巡る縁①

第10話2021年夏―緑の風を追って

 この年、全国インターハイは開催されなかった。世界各地で新型感染症の牙が残る中、マスク着用での競技は選手が命の危機に晒されるだけだ。協会が判断を下した以上、全国に散る選手や関係者は従わずを得なかった。

 特に屋外での競技は実際の気温を体温が超えかねない。選手だけではなく指導者、応援者、審判者にとっても、会場が処刑場としてしか感じられなくなる。陸上競技も例外ではない。

 室内競技は常時換気という条件のもと長崎県大会のみ実施されたが、屋外競技は地区予選すら許可されなかった。

 引退を控えた上級生は落胆し、私生活よりも競技人生を優先させたことを後悔する生徒もいた。中には人生を終わらせたい、死んだも同じだという嘆きもあったが百武佐奈子の喝一つですべての声が呑み込まれた。

 長崎県長崎市の私立聖マリアンヌ女学園陸上部では昨年、禁句が一つ定着した。

 心身的な「死」を表す類のすべてである。

 軽い気持ちでの発言は佐奈子の逆鱗により触れやすく、心底からの反省が佐奈子に認められるまでレギュラーから外された部員が一年で十五人もいた。

 そのうち何も成せずに引退を余儀なくされ、二度も佐奈子の逆鱗に触れた部員は十人もいた。

 佐奈子が「死」に対して過敏な反応を見せる理由は、昨年の一年生、二年生から新入生に語り継がれている。


「大野、来てくれたとか」

 佐奈子が振り向くと、成人したばかりの卒業生・大野美鈴が白い菊の束を両手に抱えていた。昨年より伸びた髪を編み込んで、後頭部で纏めていた。

「福岡にまであいつの暑苦しか体温が来るんですものとですよ来なかったらこんかったら家や大学のエアコン壊しに来かねんけん」

「谷崎はガサツか性格ではなかったはずやけど? まぁ、お前の周りで騒ぐのは間違い無かけどな」

「ああ、ガサツかとはどっちかと言えば……。いや、これをこいば言っいぅたら、私は二人とも守れんけん。元部長としても、一個人としても」

 美鈴は菊の束を墓前に手向けた。墓石に刻まれた金色の文字は長崎県のみの伝統習慣であり、美鈴は自身が帰省したことを痛感した。

「一年経っても、あん頃に戻りたかって毎日思いますよ。短距離選手の私がグラウンド何周分も追いかけ回されとった、二年前に」

「そう言ぅてくれるとは、お前だけだ。本音を言えば、偲ぶ生徒がもってって欲しかけど、そうやったらもう一人が傷つくけん」

 佐奈子も美鈴も、とは言わない。二人が固く誓ったルールだからだ。

 そのうちの一つが、瑚子の名を決して声に出さないことである。

 トビヒ族狩りが年度末に終結して、日本に住む人間はようやく落ち着いた生活を取り戻した。

 今では熱中症や未だ猛威を振るう新型感染症で医療従事者が悲鳴を上げて、メディアや評論家が騒ぎ立てているが、佐奈子と美鈴はそれすら平穏だと思っている。

「そいや監督、ついに日傘デビューですか。正直、あんまり似合におぅとらんですね。その……白無地のフリル付きとか」

仕方のしょんなかやろう。元選手といぅても、私だって歳を取るけん。サンバイザーは日ごとに薄ぅなる頭髪ば守ってくれんし。こいだけ猛暑になっとるとに、未だにこがん地味か日傘しか売っとらんとさ。なぁ大野、福岡の洒落た店で私に似合うデザインの日傘ば買ってこぅて来てくれんや?」

 美鈴の両頬は簡単に破ける鬼灯ほおずきとなり、マスクにハンカチを重ねて、声が噴き出るのを封じている。強い衛生概念は両県下でも、日を追うごとに深く根付いてきている。

 サングラスに覆われた裸眼で、佐奈子は相手に表情を読まれにくい。それでも、このときばかりは上擦った声で羞恥が美鈴に伝わった。

「福岡にあれば、とっくにお土産に買ぅて来てますよ。でも赤メインとか、ビーチパラソルみたいなのごたるととかこっちでも中々……ですね。そもそも私だって練習で頻繁に出かけられんとですよ。だけん、監督には健康な体で日傘ば気長に待ってもらわんばとです。新型ウィルスば自ら捕まえて、あいつの後を追ったらだめでけんですよ!」

「教え子からそんな風に言われる日が来るとはな。そいよりも大野、遊びに出かけん、大学の対面授業が不安定、生活面の工夫も強いられるこの情勢だけが言い訳でも無かやろうが。お前が走らんごとなったとは、ん?」

 

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