生じゃな。さすがに」

「この腐れオナニー野郎が。いいかげん山だけじゃなくて現実の女を抱けよ」

「いやだね。二度とごめんだ。俺は、死んだ姉の、愛妾だった。だから、人を愛するというのがわからん」

「んなこと知るか。一人の女がおまえのために」

「黙れ」

「うっ」

「おっと。すまん。つい」

 睨みつけてしまった。

「だから、私も抱かなかったのか。おまえが、近親の恋仲を経験してたから」

「もういい。やめろ。震えてるぞ」

「こわいよ。あんた、そんな顔するなんて、思わなかったから」

「すまない」

「待て。待ってくれ。たのむから」

 腕。振りほどいた。


 ***/


 目で探した。

 空港側は私が来ることも、滑走路で踊ろうとしていることも、知っていた。インカムだけ持たされたので、管制塔と通信ができる。たぶん、甘味さんが、手を回してくれたんだろう。

 なんだっていい。踊れるのなら。

 私は、世界的ダンサーだから。このために、世界的ダンサーになったのだから。


 滑走路。

 夜。


 条件は、そろった。あの人がどこかにいる。

 目で探した。

 必死に。

 ガラス張りの窓。

 ひとはそんなに多くない。


 どこ。


 どこにいるの。


 私は、あなたに愛されたくて、ここまで来たの。


 おねがい。


 私に見つけさせて。


 あなたを。


 管制塔。

『いやあすごいなあ。世界的ダンサーのサプライズダンスを空港で見れるなんて。すべての準備が整いました。どうぞ。音楽も』

「いえ。必要ありません」

 見つからない。

 違う。

 隠れてるんだ。


 なら。


「あの、管制からアナウンスで私の声って、出せますか」

『はい。可能です』

 よし。

「おねがいします。ひとことだけ、しゃべらせてください」

『どうぞ』

 落ち着いている。振り向かないあのひとを、ふりむかせるんだ。


「わたしは、あなたが、好きです。四年前からずっと。今も」


 ガラス張りの窓の向こう。


 ひとりだけ、声を聞いて振り向いたひとがいる。


 見つけた。


 ようやく。


「今も。好きです」


 足先から、指先まで。頭のてっぺんから、胸、腰、そしてかかとまで。


 踊ろう。

 あのひとのために。

 もういちど、世界の中心を、ここに戻す。


 オレンジの明かり。月の光。コンビニの看板はないけど、ガラス張りの窓はある。


 全てを込めて。








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