十二体の飛沫たちへ:「」

七辻ヲ歩

「」

 退院してから暫くして、久しぶりに部屋を訪れた私に姉が笑う。


 カーテンをひらいたベランダ窓から、あたたかく射し込む朝十時の陽光が、折りたたみ式の炬燵の上に広げた、A4サイズのプリンタ用紙を照らして白く映える。右手に握られた鉛筆が、その上へ、滑らかにかすれた黒い線を引いていく。

 傍らには、紅茶を淹れたポットとカップが一組、湯気はもう見えない。猫舌だから、ちょうど良いのかもしれない。

 たまにケータイの画面を眺めては、また鉛筆を握り直して黒い線を引いていく。

 描かれているのは、ここから歩いて数分のところにある、児童公園に咲くものだと思う椿の花。きっと見頃だろう、青々とした艶やかで厚い葉も描かれる。


 今日は小春日和だ。


 縦長の畳のない部屋にわざわざ畳を持ってきて敷き詰め、そこに必要な道具、本棚、折りたたみ炬燵、ティーセットをすべて運んだ。姉オリジナルの作業場。およそ南を向く窓は、晴れた冬場の貴重な暖房となる。

 なのに寝床は決まって玄関に近いフローリング。もちろん敷布団。畳の方が冷たくないだろうに。そんな心配も無用なのか、寒くないようわざわざ暖かいカバーが取り付けてある。

 スツールに目をやると、綿の手触りが心地の良い白のパーカーが、かかったままになっていた。

 陽だまりとはいえ、この部屋は寒い。姉の肩には祖母が編んだひざ掛けがかかっている。


「」


 マーカーのインクが幾つもの丸い点を重ね、紙面に散らばる。手首を返して捻じれた筆先が、紙面に引く線に強弱をつけ、躍動的なイメージを生み出した。

 陽だまりの中に陽だまりが生まれる。


 窓の左側にある本棚は、姉の趣味が一目でわかるくらいきっちりとジャンル別に分けられているのだけれども、真ん中の棚一列だけ、本の代わりに違うものがおいてある。姉の置物コレクションだ。

 中でも目を引くのは、奇しくもこの二つ。

 陶器でできた植木鉢の置物は、葉っぱがとても精巧にできていて、よく見ると朝露まで表現されている。

 またその隣には同じ陶器でできた、枝から今にも飛び立とうとしているヒバリの置物。翼の広がった部分が繊細でとても良くできている。

 二つとも、あの友人が拵えたものだと聞いたことがある。どうしていつまでも残してあるのだろうと不思議に思ったけど、きっと姉のことだから、それでも大事に残したのだろう。


 布団のついてない炬燵の上で、プリンタ用紙が白く映える。

 炬燵に裏写りのしないようプリンタ用紙は二枚重ねになっていた。あとはみどり色のマーカーを付け足して、椿の葉に色を載せれば完成。

 陽だまりの中の、陽射しに照らされる赤い椿の花。

 この赤い色が好きだと姉が話してくれたのを思い出した。


「」


 ケトルの音が台所に響く。

 注ぎ口から水蒸気を燻らせ、熱いお湯が二つのカップに注がれていく。

 中味を掻き回して、姉は暖かいポタージュスープを持ってきた。

 私はきいろ、姉はあかむらさきのカップに、木造りのスプーンが浮力に負けて半ばまで浮いている。


「ありがと」

「」


 姉妹そろってカップに口をつける。

 美味しい。

 ついでにおなかが空いてしまいそうな香りが鼻をくすぐる。


「」


 姉が笑う。

 私もつられて笑う。


 陽だまりの部屋に、笑い声がひとつ。

 姉の笑い声が、あたまの中で再生された。


 姉の首に巻かれた包帯が、陽光で白く映えていたのを思い出した。

 姉が目を伏せて、音の無い息を吐いて、口を結んだことも。


 折りたたみ式の炬燵の上に、完成した絵と鉛筆とマーカーが重なっている。


 私が姉の声を聴くことはもうない。

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十二体の飛沫たちへ:「」 七辻ヲ歩 @7tsuji

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