彼女と自分を繋ぐもの
春嵐
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「取って付けたような病気でヒロインが死んだりするのは、本当にいや」
これが、彼女の口癖だった。
「ばかじゃないの。勝手に死んでなさいよ。なんでそんな病気を、いかにもな悲劇に使うのよ。きらいよこんなのは」
「わかったわかった。わかったから」
リモコンを投げようとする彼女を、なんとかして抑えた。
「元気ね」
「いや母さんも止めてくれよ」
「暑くて動く気も起きないわ」
「平均気温だよ」
母さんは、暑がりだった。なのに、太っている父さんと結婚した。その父さんは、いま彼女の両親を連れてゴルフ中。
きっと父さんのほうが暑くて汗だくだろう。平均気温だけど。
「外。遊びに行くわよ」
「はいはい。母さん、行ってくるね?」
「帰りに海苔と卵買ってきて」
「わかったわかった」
外に飛び出していく彼女を、追った。
ずっとこんな感じ。
家が隣だから、彼女とは長いこと幼馴染みをやっている。
外に出た彼女。颯爽と、綺麗に歩く。まるでモデルみたい。
「あら。こんにちわあ」
「こんにちは。おねえさん」
近所のおばさん。彼女は、外ではきたない言葉を絶対に使わない。僕は、彼女の後ろに隠れた。
「膝の調子はどうですか?」
彼女。おばさんの膝をさする。
「最近は良い感じなのよお」
何事もない雑談をして。離れる。
この後がやっかいだった。
周りを見回す彼女。誰もいないことを確認して。
「あのばあさん、次の雨の日に相当痛むわね膝が」
こうやって僕に情報を寄越す。聞いてもないのに。
「それに見えたわ。あのおばさん。スカートのなか」
「やめてくれ。聞きたくないよ」
「あれは勝負パンツよ。膝の調子が良いからって、勝負をかけようとしてるわ」
いつもこんな感じ。綺麗で美しい見た目と裏腹に、頭のなかは小学生男子と同レベル。
「さあ、公園についたよ。遊んでおいで。僕はここで見てるから」
「わあい」
公園の遊具にとりつく彼女。
僕はそれを、ぼうっと見てる。
むかしから、こんな感じ。
彼女。全速力でジャングルジムを登り、滑り台で摩擦熱もびっくりの最高速度を叩きだし。
「まって。ブランコはまずいよ。今日スカートでしょ」
おもいっきりブランコを漕ぎ倒す。
「おお」
スカート。あまりに速いと、ブランコではスカートはめくれないのか。
ひととおり楽しんだあと、ゆっくり、ブランコをこぐ彼女。その隣で、僕も、ゆっくりブランコをこぐ。
「たのしかったね?」
「そうだね」
彼女を見るのは、実際、楽しかった。全力で遊び回る彼女。自分にはできないことを、代わりにやってくれている。
「また暗い顔になってるぞ?」
彼女。こちらを覗きこんでくる。綺麗な顔だから、どきっとした。
「
「うん。たのしそうだったね」
こわかった。遊んでいるときに、誰かが来るのが。
「そろそろ、帰ろっか。海苔と、なんだっけ?」
「卵」
「うん。買って帰ろう」
彼女。昼下がりの街を、爽やかに歩く。自分は、その隣。ときどき、人とすれ違うときは、彼女の後ろに隠れる。
彼女は、僕を隠してくれる。やさしい。
スーパー。飼い犬を繋いでおく車止めのところ。実際、一匹繋がれている。
「行ってくるね。ここで待ってて。おしっこしたくなったら連絡してね?」
「犬じゃないんだから」
彼女が、スーパーに颯爽と入っていく。
「おいで」
犬。寄ってくる。
手を舐めてくる。首の下を、撫でてやった。気持ちよさそうだ。
犬とじゃれあっているうちに、彼女が帰ってきた。
「あら。仲良くなってる」
「いい子だよ。挨拶して」
犬が、軽く一回だけほえる。
「いい子ねえ」
彼女。
「でも
「こらこら」
犬にやきもちを焼くんじゃない。
「帰りましょ?」
「うん」
帰り道。まだ昼下がりで、人は少ない。
「帰ったら、お昼ごはんだね。なに食べたい?」
「味噌ラーメンっ」
「いいよ。もやしあったかな」
「買いましたっ」
「さすがです」
彼女の笑顔。
彼女は、やさしい。とても。
だから、自分が隣にいることが、つらくなることもあった。彼女はこんなに綺麗で、こんなにやさしいのに。僕なんかに付き添って。
「ただいま」
「おかえり」
「お昼。
「冷や麦ね。冷たいやつをちょうだい」
「わかった」
料理は、基本的に僕。たまに父さん。母さんは料理だいすきだけど下手なので、彼女が来てるときは台所には立たない。
料理を作って、みんなで食べた。みんな、おいしそうに、麺を啜っている。
「
「僕は、いいかな」
「そっか」
無理強いはされない。彼女も母さんも、やさしい。
ごはんを食べ終わって。またドラマを見て彼女がリモコンを投げようとするのを阻止して。一日が終わった。
夕暮れ。
「じゃあ、僕はここで」
「はいはい」
「じゃあね?」
手を振る彼女。さびしそう。
僕も手を振って、部屋にとじこもった。
急いでヘッドホンを耳に当て、ぎりぎりの最大音量で音楽をかける。意味はないことだけど、どうしても、やめられない。
人の帰ってくる気配。
たぶん、父さんと、彼女の両親。
縮こまって、ひっしに、耐えた。音楽。耳がこわれるぐらいの大音量も、まったく、耳に入らない。
ただただ、耐えた。
ドアが、開く。音は聞こえないけど、見える。
ヘッドホンを外す、指。
「来ちゃった」
彼女。
「どうしたの。下で話が」
「いいのいいの。あんなの。放っておけばいいのよ」
彼女。僕に、寄り添ってくれる。あのときも、そうだった。
「訊いても、いい?」
「うん」
彼女の顔。西陽が差し込んで、綺麗。
「やっぱり、まだ、思い出す?」
「ううん。もう、ほとんど思い出さない」
もっと子供の、それこそ小学生ぐらいの頃。ビルの崩落事故に遭った。
僕の両親と彼女の両親はなんとか自力で抜け出せたけど、僕と彼女だけは、瓦礫の中で閉じ込められた。
周りの呻き声がだんだんなくなっていく、真っ暗闇の中で。僕と彼女は、こうやって、ずっと、寄り添っていた。
助け出されたとき。彼女のおなかには瓦礫が刺さっていて。僕は、人と会うことができなくなっていた。
「さわる?」
彼女。おなか。
「うん」
さする。脇腹のあたり。
「もうほとんど、傷は残ってないの。すごいよね」
「うん。すごい」
彼女は、もう普通に生活できている。
でも。僕は。
「まだ、聞こえるの?」
「うん」
彼女と自分の両親以外の人と出会うと、あのときの、呻き声が聞こえる。それはどんな強力な睡眠薬よりも強くて、こわかった。処方された睡眠薬も効かなかったし、手術用の麻酔すら、貫通した。恐怖で、息ができなくなる。何度も何度も、それで死にかけた。お医者さんも、心因性のものとしか判断できなかったらしい。
僕は。もう二度と。見知らぬ人には会えない身体。
「大丈夫よ。大丈夫。今日だって、近所のおばさんに会ったとき、大丈夫だったじゃない?」
「
「ずっといるわよ。これからも」
「うん」
彼女には、学校がある。彼女の人生がある。自分には、彼女を邪魔する資格が、なかった。
「もう、帰ったほうが」
「ううん。今日からずっと、一緒。私も、ここにいるの」
「うん?」
「私ね。これから、ここに住む」
「いや。家隣だし、帰ったほうが」
「いいの。私がそうしたくて、そうするんだから」
そして、彼女は。本当に我が家に住み始めた。僕の部屋で寝て、僕の部屋で起きて。一緒にごはんを食べて、一緒にドラマを見た。リモコンを投げようとする彼女を、毎回僕が抑えた。父さんと母さんは、笑って見てるだけ。
「ね。勉強教えて?」
彼女。教科書を持ってきて、僕に突きつける。
人と会えない時間、呻き声の恐怖から逃げるために、ずっと勉強をしていた。頭の中を別の何かで埋めている間は、こわくなかった。大卒認定も、テストは年齢の関係で実際に受けてないけど受かるレベル。彼女は、高校二年の教科書。
「どこ?」
「この、作者の意図、ってのが、分からない」
「
ひとつひとつ、丁寧に、教えた。
「教えるの、上手いね。先生みたい」
「そこら辺の先生よりは頭いいから」
「なまいきねっ」
彼女。そういえば。
「
もうずっと、僕の家に、僕の部屋にいる。
「いいのいいの。そんなのは。
そう言った彼女。いつもの笑顔。
「ずる休みか」
「あ、ばれた」
「だめだよ。ちゃんと行かないと」
「へへ」
彼女。
その日の夜。彼女が僕の部屋で眠ってから、僕は下の階に降りた。
「父さん。母さん。話がある」
父さんと母さん。リビングでテレビを見てた。血液型の行動特集。
「
「うん」
血液型というか、それよりも、もっと深くて濃いところが、同じだった。だから、崩落事故で、ふたりだけ、生き残った。
「
「なに。ふたり一緒の部屋で寝てることとか?」
「母さん。はぐらかさないで」
母さんが黙る。
「なんで凍氷は。学校に行かないんだ?」
「休みだからよ。学校がなんか色々あって」
「違う。違うよね、父さん」
父さん。無言。
「教えて、ほしい。今日凍氷に勉強を教えてるとき。凍氷、おかしかった」
彼女と深いところで繋がっているから、ふたりの間で、うそは、あんまり通じない。どんなに彼女が笑って隠しても。見えてしまう。分かってしまう。
「だから休みだって」
「もう隠せないよ」
母さんを、父さんがなだめた。
「いいかい。南弧。いまから言うことは、全部。本当のことだ。つらいけど、聞いてほしい」
「その前に。私から先に言わせて」
母さん。
「南弧。あなたの名前はね。王様のいる場所の南と、孤独の孤から取ったの。王様は孤独だけど、才能を活かして、自分だけの生き方をしてほしいって、そういう願いを込めて」
「でも、僕の名前は」
「そう。お父さんがね。孤独の孤の字を間違ったのよ。信じられる?」
「ごめんなさい」
「そういうお父さんの言うことだから。いい。つらかったら、話を聞くのをやめて、部屋に戻っても、いいのよ。それだけは、覚えていて」
「うん。わかった」
父さんのほうに、向き直る。
「南弧。凍氷ちゃんの人生は、もう、長くない」
「は?」
「崩落事故のときにおなかがぐちゃぐちゃになってて、それが、もう、どうしようもないところまで、行ってしまった」
うそだ。
「だから、残った人生を、凍氷ちゃんの好きなように、させてあげたいというのが、凍氷ちゃんの両親の願いだ。だから凍氷ちゃんは、君の部屋にいる」
「おなかの傷。だって、触らせてもらったけど、ほとんど見えないぐらいになってたのに」
「整形手術で、外側だけが綺麗なんだ。凍氷ちゃんが、それを望んだんだよ。南弧に、安心してほしいからって。このことも、最期になるまで、言わないでほしいと言われたことだ」
「でも。ラーメンだって。彼女は食べてた。食べてたのにおなかが」
「もう、何も、感じていない。おなかに入ったものが、ほとんどそのまま出ていっている」
「うそだ。そんな。そんなことが」
それでも。
「僕の血を飲ませれば」
崩落事故で生き残ったのも。
お互いに、お互いの血を、飲み続けたからだった。それで渇きを癒して、呻き声がなくなっても、ふたりだけ、生き残った。
父さんと母さん。悲痛な顔。
「事故のときとは違う。あのときは水分が必要だった。でも、いまは、どうしようもないところまで、行っちゃったんだ。凍氷ちゃんは」
「そんな」
彼女。
彼女が、先に死ぬのか。
人に会えない僕よりも、先に。
おかしい。
そんなのは。
気付いたら、自分の部屋にいた。
凍氷。
僕のベッドで、眠っている。
彼女の服をめくった。
おなか。
どこにも、異常はない。普通の女の子の、普通の、おなか。
なのに。
この中の内臓が。
どうして。
「えっち」
凍氷。
「ごめん」
服を、戻した。彼女に背を向けて、眠る。
「おなか。ちゃんと治ってたでしょ?」
「うん」
「いつでも、さわっていいよ。好きにしてね?」
「うん」
眠れないまま、彼女の寝息だけを聞きながら、夜を過ごした。
それからは、ずっと、彼女の側にいた。彼女はもう、外に出ようとも言わなくなった。
毎日を、僕の部屋の中で、ふたりで過ごした。夜には、ふたりでくっついて寝た。彼女はいつも寝る前に、好きにしてほしいと言ったけど、彼女に寄り添う以外のことは、しなかった。ぐちゃぐちゃになったおなか。それだけが。僕の頭の中を、かきみだした。
それから数日後。
彼女は、咳をしたときに血を吐いた。
「ごほっごほっ。へへ」
口元を血だらけにして。
「かっこいいだろ」
そう言って、笑う。
「なに言ってんだ。すぐ病院に」
「やめてっ。悲劇のヒロインみたいに扱わないでっ」
「でも、血が」
「いやっ。いやよ。ばかじゃないの。勝手に死ぬの私は。なんでこんなことで、いかにもな悲劇みたいに言うのよ。きらいよこんなのは」
彼女。せいいっぱいの、抵抗だった。
「わかった。でも、血が出たことは、父さんと母さんには報告する」
「うん」
「凍氷。凍氷がしたいように、する。凍氷は、どうしたい?」
「ここに」
涙。彼女が泣くのを見るのは、これがはじめてだった。崩落事故のときさえも。泣かなかったのに。
「ここにいたい。おねがい。南弧のそばに。いさせて」
「わかった」
それから。
彼女はだんだんと衰弱していった。
階下にも降りられなくなった彼女の世話を、すべて僕がやった。味噌ラーメンを食べたいといつも言うので、なるべく味を薄めて、とにかく、食べやすいようにして、口に運んで食べさせた。
やがてそれも、食べられなくなった。
味噌ラーメンのスープを薄めて、それとごはんを合わせて煮込んでお粥にして、彼女の口に運んで食べさせた。彼女は、美味しいと言って、ゆっくり、本当に、ゆっくりと、食べた。
毎日、彼女の身体を拭いた。爪を切って、メイクをしてあげた。
起きているときは、おなかをさすって。
寝ているときは、手を握った。
起きている時間よりも、寝ている時間のほうが、長くなってきた。
ある日、ふと気付いて、彼女に、自分の血を飲まないかと、言った。
「ばかっ」
「でも。事故のときだって、血を飲んでなんとかなったじゃないか」
「私を吸血鬼にするつもり?」
「僕は。真面目に言ってる。本当に」
「ごめんね。違うの」
彼女。やさしい、笑顔。
「あなたの血は、私を生かすためにあるんじゃない。あなた自身が生きるために、あるの」
「でも。僕は。凍氷に。生きていてほしい」
「私も。同じ。南弧に、生きててほしいの。少しでも長く。ずっとずっと。一緒に、いられなくて、ごめんね?」
そういう彼女に、なにも。言い返せなかった。
「私の名前の由来はね。凍った氷。いつまでも、融かされないで、美しいままであるように、って。だから、私は、綺麗なまま、勝手に死ぬの。ドラマみたいな、悲劇のヒロインはいや。死にたいから、死ぬの」
「そっか」
それだけを言って、彼女は、また眠った。
僕は。
耐えきれなくなった。
階下に降りて。
父さんと母さんに話して。
病院に、電話をした。
救急車が、すぐに来て、彼女を、運んでいった。
起きるかと思ってこわかったけど、救急車に担架が入る、最後の、そのときまで、彼女は眠っていた。
よかった。彼女が起きなくて。それだけを、思った。
ありがとう。
僕に生きる意味をくれて。
感謝しても、しきれない。
ぐったりとして、動かない彼女。
救急車のドアが、閉まった。
それだけ、だった。
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