第2話

 


 1ヶ月ほど前、寿子の夫、樫山憲治かしやまけんじ(62)が、帰宅途中の午後6時過ぎ、新宿駅で電車にはねられて死亡した。突き落とされた可能性もあったため、事件と事故の両面から調べた。だが、突き落とされたと言うような目撃情報もなく、ラッシュアワー時の混雑が盲点となって、防犯カメラにもその瞬間は映っていなかった。


 まず、妻の寿子を疑った。だがその時間、庭に居る寿子を近所の住人が目撃しており、完璧なアリバイがあった。


 そもそも、後妻の寿子(36)に疑惑を抱いたのは、その親子ほどの年の差だった。それと、保険金が支払われる時期から逆算すると、丁度入籍した頃に当たる。つまり、籍を入れてすぐに生命保険に加入し、保険金を受け取れる時期を狙って殺した、と考えるのが妥当だ。


 樫山は不動産会社を経営しており、かなりの財産があった。その全財産が正妻の寿子の物となったのだ。樋口は、金目的の殺人と視ていた。



 尚も寿子の尾行を続けた。尾行をしているうちに、樋口は意外なことに気付いた。それはスーパーから出て、寿子が携帯電話を耳に当てると、必ず一人の男がすれ違うのだ。それは毎回ではないが、週に2~3回の割合で見掛ける。


 目深に被ったキャップで、顔や年齢は定かではない。身形みなりも毎回違い、キャップも黒だったり、カーキだったりと毎回異なるが、少し猫背の、その男の醸し出す雰囲気と特徴は同一のモノだった。


 樋口は、スーパーから出てきたその男を尾行した。――男は来た道を戻ると、寿子の家からさほど離れていないマンションに入っていった。男はエレベーターを使わず階段を上った。


 樋口は間隔を置くと、靴音を消した。ゆっくりと階段を上がっていると、扉が閉まる音がした。静かに扉を開けて覗くと、男は一番奥のドアに鍵を差し込んでいた。


 ……一人住まいか?


 階段を下りて、205号の郵便受けを見ると、〈田川〉とあった。


 ……何者だ?



 管理人室の小窓から顔を覗かせている老爺ろうやに、警察手帳を見せた。――話を訊くと、一見いっけん遊び人風の、無職の田川英たがわすぐるは40前後で、2ヶ月ほど前に越してきたということだった。また、人の出入りを尋ねると、通いで管理をしているため夕方以降は分からないとのことだった。


 ……樫山が殺されたのは1ヶ月あまり前。それ以前に、田川はすでにこのマンションに住んでいたのか……。



 住民票から、田川の前住所を入手した樋口は、田川が住んでいた安アパートの隣人から、Mデパートの保安員をしていたという情報を得た。つまり、万引きGメンだ。


 ……仮に、寿子が万引きに関わっているとしたら。



 田川が勤務していたMデパートで話を訊くと、意外なことが分かった。


「クビにしたんですよ。陰で万引き犯をゆすっているという噂を耳にしたんで。被害届もなく、本人も否定してましたが、火の無い所に煙は立ちませんからね」


 店長は渋面じゅうめんを作った。


 ……仮に、寿子をゆすっていたとしたら、寿子から金が渡ったはずだ。その金で、今のマンションに引っ越し、悠々自適の生活をしているのでは?樫山が殺された当日の田川のアリバイは?



 田川と寿子には接点があると判断した樋口は、単独でマンションを訪ねた。――樋口を視た途端、田川は犯罪者特有の第六感で、自分の置かれている状況を悟ったかのような目を向けた。



「4月×日の夕方6時頃、どこに居ましたか」


「何曜日ですか?」


「月曜」


「月曜か。じゃ、新宿ですよ」


 コーヒーメーカーからジャグを取り出すと、カップに注いだ。


「!……新宿?」


「ええ。月曜は映画を観るんですよ。比較的空いてるし、観た後にとんかつを食べて、6時頃だったら、丁度電車に乗るとこじゃないかな」


 悪びれる様子もなく、しゃれたコーヒーカップを樋口の前に置いた。


「解雇されたそうですな?保安員を」


「ああ、あれね。身に覚えのない噂は、どんなとこにでも立つもんですよ。抗議したところで分かってもらえないと思ったんで、言われたとおり辞めたってわけです」


 田川はため息をくと、煙草の灰をガラスの灰皿に落とした。


「その前の職業は?」


 樋口はそう訊きながら、カップの取っ手に指を入れた。


「色々やりましたよ。工事現場の作業員もやりましたし、ウェイターに、クラブのボーイも経験があります。学歴がないから、仕事は選べません」


「ご家族は?」


「いえ、天涯孤独です。この歳で結婚したこともない。ま、気楽と言えば気楽ですがね」


 自嘲するかのように鼻で笑うと、煙草をもみ消した。


「……失礼ですが、前のアパートからこんな高級マンションに引っ越すには、相当な金が要ったでしょ?」


「20年以上も働いていたんですよ。それなりのたくわえはあります」


「……仕事は今何を?」


「現在、求職活動してます。活動と言っても、近所を歩いて求人の張り紙を探してるだけですけどね。40も過ぎるとなかなか仕事がなくて。また、工事現場ででも働こうと思って。給料もいいし、体力には自信があるんで」


 と、フローリングの隅に置いた鉄アレイを一瞥いちべつした。



 田川に、動揺や狼狽ろうばいうかがえなかった。事件に関わっていないのだろうか……。それとも、逮捕されないというよほどの自信があるのだろうか……。

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