第10話 初恋
いつもの倍のスピードで走った。
食った量が少な目だったからあっという間に燃料が切れてしまったが、人間は車と違ってここからも気合で走ることが出来る。俺のバイクも気合で走ってくれたらいいのにと思ったが、その理論で行くと車体がどんどん痩せていってしまうから駄目だとすぐに思い直した。
線路沿いを走っていると後ろから電車が来た。競争のつもりで全力を出してダッシュしたが、あっという間に俺を追い抜いて更にその先に見える駅も通過していってしまった。どうやら急行電車のようだ。
……しばらくして俺の体力に限界が来た。気合ではもう動かない。疲れて倒れそうになったが、柵に手をついてそれを拒否すると、ゆっくりと歩いた。
気が付けば家から随分と遠い場所へ来てしまった。無計画に走り出してしまうのは俺の悪い癖だ。
パーカーのジッパーを開けてから、ポケットに手を突っ込んで歩く。息は既に整っている。さあ、歩いて帰ろう。
……家に着いたのは、二十一時を過ぎた頃であった。
鍵を開けて中に入る。風呂場へ直行し、服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。ボディーソープが尽きていたかたから詰め替えて、念入りに体を洗った。
泡を流して脱衣所で体を拭いていると、扉の向こうから声を掛けられた。
「三時間以上も走ってたの?」
声色が少し暗い。
「いや、遠くまで走って、そこから歩いて帰ってきた」
そんなこと、夢子にとってはどうでもいいことだ。要するに心配をかけるなと言っている。
「ふうん。誰かと会ってた訳じゃないんだ」
「いや、そんなことはないけど」
むしろ一人になりたくて仕方なかった。
「お兄ちゃん、連絡来てたよ。女の人から」
「見たのか?」
見られて困るようなものはないが。
「うぅん。画面に表示が出たのが見えただけ。スマホ、リビングに忘れて行ったでしょ」
言われて、俺が今日音楽を聴いていなかった事に気が付いた。
「そうだな、それで心配したのか」
「別に心配してない」
嘘だ。俺にもわかる。
「さーやって誰?」
「バイトの同期」
夢子以外、時子さんと中根くらいしか女の連絡先を知らない。
「そっか」
換気扇のスイッチをオフにする。
「今日は酒は飲んでないのか?」
「飲まないよ。あれだって別にちょっと興味あっただけだし。次飲むのは大人になったとき」
「それがいい」
人生急ぐことはない。二十歳で出来ることは二十歳でやればいいのだ。
服を着る。ドライヤーはしていない。……少し伸びてきたような気がする。
夢子は扉の少し隣に寄りかかっていた。口を尖らせて俯いている。
「おかえり」
「ただいま」
それを聞くと、不意に夢子が抱き着いてきた。
「悪いな」
思わず笑ってしまう。
「別に心配してないってば」
言葉とは裏腹に、夢子は俺の胸に顔を埋めて動かない。その態度に俺は「察しろ」という声を聞いたような気がして、だから黙って頭を撫でてやることにした。
しばらくして飽きたのか、夢子は俺から離れて俺をリビングへ誘った。テーブルの上には一本のDVD。今流行りの恋愛物だった。
「これ見よ」
「いいけど、俺あんまり恋愛映画って見たことないんだよな」
何なら邦画もあまり見ない。
「面白いらしいよ。真琴におすすめされた。すごく感動するんだってさ」
なるほど。あいつも中々ギャップの多い子だな。
こんなもので泣けるものかと思ったが、大人しく夢子の隣に座ってそれを見ることにした。
……結論から言えば、俺は泣いた。しかも号泣だった。
物語は割と王道で、主人公の男の子が不治の病にかかりながらもヒロインと恋をして、最後にはヒロインと死をもって離れ離れになってしまうという、掻い摘んで言えばただそれだけの話だった。
物語終盤の雰囲気から割とやばかったのだが、最後にヒロインが泣き崩れるシーンで涙腺が爆発。ぽろぽろと涙を流してしまった。ちなみに夢子はそんな俺をみてもらい泣きしていた。
あぁ、面白かった。冷静になって考えてみれば色々と突っ込みたくなる部分はあるのだが、やはり物語自体が面白いとそういう些細な部分は気にならないものだ。
「お兄ちゃん、泣きすぎじゃない?」
ティッシュで涙を拭きながら夢子がそう言った。普通に考えて恋愛映画を見て号泣する大学生(予備軍)を見れば気持ち悪いと思いそうなものだが、意外にも彼女はそうではないようだ。
「まあ、いい映画だったからな」
泣いたのは、随分と久しぶりの事だ。
余韻も薄れて、時刻は間もなく零時。子供はとっくに寝る時間だった。
歯磨きを終わらせて、ついでにトイレも済ませておく。そういえばと思い出してスマホを見ると、中根からの連絡があった。訳の分からんスタンプが送られてきているだけだったから、俺は特に反応をしなかった。
「それじゃあ、寝ますか」
うん、と頷いて夢子は俺のシャツの裾をつまんだ。エスコートしろということなのだろうか。
リビングの電気を消して階段を上がる。自分の部屋に着くと、夢子は先にベッドへ潜り込んだ。壁際が好みのようだ。
後を追って俺もベッドへ入る。布団と毛布の隙間に入ると、深く深呼吸をして目を閉じた。
静かだ。夢子は俺に背中を向けている。寝息は聞こえない。きっとまだ起きていて、目を閉じているだけだ。
俺は夢子に体を向けて、肘をついてから体勢を変えるとこの前のように頭を撫でた。夢子の体が少し震える。しかしすぐに、柔らかく細いその体から力が抜けたようで、体のラインがさらに緩やかになった。
前と同じことをしているだけなのに、相手を意識するだけでこんなにも緊張してしまうとは思ってもいなかった。
……夢子を撫でる手を止めてしまった。春休み初日に聞かれたことを思い出したからだ。
――だから、私にどうやってお兄ちゃんが女の人を信じらるようになったのか、教えてほしい。
きっと、俺は両親の離婚と母親との別れにケジメを付けたことで、女の人を信じていなくないと思い込んでいただけなのだ。
本当はいつ嫌われるか分から無いことに怯えていて、だから真剣に向き合うことをしていなかった。「父さんが前を向いたから」だなんて方弁もいいところだ。
俺は、父と時子さんを横で指を咥えて見ていて、これが本当の形等と達観した気になっていただけだ。中には何もない。空っぽの存在が新目文也という男の正体だ。
受験前フラれたときもそうだ。俺はきっと、真剣ではなかった。もし真剣に好きだったのなら、浮気相手やあの子本人に腹が立って文句の一つでも出るのではないだろうか。
そうでなければ、情けなくしがみついて「捨てないでくれ」とでも頼むのではないだろうか。
それができると言うのが、真剣の証なのではないだろうか。
男に対する感情をとことん還元していくと、俺の場合はやはり父に行き当たる。
不器用だが、俺をここまで育ててくれた。もしかしたら俺の知らないところで母と父の間にはドラマがあったのかもしれない。昔一度だけ、父が家で泣いていたのを見たことがある。あれはひょっとして……。いや、話がズレてしまったな。
仕事一辺倒で俺に構うことなどほとんどなかったが、それでも守られていた自覚はある。仮に、本当は邪魔で嫌いだったとしても父は俺を捨てないでいてくれた。だから尊敬しているのだ。
それでは、女の場合はどうだ?
……やはりあんただ、母さん。俺の心の、深いところにいるのは。
つまり、俺が本当に怖いことは嫌われることではなく、その先の結果である捨てられることだ。
そして、俺は捨てられないために好かれるのではなく、関わらないことを選んでいたのだ。
「ふっ」
本当に、馬鹿馬鹿しいな。
「……どうしたの?お兄ちゃん」
夢子が訊く。突然吹き出して、不気味にでも思ったのだろう。
「いや、どうにもしないよ」
果たしてこの笑顔は、自嘲か決別か。
「そっか。映画、面白かったね」
「そうだな」
再び頭を撫でてやる。
「真琴に感謝しないとね」
「あぁ、夢子のおすすめを教えてやれば、喜ぶんじゃないか?」
「そうだね、何にしよっかな」
クスリと笑うと、夢子は体を少し反らせて、背中を向けたまま俺に体を預けるような体制をとった。
言葉は無かった。ただ、肌が触れて、そして。
俺は、夢子を抱き締めた。
夢子は何も言わなかった。もしかしたら緊張したのかもしれない。予想外の行動に混乱したのかもしれない。だが、抱きしめた俺の手に自分の手を重ねて、そしてぎゅっと掴んだ。俺にとって、それは何よりの答えだった。
夢子の髪の匂いだ。甘く、こんなに甘い香りを俺は他に知らない。
少し力を込めるだけで夢子の体はさらに俺の方へ引き寄せられる。こんなにも細く小さな体なのに、とても安心する。
夢子の首元に唇で触れる。また少し、彼女の体が震えた。踏み込む勇気は、今はまだない。
抱き締めて、時間がどれだけ経ったのだろうか。未だ五分程度しか過ぎていないようにも思えるし、もう何時間もこうしているような気分にもなっている。
いつの間にか、緊張は消えていた。そして夢子の温もりを感じながら、俺は眠ってしまっていた。
……その日、見た夢の内容を、俺はきっと、生涯忘れないだろう。
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