第70話

 そんなこんなで歩いていると、神社の境内だろうが何だろうがお構いなしに鹿たちが闊歩している。春日大社の裏手には御蓋山みかさやまという人間立ち入り禁止の山があり、奈良時代より守られてきた鎮守の森が広がっている。


 人は入れなくても鹿たちは行き来自由であるから、そこからちらほらと鹿たちも現れては消えて行くのだ。


 そんな御蓋山の麓ギリギリを歩く形で向かう。夫婦大社に入ってお参りを済ませ、水占いにてまたもや散々な結果を露呈した水瀬が、口を尖らせつつも周辺を歩いている時に、山の影から真っ白な牡鹿が現れた。


「水瀬、白い鹿だ。俺初めて見た……春日の神様は白い鹿に乗って来たって言われているから、おみくじは散々でも、縁起がいいぞ」


 水瀬の腕を掴んで引き戻して鹿の方を指さして伝えると、水瀬が「普通の鹿はいるけれど白い鹿なんてどこにもいないわよ」と言う。俺は改めて目の前の白い鹿を見つめる。すると、誠に美しい歯並びを見せびらかしながら、その牡鹿は文字通りにんまりと笑ったのだった。


「げ。妖か」


『げ、とはなんだ、げとは。指を差すで無い、無礼者め。それに妖ではない、神使であるぞ、頭が高い。控えおれ』


 素晴らしい歯並びでいけしゃあしゃあとふんぞり返り始めたので、俺はうさん臭くなって鹿を半眼で睨んで沈黙する。すると、ふんぞり返った首を元に戻してまたもや『頭がたかーい!』とどこぞの格さんばりの勢いで言い放つ。


「ははー。とでも言うと思ったか、この俺が。まったく何なんだ最近の神様たちときたら。俺に対して、ちょっとくらい優しさってもんを持てないのか」


 俺がグチグチ言うと、そう来るとは思っていなかったのか、白鹿は怪訝な顔をした後にメンチをきってきた。何とも物騒な神使である。


「水瀬、俺には見えている白い鹿がいて、神の使いだから敬えってさ。どうする?」


「ははー。お鹿様お鹿様、どうぞ私の生涯の伴侶となります辻飛鳥つじあすかにおきまして、もう少しまともな感じに見た目だけでも見えるように、お鹿様の叡智によってお導き下さい」


「待て待て待て! 棒読み! それに何だそのいかがわしい内容は!」


 俺が慌ててツッコミを入れたのだが、水瀬の表情が真剣そのものだったのが良かったらしく、白鹿は『よかろう』となぜか機嫌を直してまたもやふんぞり返っている。


 俺ははっきり言って頭痛がしたのだが、二人はどうやら相性が良いらしい。声が聞こえていないはずなのに、なぜかかみ合った会話を始めてしまっていた。


 もうどうにでもなれであるが、白鹿が美脚をピシッと伸ばして決めポーズを取りながら眼光鋭くこちらを向いているので、俺はとっとと要件を済ませるように急かした。


『せわしない男は嫌われるで、辻飛鳥。それよりもなあ、今日はその妖怪本のことを教えてやろうと思って、わざわざ山頂から降りてきたのに、なんやそのなまぐさな態度はまったく、妖怪の風上にもおけんわ』


「おいこら、人を妖怪扱いするな。それより、妖怪本って、水瀬が後生大事に抱え込んで、棺桶にでも持って行きそうな勢いの、付箋を貼りまくって俺を連れまわそうとしている悪魔のようなあれのことか?」


『せや』


 それには興味があったので、俺は身を乗り出した。

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