子犬の兄弟

蛍さん

子犬の兄弟

町中に愛国心という言葉が溢れだしたとき、ああ、戦争が始まるのだなと悟った。


だから、飼い犬に腕を咬ませた。


真っ白な毛に、俺の生ぬるい血が滴るくらいに、強く。

間違いが起こらないくらいに、深く。


「センカ、いい子だ」


優しい声で頭を撫でても、センカは自分でつけた傷口を舐め続けた。


小さな体が揺れる。

温かさが、揺れる。


生きてるよって語りかけてきてるみたいで、ちょっとだけ、息を吸った。

煙草の匂いが、体に良く入るように。



この国の政治なんかに興味はなかった。


そんなものより、今日金を稼ぐことの方が大切だから。

他の裕福な奴らが勝手にやってくれるもんだと思っていた。


だけど、そうでもなかったらしい。


結局は学校に行ってても、金があっても、俺と同じで他人任せだったってことだ。


だってそうだろう?

昔はあんなに戦争反対なんてスローガンが掲げられていたのに、今は愛国心がなんだって騒いでいる。


思考停止で踊らされているだけ。


馬鹿みたいだ。


親父がアル中になって狂っちまう前に「愛国心って言葉が大きくなり始めたら戦争の合図だ」って教えられてたから、俺はすぐに戦争が起こるってわかった。


だからといって、逃げようとかは思わない。

そもそも俺には金がないし、逃げるだけの気力もないから。


ただ、この生活が終わるのかと、ぼんやり思うだけ。


朝から晩までクソ安い賃金で働いて、築何年だってくらいのボロアパートで半額の弁当を食べて、センカを抱いて寝る。

煙草の煙で部屋を満たして。


テレビもないし、娯楽を受け入れる気力もない。


この生活に未練はないし、死ぬことが怖いわけじゃない。

どうせろくな死に方なんぞしないだろうし。


ただ、センカを残していくことだけが気がかりだ。


子犬の時に拾ってもう十数年だから、センカもそろそろ寿命だろうけれど、少しでも一人にさせたくはなかった。



だから、センカに腕を咬ませた。


死んだあとには、来世ってもんがあるらしいから。


良いことをすると来世は人間になれて、悪いことをすれば畜生になると親父は言った。

だから悪いことはしてはいけないのだと。


センカは良い子だ。

賢い奴だし、落ち込んでいる時は慰めてくれる。

白い毛並みは上品さも持っている。


このまま死んでしまえば、センカは人間になってしまうかもしれない。


人間ってもんは大多数が搾取されて、少数だけがいい思いをするもんだ。


人間になっちまってセンカが一人で泣くよりも、二人で畜生にでもなった方がいい。


そうだな、来世は兄弟として生まれたい。

犬の、それも大きな犬の。


誰にも負けないくらい、大きな。


「センカ」


センカは少し首を傾げて、こちらを覗き込んだ。


「センカ、咬め」


センカは賢かった。

まくられた左腕に、センカは咬みついた。


最初は控えめに、押し付ければ押し付けるほど、センカは強く咬んだ。


神様ってのは不思議なことに人間の形をしているらしいから、人間の俺に咬みついたセンカを許しはしないだろう。


でも一応、強く咬ませることにした。


万が一人間になるなんて間違いが起こってしまわないように。


これなら、センカが先に死んだって、俺が先に死んだって寂しくない。

来世できっと、長い時間一緒だろうから。



戦争が始まったみたいだ。

町内放送で戦果が知らされるようになった。


皆戦争に駆り出されたから、仕事ももうない。

配給された米をセンカと一緒に食べて、一日中腹を鳴らす。


俗に言う、赤紙を眺めながら。

煙草なんかは手に入らなくて、ニコチン不足で手が震えだした。


戦争相手は隣国らしい。


あの国は魔法が使えることで有名だったから、町の人たちは魔法をけなしている。


自分たちが使えないものだから言いたい放題だ。


だけど、魔法って俺たちの持つ銃と何が違うんだろう。

俺たちは魔法が使えないから、カガクを発展させた。


どっちも人の役に立って、人を傷つけられるもんだ。

むしろ、銃とか大砲とか、そんな無機質なものに殺されるくらいなら、俺は魔法に殺されたい。


俺は見たことないけれど、魔法ってものは温かさを持ってるみたいだから。


重さ三キロの鉄塊から放たれた信念に心臓を貫かれることに後悔はない。

ただ、破片とか爆風とか、「俺」を殺すという気持ちなしに殺されたくはない…なんて、価値のない思いだ。


一つ、センカの毛並みに指を滑らした。



玄関口を開けた。

閉まらないように、木屑をドアの下に挟ませた。


部屋はそのままだった。

盗みが入ったところで、取るものは何もないだろう。


センカは眠ったままだった。

センカは、眠ったふりをしてくれていた。


俺が今からどこに行くか、賢いセンカはきっと気付いている。


センカがどうなっていくかも、センカも俺もとっくにわかっていて、見ないふりをしているのだ。


結局は、俺たちは一緒だ。


「じゃあな」


そういって、汽車へと向かった。

センカはまだ、眠っていた。



痛みはなく、苦しさも、悩みさえも無かった。


ただ少し、眠たかった。


硝煙の香りも、怒号も、悲鳴も、衝撃音も凄く遠くて、昔のことのように思えた。


ちょっとだけ、夢を見ていたみたいだった。

センカの後ろ姿が脳裏から離れない。


少しだけ心配になった。

寝たままで首だけを動かして、センカの跡を確認した。


そこには、傷口に当てた包帯はなかった。


肘から先は、もう存在していなかった。


「そっか」


形だけで言葉を作って、瞳を閉じた。


瞼の裏には、子犬の兄弟。

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子犬の兄弟 蛍さん @tyawan-keisan

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