第5話 紫煙

 昼食を終えて落ち着いてから、支払いを済ませて夢子が先に、俺はトイレに寄ってから外に出た。



 ……それが良くなかった。



 「ちょっと、やめてください」



 遅れていくと、夢子がナンパされていた。二人組の男。恐らく俺と同じ年くらいだろう。夢子の大人びた見た目からすれば、それも不思議ではない。



 いいじゃないかと食い下がる彼ら。出しゃばるほどではないかと思ったが、流石にしつこい気がしたので夢子に声をかけた。



 「お待たせ」



 それだけ言って出ていく。



 「遅いよ」



 そういうと、夢子は俺の背中に回って彼らから隠れた。



 てっきり俺は、この光景を見ればそのままどこかへ行ってくれると思っていたのだが、どうやら彼らはそれほど頭のいい人たちではないようだった。



 「あぁ?なんだてめえは」



 金髪の男が言う。俺より少し背が低い。



 「兄です」



 そういって、踵を返した。これ以上関わるときっとよくない。



 「おい待てよ!」



 確かにナンパに失敗したのには同情するが、これ以上食い下がっても自らの価値を下げるだけなんじゃないだろうか。引き寄せられて振り返ると、もう一人の男は既に冷めた様子でスマホをいじっていた。ひょっとして、あれは俺たちをカメラに写しているのではないだろうか。それとも動画を回しているのだろうか。



 そのどちらも、俺にとっては望むところではない。ましてやこんな昼下がりの街中で、妹の目の前で胸倉を掴まれているところをだ。



 鈍い音。



 黙っていればいずれ警察なり警備員なりが来るだろうと思っていたが、それよりも早く俺は殴られてしまった。



 「いやっ……っ」



 夢子が小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。



 一発ぶん殴って気が大きくなったのだろう。男はさらに声を張り上げて、俺を脅した。



「おい!てめえ俺に喧嘩売ってんだよなぁ!?」



 最早夢子にフラれたことはどうでもいいらしいし、何なら既に忘れているのかもしれない。彼の標的はとっくに俺だ。



 「そんなことはない。やめとけ」



 抵抗はあくまで口にするだけ、俺は体に力を入れることはしない。



 「うるせえな!ぶっ殺すぞ!」



 怒鳴り声を聞いて、瞬く間に人だかりが出来ていく。こんなにたくさんの人に注目されたのは、生れてはじめてかもしれない。



 程なくして、その人だかりの中から正義感のある人が数人出てきて俺と金髪の彼を引き離してくれた。彼は未だ興奮しているようで、二人に羽交い絞めにされている。



 「大丈夫か?」



 壮年の男が俺に問う。恐らく家族連れだろう。後ろに妻らしき女性と、幼い子供の姿が見えた。



 「大丈夫です。当たっただけですから」



 口元をぬぐう。本当はがっつり殴られていたのだが、これ以上大事になってしまうのが嫌で、だから俺は夢子の手を取ると人込みをかき分けて足早にその場を去った。



 「おい!逃げてんじゃねえぞ!」



 怒号。しかし、だからと言って彼が俺に追いつくことはない。



 しばらく歩いてとある路地裏に着くと、ようやく俺たちは立ち止った。夢子の顔を見ると、今にも泣きだしそうな表情をしていた。



 「悪かったな、もう少しうまく処理できればよかったんだが」



 「そうじゃないよ」



 夢子は泣いてしまった。複雑な気持ちなのだろう。しかし、その様々な感情を抑えて妹は俺に。



 「助けてくれてありがとう」



 そう言った。



 俺は結んでいた手を解くと、泣いている妹の頭に手を乗せて「もう大丈夫だから」と答えた。



 夢子が泣き止むまでの時間、俺は壁に描かれた落書きを見ていた。夢子を泣かせたのが彼らだとは思えず、どこか罪悪感を覚えたからだ。



 夢子が泣き終えてから、俺たちは帰路についた。せっかくの楽しい日になるはずだったのだが、とんだハプニングに見舞われてしまった。



 家に帰るまで俺たちは一度も口を開かなかったし、家に着いてからも言葉はなかった。なんとなく居心地の悪さを感じた俺は、スポーツウェアに着替えてロードワークに出ることにした。



 黒を基調としたウェア。短パンにレギンスと、ペラペラのナイロン製のブルジップパーカー。かなりのオーバーサイズだ。耳にはワイヤレスのイヤホン。安物だから、妙に音質が悪い。



 一応「いってきます」と挨拶をして家をでる。すぐ近くの公園でストレッチを済ませると、俺はゆっくりと走り出した。



 ……いつの間にか通っていた高校の最寄り駅まで来てしまっていた。随分長いこと走っていたようだが、深く考え事をしていたせいか、あまりその実感は湧いていない。



 ふと寂しさがよぎった。もう二度と踏み入れてはいけない領域だとわかっていたが、通りすがる部活終わりの後輩(もちろん知り合いではない)を見ると無性にあの校舎が見たくなってしまった。



 パーカーのポケット手を突っこんで歩く。毎日登った坂道を往くと、夕焼けの手前に俺の母校があった。



 校門付近へは近寄らず、校庭の周りを囲う大きなフェンスの周りを沿って歩いた。サッカー部が練習をしている。インターハイへ向けているのだろうか。確か、それなりに強かったはずだ。



 ノスタルジーに浸っていると、見回りだろうか。生徒指導の竹藤先生がこちらへ向かって歩いてきた。



 「新目か?卒業式ぶりじゃないか」



 俺が先生を一目で解ったように、先生も一目で俺だとわかったようだ。



 分厚い胸板と不釣り合いなスーツ姿だった。いつもジャージを着ていたから、俺はその姿を見慣れていなかった。



 「お久しぶりです」



 頭を下げる。



 「どうした。顔が腫れてるじゃないか」



 言われて頬をなぞる。ピリッとした感覚があった。



 「あぁ、実は殴られまして」



 「お前がか?はっはっは!」



 先生はあり得ないというような顔で、そして少しわざとらしく声を上げて笑った。



 「痛かったですよ。でも仕方ないじゃないですか」



 すると今度は、途端にその武骨な顔を優し気な表情に変えて。



 「偉い、偉いぞ。先生は嬉しい」



 そういって、先生は俺の肩を叩いた。



 「……どうしてここに来たんだ?」



 「理由はないんです。ただ、考え事をしていたら足が勝手に」



 「足が勝手に何駅も隣の学校へ向かうわけがあるか」



 その通りだ。俺はきっと、今日の俺を褒めてもらいたかったのだ。他の誰でもないこの人に。



 風が俺たちの間を吹き抜けていった。汗が引いたこの体に、この風は少し冷たい。



 話したいことはたくさんあった。この数日でできた悩みや、これから先の不安。それに、少し昔の話も。



 だが、言葉にはならなかった。もしここでこの人に甘えてしまえば、俺はまた立ち止ってしまうのではないだろうかと。それだけは絶対にあってはならない。だから。



 「先生、ありがとう」



 ただ、それだけを伝えた。



 「俺、もう行きます」



 間髪を入れず、別れを告げる。



 「……あぁ。行ってこい」



 正面に俺を見据えて、先生はそう応えた。きっと、これが俺たち二人の最後の会話になるのだろう。



 踵を返し、俺は元来た道を引き返す。途中で一度だけ振り返ると、さっきの場所で先生がタバコに火を点けていた。



 暗くなり始めた空に、紫の煙が舞う。その煙が目に染みたのだろう。先生は目頭をつまんで、空を仰いだ。



 俺はパーカーのフードをかぶると、加速度を上げた。すぐに坂道を追い越して校舎は見えなくなった。



 家に着くころ、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。時刻は二十時を過ぎようとしている。俺は傘立ての中に隠しておいた鍵を拾ってドアを開けた。



 夢子はいなかった。書置きがあって、友達の家に泊まりに行くとのこと。



 だから俺はシャワーを浴びて、すぐに寝ることにした。どういう理由か、夕飯を食べる気にはならなかったからだ。

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