第11話 2021年夏―緑の風を追って②

「教え子からそがん風に言われる日が来るとはな。そいよりも大野、遊びに出かけん、大学の対面授業が不安定、生活面の工夫も強いられるこの情勢だけが言い訳でも無かやろうが。お前が走らんごとなったとは、ん?」

 美鈴の鬼灯ほおずきは跡形もなくしぼんだ。美鈴が墓前で屈むと、うなじは完全に日焼けが落ちていた。

 日焼け止めクリームの耐水性が発達する昨今でも、野外運動部員である以上、肌の日焼けはある程度覚悟する定めである。

 佐奈子は美鈴の実家が娘の美容費に多金を積むほどの富裕層でないことも知っている。

 また母校・聖マリアンヌ女学園に美鈴の活躍が届かなくなっていた。

「監督には敵わんですね」

「私の方が選手人生の長かし、今でも色んな部員ば見てきとるとぞ。教え子の行く末だって、何万通りもある……えど、そいはあくまで自分に正直な生き方の一通りだ。お前は何に囚われている?」

「私、走りたかゴールの変わったとです。そんために大学ば辞めました」

どうしてなして? ご家族は?」

 佐奈子は供えられた菊花と視線の高さを合わせて、美鈴の左肩に手を置いた。控えめに手を引くと、美鈴から選手の眼光が失せていた。

「説得に時間かかったとけど、両親の了承のもとでの退学だったんで。今は地元でバイトに勉強にと大忙しです。そいもこいも、学費と新しかゴールのためです」

「ご両親に反論する気は無かばってか、こいまで選手人生ば支えてくれた人たちに後ろめたくはなかったとか? そいに大学だって、確か教育学部だったか、そこんでは辿り着けんゴールだと言ぅとか?」

 美鈴は静かに頷いた。佐奈子に美鈴を責めている気が無いことを理解していたが、合掌する両手と閉じた両瞼が微震していた。

「私を応援してくれとった人皆には、自分の未熟さを含めて申し訳なかと思ぅとります。母校の名に傷ば付けてしもうたことも。そいけど陸上ば辞めとって教育学部ば卒業しても、私は後悔ば墓ン中にまで持って行くだけやけん。私は……私はば見付けたかとです。罪悪感……は少しあるばってかそがんとじゃなくて、もっと前向きな気持ちで。そう、風が自由に生きる場所ば求めて」

「か……ぜ?」

 美鈴は頷いた。佐奈子が左肩から手を離すと、美鈴の微震は治まっていた。

「ばってん、見付けたからと言ぅて観光なんかで見せびらかす気はいっちょん無かとです。風の住処の人たちば守生き方ばしたかだけやけん」

 美鈴は立ち上がり、バックからスポーツ・ドリンクを取り出した。

「そがんワケで、私は監督の脱水症状にまで付きぅとる暇なんて無かとです」

 佐奈子にペット・ボトルのドリンクを押し付けると、美鈴は真奈美に背を向けて去った。

「新しか……ゴール、か」

 佐奈子が墓地を去るころ、一匹の蜻蛉トンボが舞っていた。

 美鈴が短距離選手としての未練を捨てきれていないことは明らかだった。佐奈子自身が長く陸上と関わっていく中で、ライバルに勝てないまま引退する選手を毎年見届けてきた。

 美鈴にとって最後のライバルは俊足の瑚子だった。本来プライドの高い美鈴だが、皮肉なことに悔しさを感じる前に激動が起きてしまった。

 二人の後輩と関わり続ける未来を奪われ、美鈴は鈴鳴すずなりよりも小さな小さな声で禁句を提案した。

 それから約一年が過ぎても、美鈴は未だに瑚子をリレー専門の選手にした理由を訊いてこない。

 美鈴が自尊心よりも誇りを選んだ証である。

 これまでの選手とは異色の風が新しいゴールの先をも突き抜けることを、佐奈子は切に願う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る