第3幕 死者の町

1 菜園の密談

 温かな毛布にくるまって惰眠を貪っていたフィリアは、朝の訪れとともにぱちりと目を覚ました。

 とはいえ、この魔女エマから与えられた寝室には窓もないので、朝日が差し込んでくるわけではない。ただ、壁に生えのびた白い花が燦然と輝いて、朝の訪れを伝えてくれるばかりである。


 寝台から半身を起こしたフィリアは、両腕を頭上にのばして「うーん!」とのびをした。

 それから、ふっと左の二の腕に視線を差し向ける。そこには白い包帯が巻かれており、赤い染料で奇怪な紋様が記されていた。


「怪我をしていることを忘れちゃうぐらい、痛くも何ともないですねー。やっぱり魔女さんの魔術はすごいです!」


 感じ入ったように、うんうんとうなずく。最愛の母親を失って以来、彼女はすっかり独り言の癖がついてしまっていたのだった。


 寝台を下りたフィリアは、灰色の貫頭衣を脱ぎ捨てる。これは、この屋敷で準備された夜着である。肌着ひとつのあられもない姿で夜着を丁寧にたたんでから、フィリアは自分の持ち物である装束を身につけた。


 それから、視線を寝所の片隅へと差し向ける。

 そこには、彼女の持ち込んだ宝剣が封印されていた。

 黒みがかった木材で造られた枠組みに、薄い水晶の板が張られている。その内側に、宝剣がひっそりと仕舞い込まれているのだ。


 これは昨日、魔女エマが半日がかりでこしらえてくれた、『封印のはこ』なる魔道具であった。

 この屋敷の家具はすべて床や壁から生えのびたものであるが、この『封印の匣』だけは独立した存在である。こうしておけば、魔女の屋敷も宝剣の力に脅かされることなく、安定するのだと聞かされていた。


 フィリアはそちらに近づくと、水晶の向こう側に眠る宝剣を覗き込んだ。

 とりたてて、異常は見られない。フィリアがほどこした縛りの術式も、そのままだ。

 水晶を鏡の代わりにして寝ぐせをちょちょいと整えたフィリアは、「さて!」と元気な声をあげた。


「いよいよ新生活の始まりですねー! まずは家主たる魔女さんにご挨拶いたしましょー!」


 跳ねるような足取りで寝所を横断し、フィリアは扉を押し開けた。

 魔女エマの部屋も、白い光に包まれている。

 が、魔女エマは長椅子に横たわっており、いまだ目覚めていない様子であった。


「ありり?」と小首を傾げながら、フィリアはそちらに近づいていく。

 魔女エマは、すぴすぴと寝息をたてながら熟睡していた。

 そしてその足もとでは、従者のジェラも安らかな寝顔をさらしている。彼女は床に座り込み、魔女エマの眠る長椅子に上半身だけを預ける格好で、すやすやと眠っていた。


「ふむふむ。従者さんの正体が狼さんだと考えると、それほど不自然な寝姿ではないのでしょうねー」


 ふたりの耳をはばかるように、フィリアは口の中でつぶやいた。

 そうしてしばらくふたりの寝姿を観察した後、ジェラの背後にそろそろと忍び寄る。

 その両手が毛皮の外套マントをそっと持ち上げようとすると、ジェラの肩がぴくりと動いた。


「……何をしておられるのでしょうか、お客人?」


「あ、起こしてしまいましたか。申し訳ないですー」


 毛皮の外套マントから手を離して、フィリアはぴょこんと頭を下げる。

 けだるげに身を起こしたジェラは、まだいくぶん焦点の定まっていない目でフィリアをねめつけた。


「謝罪の前に、理由をお聞かせください。どうして私の装束に手をかけておられたのです?」


「あ、はい。従者さんが狼さんの本性をあらわにしたとき、この外套マントも身体と一体化していたでしょう? でも、傷の手当てをするときには普通に脱いでいたから、どういう仕組みなのかなーと思って」


「……であれば、そのようにお尋ねすればよろしいではないですか。寝ている人間の装束を剥ぎ取ろうなどというのは、あまりに不作法かと思われます」


「てへへ。目の前の好奇心に逆らえない性分でありますもので」


 ジェラはひとつ嘆息してから、長椅子のほうを振り返った。

 魔女エマは、何も気づかずに寝息をたてている。


「……エマ様の安眠を妨げるわけにはいきません。あなたも、こちらにどうぞ」


 ジェラは音もなく立ち上がると、何もない壁のほうに近づいていった。

 彼女がしなやかな指先で壁を撫でさすると、そこに扉が生まれ出る。フィリアが昨日も拝見した、それは裏庭に通ずる扉であった。


 扉の向こうには、ちょっとした菜園が待ち受けている。

 ただし、厳密には屋外ではなく、そこは水晶の壁や天井で外界から隔てられていた。その向こう側に透けて見えるのは、黒い針のような葉をつけた森の様相だ。

 後ろ手で扉を閉めたフィリアは、再び「うーん!」と大きくのびをした。


「やっぱり朝は気持ちいいですねー! 今日もいいお天気みたいです!」


 透明の天井を通して、そこには朝の陽光があふれかえっていた。

 菜園を彩る花や果実や草の葉が、己の生命を誇るかのようにきらめいている。その場に満ちた緑と土の匂いを、フィリアは胸いっぱい吸い込んだ。


「……お客人は、お元気なようで何よりです」


「はい! わたしは元気いっぱいですよー! 従者さんは、お元気ではないのですか?」


「私は明け方近くまで、エマ様のお仕事を手伝っていたのです。昨日は『封印の匣』をこしらえるのに半日を費やし、本来の仕事を果たす時間が取れなかったもので」


「なるほどなるほどー。つまりは、わたしが持ち込んだ宝剣のせいということですね! かさねがさねご苦労をかけさせてしまい、申し訳なく思っておりますですー」


「……やはり笑顔でそのようなことを言いたてられても、あまりありがたみはないようです」


 頭ひとつ分も高い位置からフィリアの姿を見下ろしつつ、ジェラはそのように言い捨てた。

 フィリアは「あれあれー?」と小首を傾げる。


「なんだか今日は、ちょっと素っ気ないみたいですね! わたしに対する敵意や憎悪が再燃してしまったのでしょうか?」


「そういうわけではないのですが……どうしてエマ様はあなたのような存在を客人として迎えたのだろうと、あらためて不思議に思ったのです」


 黒い瞳を鋭く光らせながら、ジェラはそのように言葉を重ねた。


「あなたは石の都の住人としては、まだしも純真な存在であるように感じられます。また、虚言を口にすることを嫌っており、他者の生命を重んずる清廉さと勇敢さをも携えておられるように見受けられます」


「えへへ。そんな風に褒められちゃうと、ちょっぴり恥ずかしいですねー」


「ですがあなたはそれ以上に、人間性が破綻しています。節度や常識というものが欠落しており、あまりに行動が無秩序です。産まれたての赤ん坊でも、あなたよりは礼節をわきまえているように感じられるほどです」


「えへへ。そんな風にけなされちゃうと、ちょっぴり恥ずかしいですねー」


「そして何より、あなたはあのように恐ろしい宝剣の使い手です。鋼の刀剣というのはそれだけで忌むべき不浄の存在であるのに、あなたはその力を余すことなく振るうことのできる、きわめて危険な存在であるのです」


 ジェラの眼光が、いっそう鋭く研ぎ澄まされた。


「エマ様は、宝剣を振るうあなたの力はご自分の魔力にも匹敵するほどであると仰っていました。どうしてそのように危険な存在を、客人として屋敷に招き入れたのか……私には、それが解せないのです」


「ふむふむ。だけど、宝剣はもう封印されたのですから、危険はないのでしょう?」


「ですから、宝剣が封印される前の話です。あなたはいったい如何なる手段をもちいて、エマ様に取り入ったのでしょうか?」


 長い黒髪をざわざわと逆立たせながら、ジェラはフィリアのほうに顔を近づけた。


「よもや……色仕掛けでエマ様をたぶらかしたのではないでしょうね?」


「えー? 情愛の前に性の如何などは些末なものだと思いますけれど、わたしが魔女さんをたぶらかすなんて、ありえないですよー」


「どうして、ありえないのです? エマ様はあのように愛くるしいお姿をされているのですから、損得を抜きにしても愛欲をかきたてられるのが当然でありましょう」


「10歳ぐらいにしか見えない相手に愛欲をかきたてられるのは、倫理的にどうかと思うのですが……でも、従者さんは狼さんなのですものね」


 フィリアは、にっこりと微笑んだ。


「ご安心ください。わたしは魔女さんをたぶらかしたりはしておりませんし、今後もたぶらかす予定はありません。わたしはただ、魔術の世界に憧れているだけなのです!」


「そのお言葉を信じることができればいいのですが……」


「大丈夫ですよー。わたしみたいにあれこれ破綻した人間に、魔女さんがたぶらかされるわけないじゃないですかー」


「なるほど。納得いたしました」


 ジェラは身を引くと、鋭い眼光を消し去った。


「言われてみれば、その通りですね。あなたは見目の麗しい娘御でありますが、それを補って余りあるぐらい中身が破綻しているのです。このような相手に、エマ様がたぶらかされるはずはありません」


「うんうん。何かひどいことを言われているような気がしなくもないですけれども、納得いただけたのなら何よりですー」


「それであなたは、今後どうなさるおつもりなのですか?」


 いくぶん表情をあらためて、ジェラはそのように問い質した。

 フィリアはきょとんとした面持ちで、その姿を見つめ返す。


「それはもちろん、居候としてこちらでお世話になるつもりです。それが、魔女さんの決定でしたよね?」


「しかしそれは、ひと月という期限を切ってのお話でありました。ひと月が過ぎたら、あなたは素直にお帰りくださるのでしょうか?」


 フィリアは、にこーっと微笑んだ。

 ジェラは「なるほど」と腕を組む。


「どうあっても虚言は吐くまいというあなたの心意気は、好ましく思えなくもありません」


「はいー。隠すまでもないでしょうから言っちゃいますけど、わたしはこのひと月で弟子入りを認めていただこうと、野望の炎をふつふつと燃やしているのですー」


 ジェラはひとつ溜め息をつくと、気の毒そうな面持ちで首を横に振った。


「残念ながら、あなたの願いが聞き入れられることは決してないでしょう。そもそも石の都の住人に、魔術を扱えるわけはないのです」


「えー? それはどうしてですかー?」


「どうしても何も、あなたはこの十数年間、不浄の存在に囲まれて生きてきたのでしょう? 精霊の声を聞き、その力を術とする魔術師は、身を清らかに保たなければならないのです。あなたの肉体と魂は、すでに取り返しがつかないぐらい穢れてしまっているのですよ」


「でもでも、それじゃあこれまでに石の都の住人が魔術を習い覚えようとしたことはあるのですか?」


 ジェラは、うろんげに眉をひそめた。


「そのようなものが、存在するわけはありません。石の都の住人は、魔術を忌避しているのですからね」


「だったらわたしが、その定説を覆してみせましょう! 石の都の生まれでありながら、数々の魔術を体得する、わたしが初めての人間となるのです!」


 声も高らかに、フィリアは宣言した。

 しばらく黙りこくってから、ジェラは優雅に肩をすくめる。


「まあ、無理でしょうね」


「ちょっとー! ここはわたしの心意気に胸を打たれて、感涙に咽ぶ場面じゃないのですかー?」


「そのような筋合いはございません。それではわたしは、朝の食事の支度がありますので」


 ジェラは一礼して、フィリアに背を向けた。

 フィリアは「もー!」と頬をふくらませる。

 フィリアの位置からは見えなかったが、ジェラはその顔にさまざまな感情を押し殺しているような、実に複雑な表情を浮かべていた。

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