第15話 帰宅

 ぼくは走って家へと向かい、すぐに家の前に到着した。

 門を開けて、玄関扉を開けようとして、そこでためらって立ち止ってしまう。扉の前で俯けば、小さいころに石で扉をひっかいた傷が目に入った。

 懐かしい。

 親にバレたときは凄い怒られて、大泣きした記憶がある。ムキになって家出して、お姉ちゃんが迎えにきてくれたんだ。

 生まれてからずっと、ほとんど毎日開けている扉だ。

 今の僕にとっては、接着剤で固定でもしたみたいに堅く閉ざされているように感じる。

 何を話せばいいのだろう。どんな顔で会えばいいのだろう。

 扉に手を伸ばして直前で固まっていると、ふいに扉が開いた。


「孝彦!」

「ぃだっ!」


 おでこに強烈な衝撃を受けて、視界が暗転した。

 余りの痛みに悶絶してうずくまってしまう。


「げっ……大丈夫か!」


 お姉ちゃんの焦った声が聞こえてくる。

 どうやら、お姉ちゃんが開けた扉に頭をぶつけたらしい。

 駆け寄ってきたお姉ちゃんに、気合で笑ってみせる。


「大丈夫だよ。もう痛くない」

「赤くなってるじゃねーか」


 舌打ちしたかと思えば、僕の手を強引に取り、家の中へと引きずり込んでいく。

 ソファに座るように促されて大人しくする。

 お姉ちゃんは保冷剤を濡らしたタオルでくるんで差し出した。


「これで頭を冷やせ」


 おでこにあてる。

 ひんやりして気持ちいい。


「ったく、心配かけさせんじゃねーよ」


 お姉ちゃんはソファーの上にあぐらをかいて座り、話を聞く体勢になった。


「……ごめん」

「それで? なんで家出したんだ?」

「お姉ちゃんに好きな人ができたって聞いて、居ても立っても居られなくて」

「はぁ? そんなことで家出したのか? もっと深刻なことかと思ってた」


 大したことなくて安心したと笑っている。


「そんなことじゃないよ! お姉ちゃんが盗られるかもしれないのに!」


 ものすごーく深刻なのに、お姉ちゃんはなにも分かっていない。

 弟であることこそ、ぼくの存在意義だ。

 アイデンティティの崩壊の危機なのだ。非常に重要なことである。


「まったく。いい加減、姉離れしろよなー」


 ぼくの頭を強く撫でながら、ぶっきらぼうに言う。

 口とは反対にお姉ちゃんは嬉しそうだ。

 ぼくは姉離れなどする気は一切ない。

 終生の弟だ。弟は永久に不滅だ。いつまでも弟だ!


「昨日は動揺しちゃったけどもう大丈夫。佐倉さんが慰めてくれたから」

「恭子に変なことされてないか?」

「とくに何も」


 一緒に寝たけど、別に変なことはしていない。

 むしろ佐倉さんは真剣にぼくの話を聞いてくれた。

 そんな彼女のことを疑うのは失礼にあたる。


「お前ももうちょっと恭子を警戒しろ」

「佐倉さんはいい人だよ」


 佐倉さんのことを悪く言われて、ムッとなってしまう。

 この話題は止めだ。お姉ちゃんと険悪になりたくない。


「お姉ちゃんはどうして武田って人のことを好きになったの?」

「切っ掛けは私の弁当のことを褒めてくれたことかな」

「えっ」


 ちょっと待ってほしい。

 朝、昼、晩、三食ともにぼくが作っている。つまり憎き武田という男は、ぼくの作ったお弁当を褒めたということだ。

 なんという余計なことをしてしまったのだろうか。


「当然、弟の孝彦が作った弁当だって説明はしたぞ? 私に作れるはずがないし!」

「威張らないでよ……」

「それで孝彦の話になって、武田は孝彦の良さを分かってくれたんだ」

「ん? んん!?」


 何がどうなっているのか理解に苦しむ。

 今の話からは色恋沙汰の雰囲気が全くないではないか。


「私が孝彦のことを男子に話すと変な顔をする奴ばっかだったけど、武田は違った。良い弟さんだな、って言ってくれた!」

「……それで?」

「それが好きになった理由。もちろん、それ以外にもいいところはたくさんあるけど」


 僕は呆然としてしまった。

 開いた口が塞がらないとは今のような状態を言うのだろう。

 お姉ちゃんは男子から告白されたことがないと聞いて、僕はいつも不思議に思っていた。

 ガサツなところはあるけれど、容姿は整っているし性格も明るくて話しやすい。

 男子どもにモテない理由は特にないはずだった。でも、その理由を理解してしまった。


「僕のことを話すって、いつもどんな風に話してるの?」

「大したことは話してない。よくできた弟だって、ありのままに言ってるだけ」


 あちゃー、とソファーの背もたれに身体を預けた。

 保冷剤でおでこを冷やしているのに、汗がダラダラと出てくる。

 お姉ちゃんって、なんて残念な女なのだろう。

 自分で言うのもなんだけど、ぼくは優秀な弟だ。立派な弟になるために努力してきた。そのぼくのことをありのままに話してしまえば、傍から見れば姉バカにしか見えない。

 周りの男子から、重度なブラコンだと認識されてしまうのは当然だ。


「ごほん」


 混乱した思考を鎮めるために、わざとらしく咳をして仕切り直しを図る。

 好きになった理由については分かった。これ以上聞いても呆れてしまうだけだろう。


「次の土曜日に水族館に行くんだって?」

「それも恭子から聞いたのか?」

「うん」

「ったく、相変わらず恭子は孝彦に甘い……」


 お姉ちゃんは右手で頭を仰ぎ、わざとらしくため息をついている。

 確かに佐倉さんはよく便宜をはかってくれる。

 でも無償じゃない。ぼくが代償を払っているからだ。


「うまくいけばいいね。応援してるよ」

「おう。ありがとな」


 なんて応援するようなことを口にはしたけれど、勿論嘘に決まっている。

 ぼくがくされチンポ野郎とのデートを応援するはずがない。

 そのデート、全力で妨害します!

 『デート妨害大作戦』のスタートである。

 もちろん、佐倉さんも強制参加だ。

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