ぼくの秘密基地(雨音と晴斗③)

胡桃ゆず

前編 嘘か誠か?

 毎日そこにいて、見慣れているはずで、知らないことなどないだろうと思っている場所。

 だけど、本当にすべてを知っているのだろうか。

 何にだって、まだ見えていない秘密などいくらでもあるはずだ。世界は、大きな、小さな謎をいくらでも持っているのだ。

 だからこそ、人生は八十年そこらでは足りないくらいだ。

 ましてや、ここは、数多の作家たちが生み出した謎に包まれた物語が書かれた本が、いくらでもあふれているような場所。

 何でもない場所だなんて考えない方がいい。

 本は、その扉が開かれていない時、どうしていると思う?

 

 その日だって、何でもないように思えた日だった。

 古書店の客足もそれなりで、特に目立って増えたり減ったりしているわけでもない、空模様も、それなりに晴れていて、それなりに雲もある。

 何でもそれなりの。

 だから、ふとした瞬間に欠伸も出そうになったりして、それで晴斗はこっそり雨音に呆れた顔をされる。

 どうということはない日。

 夏の終わりで、短い命を一生懸命叫んでいるセミの鳴き声も、少し変わって来ていた。だけど、まだ少しけだるくなるような暑さはあって。

「気が抜けてるね」

 きっぱりと、雨音に言われてしまう。

 今は誰もお客さんがいないのをいいことに、晴斗はだらっとレジカウンターの上に突っ伏した。

「平和っていいよね」

「そうだね……。ここが怪獣退治の指令本部じゃなくてよかったよね」

「どういう皮肉……でも、ここが怪獣退治の秘密結社の基地だったら、本棚が隠し扉とかになってて、その奥に本部があるんだろうなぁ」

「想像力豊かだね」

 最早、皮肉が皮肉と響かないくらいに、こんな雨音の言葉も晴斗にとってはいつもの、当たり前のことだ。

「ここはいろんな人の想像を売ったり買ったりする場所だよ」

 そう、それだって、当たり前のことなのに。

 雨音はぱたぱたとはたきで本の埃を払いながら、すっぱりと切り裂くように言う。

「ある意味ではね。でも、小さいころからもう二十年以上この店にいるけど、残念ながらそんな愉快な仕掛けはどこにもないし、ただの本を売り買いする場所でしかない」

「本当に?」

「え?」

 雨音の手が止まって、振り返った。胡乱な目をしてこちらを見ている彼を、晴斗は撥ねつけるように目を眇めた。

「でもさ、あの人が作った店だよ」

 あの人。雨音の祖父の雪也ゆきやである。

 晴斗が初めて会ったのは、高校生の頃に雨音の家に遊びに行った時だった。貫禄があるが、怖いというわけではない。かといって、柔和な雰囲気かというとそうでもなくて、近寄り難いわけではないが、馴れ馴れしくするような人でもない。雪也のことを人に話す時に、どう表現するのが一番正しいかと、十数年晴斗は模索していた。

 自分がどういう印象を抱いているかなら説明できる。

 自由な人だ。

 でも、それだけでは正しくない気もする。

 自分というものがはっきりしすぎていて、それ故に人の話を聞かないところもあり、どこか頑固でもある。

 格好良さと、面倒くさいところが紙一重。

 はっきり口にしたことはないが、雨音にとっては、尊敬する祖父なのだろう。

 変人呼ばわりされていると受け取られてしまったのか、少しだけ雨音の表情が硬くなる。

「何が言いたいの?」

「別に変な意味じゃなくて……あの人だったら、ここをただの本屋にはしなさそうだなぁって」

「確かに、そう思うのもわからなくはないけど……でも、そうかなぁ。もしそうなら、自分もまだぴんぴんしているのに、人に譲ろうなんて思わないんじゃない」

「それもそうかぁ……」

 なんとなく納得してしまったが、しかし何かが引っかかる。なんだか、言いくるめられているような。

 直感が働いた、というよりは、鼻が利いた、とでも言った方がいいのか。

「っていうか、さっきから何でそんなに否定的なの」

「何でって……」

「本当は何か隠したいことがあるんじゃないの」

「何をだよ」

 そうやって、うまく演技をしているつもりだろうが、晴斗にはわかる。なんとなく、察してしまう、無理矢理何かから目を背けさせようとしているそっけなさ。

「この店には何か俺が知らない秘密がある」

「そんなわけないだろう」

「本当に、何かの秘密結社の基地なのか」

 それは冗談だとしても。何か、晴斗には言えないようなことが、この店には隠されているに違いない。

 もう誤魔化しきれないと思ったのだろう。不意に、雨音の表情が真剣なものに変わった。

「……ああ、実はな……」

 思わず、晴斗はぐっとこぶしを握って力が入ってしまう。雨音も緊張を煽るように、声にも神妙な様子を漂わせていた。

 静かに鳴り響く空調の音が、余計にこの場の空気を張り詰めたものにする。

 雨音が、ゆっくりと口を開いた。

「ここは物語の管理組織なんだ」

「何?」

 物語の管理組織、だなんて言われても、それが何なのかピンと来ない。それは、本屋の別名なのか。

 いや、それにしても……。

 明らかに困惑している晴斗を見ても、雨音は真剣な表情を崩さなかった。

「本は閉じられている時、どうなっていると思う?」

「どうって……別に何も……」

 ただ、閉じられているだけだろう。何かあるわけでもない。けれど、雨音は冗談を言っているにしてはあまりに笑い飛ばせない真剣さだ。

 眼鏡が光を反射して鋭く煌めいた。

「じゃあ、言い方を変えよう。読まれない物語はどうなると思う」

「だから、特に何もあるわけないだろう」

「本当にそうか?」

「何を言って……」

 まるで、さっきまでの会話が逆転して、自分に返って来ているような状態に、晴斗はひたすら困惑するしかない。

 晴斗から視線を離さず、雨音はしばらく黙っていたと思ったら、不意に口元を僅かに歪めた。

「どうしてそんな顔するんだよ。……ここはいろんな人の想像を売ったり買ったりする場所だ、って言ったのは晴斗だろう。人がこんな空想みたいな話をし始めたら、困惑するなんておかしいよ」

「そ、そうだけど」

 動揺している晴斗を横目に見ながら、雨音は、手近にあった本を一冊手に取った。

「本はな……ずっと閉じられていると、言葉が逃げていく」

「そんな……」

「嘘だと思うなら、ずっと読んでいない本を振ってみるといい」

「振る?」

「ああ。そうすると、ぽろぽろと文字が零れ落ちてくるはずだ。ネズミがそれを食べて、物語は失われていく。ここはな、それを阻止するための組織のヘッドクオーターだ」

「まさか……」

「だから、隠そうとしたんだよ。誰にも気付かれずに、秘密裏に進めなきゃいけないことだからな。表向きは古本屋、というのは、いろいろ都合がいい。売られてくる本というのは、持ち主にとって読まなくなったものだから。ここにある本たちは、安全だよ。ちゃんと組織に保護されている」

「そ……そうなんだ」

「じいさんは、物語を守るために、秘かにそんな組織を結成して、ずっとこの店を治めて来た。だけど、いずれ誰かに引き継がなきゃならない」

 晴斗は固唾を飲んだ。静かな店内に、相変わらず空調が動く音だけが響いている。それなのに、じわじわと体温が上がって行くのを感じた。

「だから……雨音はここにいるのか。今は、その組織を雨音が仕切っている……」

「そうだね」

 相変わらず、冗談だよ、なんて言ってくれない。だから、晴斗も冗談で済ませていい話ではないようにしか受け取れなくなる。

 やがて、ぷるぷると小刻みに雨音の方が震え出した。そして、俯いて、耐えきれずに吐き出すように言う。

「……ごめん、もう駄目だ」

「……は?」

 晴斗が間抜けな声をあげたのが合図になったように、雨音は爆発したように笑い出した。店内に、雨音の笑い声の雨が降り注ぐ。

 唖然としている晴斗に、雨音は悪びれもせず言ってのける。

「ちょっと、晴斗の話に乗ってみただけ」

「え……何?……やっぱり嘘……なの」

「うん。常識的に考えてそうだろう」

 すっぱりと一刀両断するように、雨音は頷いた。

 そりゃあ、そんな話が本当なわけはないとどこかでわかってはいたが、あんなに真剣に話されると、信じる領域へ足を踏み入れないわけにもいかない。その微妙な心理を弄ぶとは、流石に怒らずにはいられない。

「ふざけんなよ……」

 晴斗はカウンターから出て、雨音に近づくと、はたきを奪って床に叩きつけた。雨音はさらに愉快そうに笑い声をあげる。ますますそれに腹が立つ。

 負のスパイラルとはこのことか。

「でも、そういう話が聞きたかったんだろう」

「だからって……」

「まあ、ほんの短い間ではあったけど、物語の中に入ったような気分にはなったでしょう」

「というより、どう受け止めていいかわからなかった」

 素直に言うと、雨音は苦笑した。

「冗談か本気かわかり辛いとな。でも、冗談や嘘だってわかってたらわかってたで、しらけるだろう」

 確かにそれは一理ある。だからといって、素直に納得できるかと言われれば、それは無理だが。

 憤りで気が散っていて、無意識に動かした足が何かに当たった。自分の足元に転がっていたはたきを、晴斗は誤って蹴ってしまったのだ。ころんと転がって、まるで吸い込まれていくように、はたきは本棚の隙間に消えていく。

 今、気が付いた。本棚と壁の間に、僅かな隙間があったのが。はたきはそこに入ってしまったのだ。はたきが入れるぎりぎりの隙間なのに、まるで二人にそれを気付かせるかのように、するりと入って行ったのは何とも不思議な話ではあったが。

「なんだ、この隙間……」

 明らかにこの本棚の向こう側に何かがあるのがわかるが、何があるのかまでは見えない。

 ざわり、と、血が騒いだ。

「なあ……もしかして……」

 晴斗が言わんとしたことを、雨音はすぐに察したようで、目を合わせると、そこに明らかに戸惑いの色があった。さっきまでの晴斗のように。

 そして、脳が思考を拒絶する言葉。

「いや……まさか……」

「でも……試しに本棚動かしてみようよ」

「いやいや……でも……」

「だって、明らかにこの向こう側に何かあるだろう」

 しばし躊躇うように、雨音は本棚を見つめていた。やがて、躊躇うような様子を見せつつも、ぽつりとつぶやく。

「……今日の閉店後、やってみるか」

「おうっ」

 まさか、物語が書かれた本を売っているだけだと思っていた場所に、本当に物語が隠されているなんて、冗談のような話が本当にあるかもしれないとは。

 あのじいさんは、本当に何をしでかすかわからない。

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