下層異文化社会

乙乃詢

下層異文化社会

 そろそろだ。長かった。

 既に穴が開くほど見つめた感熱紙を強く握りしめ、感慨にため息を吐く。

 三桁の数字が印字されたこの紙を手にしてから既に一時間が経過しようとしていた。今日は祝日ということもあって待合室は人でごった返していて、フロアを走り回る子供や近所のスーパーマーケットのセール品の情報交換をしている主婦の話し声で騒がしかった。

 なんとも間が悪いことだ、と最初は思ったが祝日に営業していることの恩恵はまさに今私も受けているため、ここは素直に喜ぶべきことなのであろうと思うことにした。

「386番の方、三番窓口へどうぞ」

 手元の数字を再度確認し、もう一度ため息をついて立ち上がる。尻を浮かせるとズボンの革材が革材シートのベンチから剥がれる音がした。

 長時間椅子に座っていたために若干痺れ気味な脚で少しふらつきつつ指定された窓口に行くと、四十代くらいだろうか、黒縁メガネをかけた女性が手本のような笑顔で目尻にシワを浮かべつつ出迎えた。

「本日はどうされましたか?」

「私、二層の者なんですが整備されずとり残されていた崖から滑落してしまいまして。気が付いたら三層まで落ちていたんですよ。帰ろうにも入層証がないもので、臨時入層証を発行してもらえませんか」


 偶然が重なった事故だった。

 程よい気温に珍しく散歩がしたい気分となり、歩き回っているうちに見たことのない抜け道を発見した。好奇心に負けて抜け道を進んでいくと、土が剥き出しになった崖のような場所を見つけたのだ。

 人類が地上に住むことができなくなり、地下に居住空間を移しておよそ二百年。ほぼ全ての階層の『スキマ』は整備されたものだと思っていたが、まさかまだあんなに身近に残っているとは思わなかった。『スキマ』がどうなっているか気になり崖の下を覗き込んだところ、脆くなっていた足元の土が崩れ、そのまま足を滑らせて落ちてしまった。

 地下は階層によって四つのカーストに分けられているが、カーストが違うと文化も違う。万が一別階層に迷い込む事態になると色々と面倒だと聞いてはいたが、自分には関係ないと思っていた。

 しかも、下階層の人間が奮発をして上階層に旅行に行くことはあっても、わざわざ上階層から貧乏人の住む下階層に遊びに行く物好きは滅多にいない。


「かしこまりました。それでは渡層パスポートをお預かりさせて頂いてもしてもよろしいでしょうか」

「え?あ、いや、なにぶん想定外のことだったものでパスポートは…」

 事故で落ちてきた人間が都合よくパスポートなんて持っているはずがない。

「左様でございますか…」女性は大変申し訳なさそうな顔をし「臨時入層証の発行には渡層パスポートが必要でして…。申し訳ないのですが、まず臨時渡層パスポートを発行して頂き、それを持って改めて窓口へいらして頂いてもよろしいでしょうか。申請書はこちらになりますので、ご記入のうえ二番窓口にお持ちくださいませ」

 臨時渡層パスポート申請書、と書かれた紙切れを渡された。 

「はぁ…」

 次の客を呼ぶ声を背にして窓口を後にする。舌打ちをして中央窓口のそばにあるマシンから整理券を毟り取り、申請書の記入のために記入台のあるスペースへと向かった。

 また並び直しか。イライラしつつ机に据え付けられたペン立てから鉛筆を一本手に取った。

 なぜ別で申請が必要なのだ。入層証を持たない人間がパスポートなんて持っているはずないだろうに。そもそもなぜ申請書が手書きなのだ。

 これが第二階層なら個人IDを参照すれば簡単に本人確認ができるからパスポートがなくてもどうにでもなるし、たとえ申請が必要であっても窓口のパソコンで窓口の人間が申請書を作成すればこちらはそれにサインをするだけでおしまいだ。効率が悪すぎる。

 市役所にくるまでの道中で嫌な予感はしていたが、よもやここまでだとは思わなかった。


 上階層の人間は下階層に行くことはほとんどない。それだけに第二階層の人間にとって、第三階層の世界は未知だった。

 第三階層に落ちてきて状況を覚った俺は、第二階層に戻るために階層の移動に必要な入層証を手に入れるため市役所を探すことにした。

 道ゆく人に尋ねたところ幸いにも市役所は落下地点から少し歩けばたどり着ける距離にあるようで、良い機会だと思い第三階層の人間の暮らしを眺めながら市役所まで歩いて移動することにした。

 道中の街並みを見ていてわかったが、第三階層の人間はひどく前時代的な暮らしをしているようだった。そこらじゅうを走るタイヤの付いた乗り物なぞ学生時代に歴史の授業で見て以来だったし、イヤホンマイクを使って大声でハンズフリー通話をしている若者とすれ違ったときは目を疑った。

 地上人類時代から公共の場での通話については賛否があったようだが、およそ百年前に脳内にアプリケーションをインストールできる技術が開発されてからは、そんな問題も過去のものとなった。年寄りの中には若いころに入れた脳内デバイスをそのまま使い続けている者もいるようだが、六十代以下の人間の殆どは脳内アプリで通話をしたり音楽を聴いたりしている。そんな時代にハンズフリー、つまり外部デバイスなんて化石を使った通話をしているとは…。

 

 書き終えた申請書に一通り目を通す。手書きの書類なんてものは片手で数えるほどしか作ったことがないため、なにか記入漏れがありそうな気がしてならない。手書き書類だから記入漏れエラー表示なんてものはない。

 しかしいつまでも書類との睨めっこを続けるわけにもいかないため、確認を切り上げて適当な空いている椅子へと移動し深く座り込む。

 電光表示を見上げて番号を確認すると、まだ百五十人ほどの先客がいるようで目眩がした。先程は一時間かけて約五十の番号をやり過ごしたため、今度は三時間ほどかかりそうだ。

 忌々しい。こんなもの、端末に情報を入力して処理をすれば一瞬で済む内容なだけに、行き場のない怒りが沸々と湧いてくる。

 待つしかない。ニュース記事でも見ようと脳内でニュースアプリを立ち上げる。が、表示されたのは見慣れたサムネイル表示のニュース一覧ではなく、真っ白な画面に無機質に浮かぶ『ネットワークエラー』の文字。

 最悪だ。どうも第三階層のネットワークに第二階層のアプリは対応していないようだ。一体それほど古い通信方式を使っているのだ。大抵のアプリケーションは大体が三世代前までの通信方式に対応しているはずだ。それよりも古い通信方式に対応するアプリはない。そんなに古い通信方式を利用したネットワークは存在しないからだ。少なくとも、第二階層には。

 ニュースを見るにも音楽を聴くにも本を読むにも、なにをするにもネットワークに接続してクラウドにアクセスする必要がある。

 つまり今の俺に出来ることは、泣き叫ぶ赤ん坊の声と下品なおばさんの笑い声を聞きながら、貧乏揺すりするおっさんの膝を眺めることぐらいなのだ。ここは地獄か。

 

 俺の人生史上、最も無意味で、最も退屈な三時間が過ぎた。

「543番のかた、二番窓口へどうぞ」

 ようやくまわってきた。

 ガチガチに凝り固まった肩や腰を軋ませながら椅子から立ち上がり、二番窓口へと向かう。窓口にいたのは二十代中盤と思われる栗色の髪をした若い女性だった。

「本日はどうされましたか?」

 先ほども聞いたマニュアル通りの質問。

 臨時渡層パスポート申請書を差し出す。

「訳あって二層から三層に落ちてきてしまったんですが、二層に戻るための臨時入層証の発行のためにはパスポートが必要なようで。臨時パスポートを発行してもらいたいんです」

「かしこまりました」

 申請書を受け取り何やら確認をしながら蛍光ペンで印をつけていく。蛍光ペンなんてもの、実物を見たのは初めてだ。

「それでは顔がわかるような身分証明書のご提示をお願いできますか」

「ああ、はい…」カードホルダーから電子カードを取り出して渡す。

 女性はそれを受け取ると、三秒ほど固まり、ひっくり返して裏面を確認してもう一度表面を確認した。

「あの…これは…?」

「これはって、身分証明書がいるんでしょう?」

 少し間があり「少々お待ちください…」と女性は言った。

 女性は戸惑いの表情を浮かべつつ、席を立って「主任…」と言いながら奥へと引っ込んで行った。

 まさか、と思った。

 ここでは電子カードも使えないのか?

 身分証の提示や会計の支払いなど、外部デバイスと通信する必要があるものは身体に埋め込んだチップで通信を行うが、旧施設など一部では対応していない場所もある。そういう場合は電子カードを使った旧式ICチップを用いて通信を行うため、気を利かせて電子カードを提示したのだが、まさか電子カードにすら対応していないというのか。いまだにアナログな紙切れの身分証を使っているとでもいうのか。

 窓口の女性が戻ってきた。

「お客様大変申し訳ありません。当施設ではこちらのカードには対応しておらずお使いになることができません。顔写真と個人情報が印字された身分証明書のご提示をお願いできますでしょうか」

 女性は電子カードを私に突き返してきた。

 嘘だろう。ここは本当に日本か?もしくは階層のスキマをすり抜けるときに時間のスキマもすり抜けて過去に来てしまったのだろうか。

 今のご時世、アナログの身分証を持っているものなど聞いたことがない。第三階層に降りる場合は皆アナログの身分証を発行してから渡層するのだろうか。

「いや、二層の人間はアナログの身分証は持っていないんだ。それでなんとかならないんですか?」

「でしたら申し訳ないのですが、身分証明書の紛失時などに仮の身分証明書を発行する窓口がありますので、そちらで仮身分証明書を発行頂いてから再度窓口にお越し頂いてもよろしいでしょうか。こちら、仮身分証明書発行届の用紙になります」

 さも当然かのようの差し出された紙切れを見て頭に血が上る。

「いやいやいや、ちょっと待てよ、なんで電子身分証に対応していないんですか。四時間近く待たされてやっと手続きできると思ったのに、こんなことで時間を取られている暇はないんですよ!」

 明日は仕事もある。さっさと帰ってビールでも飲んでゆっくり休みたいんだ。

「そう申されましても、電子カードには対応していない以上は通常の身分証明書をご提示頂くしかないわけでして…」

「そんなことわかってる。なんで今だに電子カードに対応させていないんだと聞いているんだ!」

「その辺りのことは私にはわかりかねますが…恐らく予算的な問題であったり、電子カードの使用は効率が悪いと上が考えているのか…。第三階層では通常身分証明書の使用が一般的ですので、どうかご理解下さるようお願い申し上げます」

 だめだ。埒があかない。それに、こっちにとっては電子カードの身分証が通常使用する身分証だから頭がこんがらかりそうだ。

「わかった。わかりました。アナログ身分証が必要なんですね。でしたらせめて、お姉さんの方から担当の窓口の人に掛け合って発行してもらえないでしょうかね」

 渡された仮身分証明書発行届と、いま俺が持ってきた申請書を見比べて

「見たところ発行届に記入が必要な情報は全てパスポート申請書に記入した情報で網羅できているじゃないか」

 データを入力するだけならパスポート申請書を見ながらでも十分可能だ。こんなことのためにまた整理券をとって並び直しなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。

「申し訳ありません。身分証明書発行ためには正式な書式に則って、お客様自身でご記入いただく規則でして…」

 なんだそれは。まさかこの時代に紙の申請書をそのまま保管して情報を管理しているのか。ここのセキュリティーはどうなっている。

「いやだから、いまここでハイわかりましたと書類を書き直して整理券を取って受付を待ってなんてことしていたら、また数時間待たされるはめになるんですよ!非効率極まりないじゃないですか」

 私の声がだんだんと大きくなるのが自分でもわかったが、それに呼応するかのように受付の女性の顔にも苛立ちと疲れの色が見え隠れしてきた。面倒な客に当たったとでも思っているのかもしれないが、そんなことを気にしている場合じゃない。

「申し訳ありません、規則ですので」

 今度は明確に言い切った。構っている暇はないと判断されたのだろう。

 そのあとも「そこをなんとか…」「お願いですから…」と下手に出てごまをするように頼んでみたりもしたが、「申し訳ありません。規則のですので」しか言わなくなってしまった。

 くそっ、捨て台詞を残して窓口から引き上げた。

 仕方ない。並び直すしかない。

 マシンから吐き出されている整理券を引き千切り机に向かおうとすると、何やら悲壮感の漂う音楽が聞こえてきた。

 確かに今の俺の気分を表現するとこんな感じであろうが、感情表現BGMなぞミュージックアプリに登録した覚えはない。いやそもそも、俺の脳内アプリは今ネットワークに接続できない状態であるから使えない。

 何事かと辺りに視線を彷徨わせていると、一瞬ノイズ混じりの雑音が聞こえ、次いで音声が聞こえてきた。

 『本日の業務は終了いたしました。またのお越しをお待ちしております』

 えらく年季の入った時計のアナログ表示盤の針は午後五時ちょうどを指していた。その下にぶら下がる振り子は暢気にゆらゆらと揺れている。

 呆然と立ち尽くす俺の後ろを、相変わらず下品な笑い声をあげるおばさん集団が通り過ぎていく。


 明日も仕事だ。

 会社に連絡しようにも俺のネットワークは孤立している。

 どうにもならない。もういい。なるようなれ。今日はもう考えるのはやめだ。

 市役所を後にして、天蓋照明がすっかり落ちた街並みを歩き始める。

 とりあえずどこでもいい。この辺りですぐに泊まることができる宿がないものか、その辺を歩いている人に聞いてみよう。

 と、そこまで考えて気づいた。

 果たしてこの街は電子通貨に対応しているのだろうか。

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下層異文化社会 乙乃詢 @otono_jun

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