奈良町、妖怪見聞録

第69話

 夫婦で大黒様が祀られているのは、日本でここだけという珍しいお社がある。その名も夫婦大黒社といい、そのまんまの何のひねりもないネーミングだ。しかし、夫婦仲を願う人々やカップルたちの縁結びのスポットとしては、壮絶な人気を誇っている。


 春日大社のご本殿とは反対側にあり、かのおん祭りで有名な若宮社よりももっともっと先にひっそりとたたずんでいる。だが、行けば大きな立て看板とピンク色のハート型の絵馬があちこちに吊るされており、なんとも平和的、かつ愛に満ち溢れた一角となっている。


 妖怪こそいないものの、そこに水瀬みなせが行きたいと言い出したので向かったのだが、そういえばきちんと春日大社にはお参りに行っていなかったなと今さらながらに思う。


 こんなに涼しくていいところに、なんで今まで来なかったんだと後悔するくらいに、春日大社の鎮守の森の涼しさは別格である。


 苔むす石灯籠が並べられた緑が深い参道は、入った瞬間に空気感ががらりと変わるほどに澄み渡り、そして鹿たちがあちこちでくつろいだり灯籠から顔を覗かせるいかにも古都らしい姿は、写真におさめるのにはうってつけであった。


 広い参道を二人で歩くのだが、これが案外に遠い。一の鳥居から春日大社まではゆうに一キロはある。舗装されていない道を歩くのには、それなりの運動靴で来ないといけない。間違ってもヒールで来るなど言語道断なわけで、すでにこの地の歩く文化に慣れっこになっている水瀬も、ばっちりと歩きやすい靴で来ている。


 夫婦大黒社と聞いて、まさかまだ恋人ですらないのにしゃもじでも奉納するなどと言い出だしたらどうしようという俺の不安をよそに、今朝も民子と弥生は阿呆みたいに水瀬と意気投合をしていた。


 お守りを買うと良いだの、絵馬は書くのか、水占いも良いとガールズトークに花を咲かせている。俺は窒素か酸素の親類かと思われる我が父に、助けを求める視線を送ったのだが、「うん」と穏やかな顔で満足そうに頷かれただけだった。


 このままでは水瀬が、家族公認で恋人をすっ飛ばして家族になりかねない勢いである。俺は朝食が繊細な喉を通らず、恐ろしさのあまりに小人ほどの食事しかとることができないまま、あっつあつの道を歩いて逃げるように、涼しい参道に入り込んだのであった。


「日本でここだけなんですってね、夫婦で大黒様が祀られているの。奥様はスセリビメノミコト様というのね、知らなかったわ」


「ちょっと聞いておきたいんだけど、何のために行きたいわけ?」


「あなた阿保ですか。夫婦円満、亭主あすか元気で留守がいいのお願いよ」


「待て待て待て。どこからツッコめばいい?」


 それに水瀬は意味深な笑みを見せるだけに留まり、俺にはもうこの世の中の女性というものを理解するのは不可能であると感じていた。理解できたところで、どうにもこうにも対策が打てるわけではない。


 だから、世の中の男子は我が家の父のように、おとなしく女子に尻に敷かれているくらいが、丁度いいのだと思っている方が楽かもしれない。


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