第三章 二つの傷

第22話 秋の夜長

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 春休みのあの夜以来、どういうわけか俺の満腹中枢と味覚は一般人のそれと変わりないものとなった。大量の幸福を得られなくなったが、逆に多いものの中から一つを選ぶ楽しみを得たから、それはそれで良しとている。明らかに消費する金額が減ったのも、ありがたいことだ。




 現在の季節は既に夏を追い越し、秋に差し掛かっている。(と言っても、まだまだ暑い)そしてそれは、俺が一人暮らしを始めてから、既に二ヶ月程が経過していることを意味していた。




 父と時子さんが帰国してからしばらくして、新しい家族が増えることが分かった。話によると妹であるという事だった。




 その話を聞いた時、俺の居場所はもうここにはないと思った。だから、家を出た。




 資金は食費が軽くなって出来たバイト貯金。仕送りは、父が俺を放っておくと勉学に差支えるほど働きかねないからという理由で、毎月少し送ってくれている。正直、とても助かっている。




 大学の最寄り駅から三つ隣の片田舎、そこから少し歩いたところにあるワンルームアパートの二階。それが俺の住まいだ。




 置いてある物はベッドと机とパソコン、そして新しく購入したちゃぶ台(冬はこたつになる)と本棚。どちらもあまり大きいサイズではないが、使い勝手が良くてとても気に入っている。後は白物家電だが、それらは全て備え付けだ。学生にとってこれはありがたい。




 そんな部屋で秋の夕方を満喫していたある日、彼女はやってきた。




 『開けて』




 スマホに連絡が入っている。先程同じ時間にバイトから退勤したから、俺がいる事は当然知っている。中根紗彩。同じピザ屋で働くメンバーであり、同じ大学の同期だ。




 玄関を開けると、片手にレジ袋を下げた中根がいた。缶酎ハイの五百ミリ缶が何本か入っている。そういえば、バイト中妙に静かだった。これは、いつものあれだろう。




 「また別れたのか」




 俺が訊く。彼女は黙って頷いた。




 部屋に入ると、置いてあるクッションを尻に引いて座り、中根は缶のプルタブを勢いよく引いた。そして、特に何かを言うわけでもなく一人で晩酌を始めた。




 俺は家に常備してあるスナック菓子の袋を開けて彼女に差し出した。ついでに賄いで持って帰ってきたチキンとポテトのコンボも。




 「辛いやつ、いるか?」




 辛いやつ、とは店で客に無料配布しているハラペーニョのソースの事だ。




 「いらない。つーかあんたも飲め」




 中根は缶の一本を俺に差し出した。レモンサワーだ。俺はそれをありがたく受け取ると、頂きますと言ってから口を付けた。




 中根の童顔と小さな体躯でどうやって酒を買っているのかと訊いたことがあるが、それは極秘事項だという事で教えてもらえなかった。まあ、方法はある程度察しが付く。




 あっという間に一本を開けた中根は間髪入れずに別の缶を開けると、それをゴクゴクと飲み込んでからようやく口を開いた。




 「紗彩ってかわいいじゃん?」




 おっ、そうだな。




 「でもちょっとか弱いじゃん?」




 おっ、そうだな。




 「だから寄って来るわけ!男が!虫みてーにさぁ!」




 おっ、そうだな。




 この導入のやり取り。一体何回目だろうか。まだ入学して半年程しかたっていないのにすごい回転率だと思う。




 その後は罵詈雑言の嵐。相手の男への悪口から始まって、終いには過去の恋人の回想と。




 「でも、紗彩悪くないよね?」




 これだ。




 最初の頃は同情して慰めたりしていたのだが、二週間もすればまた新しい恋人を見つけてくることが分かって、それからはタダ酒の代償として彼女のいう事を聞くだけとなっている。




 ただ、俺は少し思うことがある。中根は何度も付き合い別れを繰り返しているが、一度に何人もの男と付き合っているわけではない。つまるところ、浮気はしていないのだ。




 ひょっとして、本当に好きになれる男を探しているのかもしれない。そう思ったらなんだか彼女を無下にすることが出来ない。それが、今のこの状況の理由だ。




 「文也はさぁ、彼女作らないわけ?」




 ……。




 「うーん。まあどうだろうな」




 恋愛の話をはぐらかしてしまうこの癖が、俺は情けない。




 「まあ、文也は作ったらダメでしょ。紗彩のものだし」




 初耳だった。というか、訊いておいてなんだそれは。




 「こうやって文也んちに来て別の女がいたら、紗彩キレるから」




 キレるからって、お前が俺の家に来るときはいつもこうやってキレているだろ。




 そんなことを考えながら、キーキーと怒る中根を眺めて酒を飲んだ。




 ……ふと時計を見ると、時刻は既に二十二時を回っている。ここは駅から少し遠いから、そろそろ帰ってもらわないと俺が困る。




 「嫌だ。別にいいじゃん」




 「よくない。ほら、帰るよ」




 明日は月曜日だ。俺は一限から必修の講義が入っている。もちろん、それでなくてもよくないが。




 駄々をこねる中根を窘めて落ち着かせると、彼女が散らかしたごみを片付けてレジ袋の中に入れた。持ち手を縛ってそれを持つ。手を引いて起こそうとすると彼女は更に駄々をこねたから、「中根は悪くないよ」と言う。そうすると、彼女はいう事を聞いてくれるからだ。




 程なくして立ち上がり、家を出て二人で駅へ向かう途中に中根がこんなことを言いだした。




 「しばらく男遊びやめる」




 「どうした、いきなり」




 割と衝撃の宣言だった。




 「なんか疲れた。色んな奴がいたけど、結局みんな同じってことは今の紗彩にはそういう男しか寄ってこないってことだし」




 「顔が好きで付き合うっていつも言ってただろ。お前の彼氏、イケメンじゃない奴いたことあったか?」




 俺が紹介された男は、中性的な美形ばかりだった。




 「そうだけどさ。……いや、やっぱいい。忘れて」




 言いかけて、口を噤んでしまった。




 きっと、外見を重視する上での苦悩が彼女なりにあるのだろう。それに、中根の仮面は今日の彼女とはまるで正反対の物だ。あの在り方に惚れてきた相手に、同じ態度で居続ける事はとても疲れるのかもしれない。




 ……ならやめればいいのに。そう言ってやれば、彼女は救われるのだろうか。それを考えているうちに、駅に着いてしまった。




 「そんじゃありがと、明日代返頼む」




 さらっとパシリを命じられた。果たして、あいつは二日酔いするほど酒に耐性のない奴だっただろうか。俺にはそうは思えないが。




 まあ出席シートをに名前を書くだけの作業、断るほど面倒でもない。俺は大人しく引き受けて、中根を見送った。




 ホームへ往く彼女の背中が、いつもより弱く見えた。もしかすると、俺が思っている以上に凹んでいるのかもしれない。早く次が見つかるといいのだが。

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