2 開演

「……どうしたの、ゼンくん?」


 と、サクラさんが小走りで僕の後を追ってきた。

 僕はそちらに静かに笑いかけてから、桜並木のセットを指ししめしてみせる。


「セットも、すごく出来がいいですね。あの裏で、僕たちは待機するんですよね?」


「うん、そうだよ。大勢の人が隠れなきゃいけないから、ずいぶん大きなセットになっちゃった。……それがどうしたの?」


「いや、どうもしませんけど」


「…………」


「…………」


「…………?」


「すみません。それだけです」


「え? それだけって……」


「本番前のこの時間、ちょっとサクラさんと話したかっただけなんです」


 僕には、そうとしか言いようがなかった。


「トモハルさんとの会話を邪魔しちゃって、すみません。もし大事な話だったなら、戻ってください。僕の用事は済みましたから」


「ゼンくん……」


 サクラさんは、呆気に取られたようにつぶやき――それから、くすりとおかしそうに笑ってくれた。


「いいよ。全然大事な話じゃなかったから。……ていうか、舞台と関係ない話をされても右から左に抜けていっちゃって、何の話をしてたかも忘れちゃった」


 そう言って、サクラさんは僕のすぐ隣りにまで足を進めると、舞台のほうに黒い瞳を向けた。

 サクラさんは、手首に花びらのようなフリルのついた長袖の黒いブラウスの上に、わざわざワンサイズ大きなものを頼んだというスタッフTシャツを着込んでいた。サクラさんは肌が弱いために、こういう陽射しが強い日には、半袖の服が着れないらしいのだ。


 そして今日はいつものヒラヒラしたスカートではなく、ゆったりとした黒いパンツをはいており。サクラさんが黒ずくめでも白ずくめでもなく、また、スカートでもない格好をしている姿を、僕は初めて目の当たりにすることになった。


 コーディネイトとしては、そんな衣服の上にピンク色のTシャツを着こむというのは、いささかならずバランスが悪かったが。それでもそのTシャツを着たい、というサクラさんの心情を思うと、何やらいじらしくてたまらなかった。


「……いよいよだね?」


「……そうですね」


 僕の気持ちは、静かに高揚したままだった。

 この一ヶ月、サクラさんとは何事もなかったかのように語り、時には笑いあったりもしたが、どこか、本当に大事なことの周囲をぐるぐると回っているような……あるいは、けして踏んではならない地雷か何かを慎重に避けているような、そんなもどかしさやあやうさが、常に僕たちの周囲にはつきまとっていた。


 だけど、その本質が、今となってはよくわからない。

 僕と衝突してしまったことが、サクラさんには負担だった。衝突したくないから、できるだけ僕とは関わりたくない――たしかそんな論調だったはずだが、月日を重ねて、あの衝突の記憶自体が自然に薄れていってしまうと、いったい何のために僕たちは距離を空けているのか、その理由がだんだん曖昧になってきているような気がしてならなかったのだ。


 もっとも、そう思っているのは僕だけで、サクラさんにしてみれば、これぐらいの距離感がちょうどいいのかもしれないが――だとしたら、これ以上、僕に何ができるだろうか。


 僕の側には、疑問はある。

 だけど、それはサクラさん本人に問い質すような内容ではない気がする。

 僕のことがそんなに苦手なんですか、とか、トモハルに相談したんですね、とか――そんな女々しい言葉を、サクラさんに伝える気にはなれない。


 サクラさんは、ものすごくさびしそうな目で僕を見つめていたことがある。

 それどころか、目も合わさずにそそくさと立ち去ってしまったこともある。


 あの頃の不安感や喪失感を思えば、今などは全然マシなほうだろう。少なくとも、サクラさんは僕とも普通に喋ってくれるし、目をそらすこともなくなった。時には笑顔さえ見せてくれる。はたから見れば、僕たちの間にわだかまりやもどかしさが存在するなどとはとうてい思えないに違いない。


 たぶん――今後も、僕の側から何か特別な話を切り出すことはないだろう。

 サクラさんがこれでいいと思っているなら、僕には何も望みようはない。


 僕たちの間には、何か不透明な壁が立ちはだかっている。これが邪魔だと、サクラさんのほうで思っていないなら――今の状況が心地良いと思っているならば、それを壊す気にはなれないし、また、壊す方法もわからない。

 これが、サクラさんの出した結論であり、答えである、というのならば――僕は、甘んじてその運命を受け入れるだけだった。


「……だいぶ人が増えてきたね」


 サクラさんの声に、僕は現実へと引き戻される。

 確かに、舞台前のパイプ椅子に近づく者はまだいないものの、人通り自体はずいぶん増えてきたようだ。


 本日の公演はあくまで顔見せのお披露目会にすぎず、べつだん入場料などを徴収するイベントではない。あやめの言う通り、何も知らないで花見に来た人たちでも、ステージが始まれば集まってきてくれるのかもしれないなと思った。


「そろそろ戻ろっか。ゼンくんだって、着替えなきゃいけないしね」


「……そうですね」


 時刻はすでに、十時半を回っている。

 舞台裏に戻ってみると、そこには何故かあやめだけがぽつんと一人でつまらなそうにしていた。


「さっきまでテントの中で金子さんと語らってたんだけど、カントクさんに着替えるから出てけって追い出されちゃった」


 こちらが問う前に、非難がましい口調でそう説明してくれる。

 僕は苦笑をし、サクラさんは気まずそうにもじもじとしていた。


「みんな、もう中かい?」


「ううん。金子さんとカントクさんだけ。田代さんは飲み物買いに行って、野々宮さんはトイレ。トモハルさんは、知らない。どこかでいじけてんじゃない?」


 そんな意地の悪いことを言ってから、あやめはにっと白い歯を見せて笑った。


「サクラさん! あたしたちも買い出しに行きません? 買い置きのドリンクはもう飲みつくしちゃったって言ってたから、みんなのぶんも買っておいてあげましょうよ」


「……うん、そうだね」


 ふだんはほとんど喋らない二人だが、べつだん仲が悪いわけでもないということは、この一ヶ月で察することができた。ただ、サクラさんがちょっとあやめを苦手そうにしているかな、というぐらいだ。

 そうして二人が姿を消してしまうと、入れ替わりに田代が戻ってきた。


「よお、色男。お姫さんとの用事は済んだのかい?」


「……ええ、まあ」


 ふだんだったら素通りされるところを、そんな風に呼びかけられて、僕は少し驚いてしまった。

 田代はいつもの皮肉っぽい薄ら笑いを浮かべながら、僕の姿をじろじろと眺めやる。


「ふん……なんだか、全然緊張してないみたいだな。なかなかいい根性してるじゃねえか。だけど、気をつけな? こういう大事な本番に限って、ふだんは起きないようなアクシデントが起きたりするもんなんだからよ」


「……そうですね」


「ああ、そうさ。せいぜいケガしないように気をつけな。……大事な主役様が途中退場にでもなっちまったら、ヒーローショーもへったくれもないんだからなあ」


 何だか険のある目つきで言い捨てて、田代はテントの中へと入っていった。

 いったい、何だろう。まさか田代までサクラさんに恋心を抱いているとも思えないが、何やら不穏な雰囲気だった。


(僕が何か、気分を悪くさせるようなことをしたっけな……?)


 しかし、まさか舞台をぶち壊すような真似はしないだろう。そんな暴挙は、許されるはずもない。

 それでも僕はちょっと気をひきしめなおしてから、田代に続いて仮設テントの入り口をくぐった。


                        ◇


「さあ、いよいよ本番だな!」


 少し薄暗い仮設テントの中、カントクの声がひときわ大きく響きわたった。

 時刻は、十時五十分。十名のメンバーが勢ぞろいしたテントの中には、さすがに緊張感がたちこめはじめている。


「ここまで来たら、何も言うことはない! 全身全霊をもって、稽古の成果を叩きつけるだけだ! おのおの悔いのないよう、頑張ってくれ!」


 それだけ言うと、カントクは禁煙パイプを床に吐き捨て、『キャプテン・アブラム』のマスクに頭をつっこみはじめた。


 タイツとベルト、それにブーツだけを身につけていた僕も、長机の上に並べた『イツカイザー』の装束をひとつひとつ身につけていく。

 ラバー製のプロテクターを胸と肩に装着し。FRP製のマスクをかぶる。それから、合皮のグローブに腕を通し――完成だ。


 僕はゴーグルが曇らないていどに深呼吸をして、何度か屈伸運動をした。

 履きこんで、だいぶん柔らかくなってきた、白いブーツ。こいつにもずいぶん悩まされてきたが、今となっては気にもならない。そのうち、裸足のほうが動きづらく感じるぐらいになるのだろう、たぶん。


「ゼンくん、それじゃあまた後でな。……今日は、楽しんでいこう」


 すでに『ケムゲノム』へと変身していた金子さんが、触手でハイタッチを求めてくる。僕はマスクの中で笑いながら、それに応じた。


「ふだん通りにやればいいんだよ。……って、それが難しいんだろうけどね。とにかく、ケガだけはしないように!」


「……衣装、壊すなよ?」


 オノディさんとヤギさんが、金子さんの後を追うように、テントの奥の出入り口をくぐっていく。そこが、舞台のセット裏につながっているのだ。


「どんな失敗をやらかしても、そんなものは次回の糧だ! ふだんの倍はミスする覚悟で、まあ頑張れ!」


 豪快に笑いながらカントクも出ていき、二人のアブラムもそれに続く。


「いやぁ、ついに始まっちゃうんだねぇ! 口から心臓が飛び出しそうだよ!」


 元気いっぱいに言いながら、あやめが僕の前に立った。

 ネコみたいに大きな目が、きらきらときらめいている。


「すっごいプレッシャー! あたしがトチっても笑わないでよね?」


「……そりゃあこっちのセリフだよ」


 あやめがぐっと小さな拳を突きだしてきたので、僕はまた笑いながらそこに自分の拳をこつんと当ててやった。

 あやめは満足げに笑い、野ウサギのように駆けていく。


 と――さきほどからずっと無言でパイプ椅子に座りこんでいたトモハルがゆらりと立ち上がり、やはり無言のままテントを出ていこうとする。

 その切れ長の目と一瞬視線がぶつかったように感じたが、その目は何だか何ひとつ感情を浮かべていないように見えた。


「……みんな行っちゃったね。まだ五分以上あるのに」


 少し呆れたように言いながら、サクラさんがすうっと歩み寄ってくる。


「頑張ろうね」


「……頑張りましょう」


 そう答えながら、僕は唐突にあることが気になった。


「あれ? そういえば、今日はエドガーは?」


「え? ここにいるけど」


 サクラさんがはにかむように笑って身体を半身にすると、ズボンの後ろのポケットからエドガーが顔だけ出していた。


 にんまりと笑った、フェルト生地の小さな人形。

 こいつだって、すべての稽古に顔を出していたのだから、本番だって見届けたいことだろう。


「……名前、覚えてくれてたんだ?」


「え? 何がです?」


「エドガー。一回しか紹介してないのに」


「そうでしたっけ? まあそりゃあ、忘れませんよ」


「そうかな。普通、忘れると思う」


 そう言って、サクラさんはおかしそうに微笑んだ。

 なんだか、空気がやわらかい。

 さきほどまでの緊張感が嘘のようだ。


 僕たちは静かにうなずきあってから、みんなの後を追って、舞台に向かった。


                      ◇


『こんにちはぁ! 本日はご来場ありがとうございまぁす!』


 元気いっぱいに、あやめの声が響きわたる。

 ついに、ショーの開幕だった。

 プロジェクトのメンバーは、十名。その全員が、なにがしかの使命をおびて、今、舞台の上にいる。その中で、観衆の前に姿を現しているのは、司会進行のあやめのみ。他のメンバーは桜並木のセットの裏で、ひっそりと息をひそめていた。


 下座には、敵方のキャスト四名、指示出し担当のヤギさん、音響効果担当のオノディさん。

 上座には、僕とトモハル、スモークマシン担当のサクラさん。


 僕たちの位置からは、当然のことながら、客席の様子はうかがえない。しかしあやめの挨拶に、それほどまばらでもない拍手が応える音は聞こえてきた。


『今日の舞台は、ヒーローショー! ……なんですけど、あれれ? ヒーローも怪人もいませんねぇ? あたしも変身なんてできないし。かっこいいヒーローが現れるまで、クイズ大会でもしてましょっか?』


 ちょっとした歓声と、笑い声。

 呆れたことに、序盤の司会進行はすべてあやめのアドリブであるらしい。

「試行錯誤しながら方向性を決めていくから、最初はまあ自由にやってみて」というのは、オノディさんの言だ。

 よくもまあ初めての舞台であんなにスラスラ喋れるものだと僕などは感心していたが、かたわらのトモハルは今にも舌打ちしそうな表情だった。


「なんだか、ふざけた司会だな。あんなメタなトークでいいのかよ」


 緊張なのか何なのか、あんまりご機嫌はうるわしくないようだ。

 だけど僕も、ここでトモハルにつっかかるほどの余裕はない。

 なんだか、じんわりと手の平が湿ってきた気がする。


『それじゃあ、三人ぐらい舞台に上がってもらえますかぁ? 正解した人には、素敵なプレゼントもありますよ! ……それじゃあねぇ、そっちの、青い帽子をかぶったボク! こっちに上がってきてくれるかな?』


 冒頭部分に、ストーリー性はない。ただ、子どもたちを三人ほど舞台にあげて、クイズ大会を楽しませて、その最中に『ゲノミズム』の怪人たちが乱入――という段取りが決まっているだけだった。


『それでは、最初の問題です! 五街道駅南口にあるガス灯通りは日本一の長さを誇る見事なものですが、その長さは何メートルでしょう? 一番、千五百メートル、二番……』


 クイズは三択で、正解者にはイツカイザー・缶バッヂがプレゼントされる。三問の問題を全問正解すれば、さらにイツカイザー・ステッカー。一問も正解できなかった子には、残念賞の缶バッヂ。企画としては面白いが、しかし、そんな郷土色の強い問題がこの先いくつひねりだせるのやら。くどいようだが、五街道にはそこまで特色も名産品もないのだ。


 ……などと、そんないらぬ心配をしている場合でもなかった。

 三問のクイズが終了してしまえば、いよいよアクション・シーンのスタートだ。

 僕の出番まで、もうあと数分もない。


『はい! 残念ながら、全問正解者はいませんでしたねー。ボクたち、よかったらまた遊びに……きゃあぁっ!』


 あやめの悲鳴が、響きわたる。

 下座のセット裏から、わらわらと『戦闘員アブラム』たちが飛び出したのだ。


 そうして最後に『ケムゲノム』が重量感たっぷりにのそのそと姿を現すと――ちょっとびっくりするぐらいの歓声と拍手が鳴り響いてきた。

 みんな、『ケムゲノム』の不気味さと完成度の高さに驚いているのだろう。

 舞台の上の子どもたちが、泣きださなければよいのだが。


 下座のヤギさんが、僕たちに向かってキューサインを出す。

 トモハルはひと呼吸おいてから、舞台に飛び出した。


『待て! ゲノミズムの怪人め!』


 これは録音した声ではない。トモハルだけは、ピンマイクをつけているのだ。

 さっきよりは小さいが、それでも歓声と拍手が主人公『五十嵐道』の登場を迎え入れる。


 三分ていどのドタバタ格闘シーンの後は、ついに『イツカイザー』の登場だ。

 僕は呼吸を整えながら、ヤギさんの合図を待った。

 と――そのとき、僕の右手がふいに横合いからぎゅっと握りしめられた。


 トモハルがいなくなってしまえば、そこには僕とサクラさんしかいない。

 当然のことながら、僕の右手を握りしめているのはサクラさんだった。


 驚いて振り返ると、サクラさんが、天使のような顔で微笑んでいた。

(頑張って)というかたちに、その唇が小さく動く。


 僕はゆっくりうなずきかえしてから、その細い指先を一瞬だけ握り返した。

 その手を離し、ヤギさんへと視線を戻した瞬間、トモハルの声が鋭く響いた。


『変身! イツカイザー!』


 ヤギさんの右手が、大きく振り下ろされる。

 それと同時に、サクラさんの操作によって白いスモークが爆発的に放出され――

 僕は、その白い煙の中に飛びこんだ。

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