二人の約束

23

 見沼がサービスを利かせてくれて、陽夏が俺の事務所まで運ばれて来た。見沼は挨拶だけしに来たが、車で待っていると言う。

 シオンが見沼の前で演説してから、二日経っていた。

 俺はアイスコーヒーをグラスに入れて、ローテーブルに並べた。陽夏は喜々としてそれに口を付ける。


「にっがぁい」

「料理用の砂糖ならあるが、グラニュー糖もシロップも無いんだ」

「ミルクは?」

「無い。紅茶くらいあれば良かったな」

「でも、矢岸さんはこれが好きなんでしょ」

「無理してまで飲むことはない」


 俺はソファに浅く座って、背中を凭れさせた。


「ね、矢岸さん。初めてここに来たときのことを思い出したんだけど」

「君がシオンを睨んだときのことか」

「矢岸さんも怪しかったよ。もっと怪しくない方がお仕事増えると思う」

「努力する」


 陽夏は大きめの黒いTシャツを着て、芥子色のショートパンツを穿いていた。傷の無い膝が揃えられている。


「でも、幽霊はあんまり関係なかったね」

「そうだな。でも俺は、感情の残滓も見えるんだ」

「どういうこと?」

「あの日、垣内邸の小屋には、悲しみが一種類しか無かった。それは、状況証拠から言って、大海のものなんだよ。つまり、星那は深い悲しみを持っていなかったことになる」


 陽夏は体の脇に手を突いて、思い詰めたような表情をした。


「あの殺人は、どうやら連続殺人の一つらしい。つまり、笹崎信彦が連続殺人の果てに自分の義理の兄を殺したという誤誘導があった。しかし、実際に手を下したのは垣内星那だ。それは、父親に強要されたことだったのか」


 陽夏はまたコーヒーに口を付ける。しかし、グラスの中身はほとんど減らなかった。


「垣内星那は、父親を殺したことで、悲しみを晴らした。何故なら、父親を殺したかったからだ」

「閉じ込められてたから?」

「それもあるだろう。さらに言えば、従姉が自殺した件もあった」


 陽夏は黙ってグラスを睨んでいる。


「笹崎家には、娘がいた。笹崎綾という。大海の二つ上の姉だ。しかしその子は、自殺してしまった。その理由が、優太郎にあったとすれば」


 俺はコーヒーを一口飲み下して、両手をチノパンのポケットに突っ込んだ。


「シオンと俺の推理は、聞いたか」

「見沼さんが大体教えてくれた。ややこしくて、良く分かんなかったけど」

「そうだな。あれはややこしい。消去法の為には、全ての可能性を疑う可能性がある。推理をして、それを崩して、また推理をして……。ややこしいことこの上無い」

「うん」

「あんなもの、はったりなんだけどな」

「はったり?」

「話を戻す。垣内優太郎は、笹崎大海が大きくなるのを待つのとは別に、違う可能性を試していたのだと思う。それは、自分の娘の笹崎綾に、自分の子供を生んでもらうものだった。綾は優太郎と吉乃の子供だから、二分の一アルビノの遺伝子を持っている。つまり、子供が生まれれば、四分の一アルビノになる可能性がある。そして、綾はそのことで自殺した。これは推測だが、星那も同じことをされていたんじゃないか」


 陽夏が息を飲むのが分かった。俺の言っていることは理解しているらしい。それを確認して、俺は推理を話し続ける。


「垣内星那は、父親の垣内優太郎が憎かった。そしてそれこそが、連続殺人と優太郎殺害との違いを生んだ。星那は、優太郎が生きた状態で首を刎ねたかったんじゃないか。連続殺人と同じ殺し方では、憎しみを晴らすことが出来ないと思ったんじゃないか」

「それで、星那は……」

「つまり、計画は優太郎のものだったが、星那はそれに乗る振りをして、優太郎を殺すことに成功した。どこまで知っていたんだ?」

「計画なんて、知らない」


 俺は手を腿の上で組んで、陽夏の目を見る。そして少しずつ、言葉を選んでいく。


「星那は、君を守ってくれと言った。俺はその意見を尊重することにした」

「私は、星那のお父さんを殺してない」

「そうだろうな。ただ、十四日星那単独犯説には、矛盾点がある」

「矛盾点……」

「十四日に星那が母屋で優太郎を殺し、その後で小屋に戻ったというのはあり得ない。何故なら、星那の体と服は乾いていたからだ。十四日は雨が降っていた。体を拭く布は小屋の中には無い。星那が小屋に戻るまで雨具が使われていたとすると、陽夏がそれを片付ける必要がある。しかしそれでは、門扉を一人で開けなければならない。それは不可能だ」

「でも、私は」

「君は優太郎を殺していない。ただ、殴って昏倒させただけだ」


 陽夏の体が跳ねる。


「星那の服が濡れていなかったことから、犯行は十三日だったと考えられる。君が垣内邸に呼ばれていたのは、十三日だった。門扉を開けたのは垣内優太郎だ。計画の説明を受けた君は、後ろから優太郎を殴って昏倒させ、小屋に行って星那を助けた。しかし星那は優太郎を殺さなければならない。そこで、星那は母屋内部に隠れることにした。君は目を覚ました優太郎によって垣内邸から追い出され、その後優太郎は、母屋内部に隠れていた星那によって殺害された。星那は小屋にいると思っていたから、隙を突かれたんだろう」

「星那が……」

「君は、星那の服に錆が付いているという情報をここで聞いて、星那がトリックを使って小屋に入った可能性に勘付いた。それと、垣内優太郎の母親が星那の母親と同じように色素が無かったと知って、優太郎の黒い思惑に気付いた。星那に自己防衛の為の殺人の動機があることにも、気付いていたんじゃないか?」

「私、星那を信じたかったのに」


 陽夏は下唇を噛んで、眉間に皺を作っていった。しかし俺には、まだ言うことがある。


「君は、何故二着目の服を持っていたんだ」

「星那に、中学校の制服を着て欲しくて」

「十三日に防犯カメラに映らないように垣内邸に行ったのは、優太郎にそうするように言われていたからか」

「そう」

「十四日に垣内邸に行ったのは?」

「十三日に、明日もう一度家に来て、って言われたから。でも、会えなかった」


 十三日中には、星那は小屋に入っていた。十四日には、会えないだろう。

 陽夏は俯いて、両手を握り締める。


「私、十三日に、明日もカメラに映らないように来て、って、星那に言われたんだ。でも、星那を疑っちゃった。それで……」

「わざとカメラに映ったのか。星那は、君を」

「止めてよ!」


 陽夏は顔を上げて、俺を睨む。目は赤く充血し、頬には涙が流れている。俺は何度、この子を泣かせたのだろう。

 俺の中には、まだ疑問と推理が渦巻いている。垣内星那は、陽夏を殺人犯として陥れようとしたんじゃないか。だから十四日に、カメラに映らないように垣内邸に来るように言ったんじゃないか。だから十三日に、裏庭に水を撒いてまで足跡を偽装したんじゃないか。殺人が十四日に起こったように見せかける為に。ただ、陽夏はその思惑に気付いて、わざと防犯カメラに映った。陽夏は防犯カメラの位置を把握しているから、もし犯人であれば、防犯カメラに映る道は選ばない筈だと推理させる為に。


「星那は、私の友達なんだよ……」

「そうだな。君の友達は、君を守ってくれと言った。でも、君がどうするかは、君の自由だ」


 陽夏は俺を見たまま、目を見開いた。俺は陽夏の目から視線を外さずに、言葉を連ねる。何か言っていないと、感情が体を破裂させそうだったからだ。


「星那は、声を震わせていたよ。俺には、星那が何を考えていたのかも、君が何を考えてあの日俺を訪ねたのかも分からない。ただ、俺は君の言っていることを疑ってはいない。でもな、人間は、人を疑わなければならない。人を信じる為に」

「そんなこと言ったって」

「人を信じることは、簡単なことじゃない。人を疑う方が、実はずっと簡単なんだ。だから、信頼には価値がある。それが大切なことだと、感じられる」

「私、星那のことを疑っちゃったんだ……」

「俺は君を信じている」

「どうして?」

「最初はサービス残業のつもりだったが、いまは違う。君は真実を隠してはいたが、俺に嘘は吐いていないだろう」


 陽夏は視線を落とし、膝の上で握っている手の甲に涙の雫を落とし始める。俺はその雫を見る度に、俺の信頼も間違っていなさそうだと確かめられた。


「私、もう行くね」

「ああ」


 陽夏はグラスを手に持って、中身を一気に呷った。みるみるコーヒーが減っていく。


「無理に飲まなくて良いのに」


 空になったグラスがテーブルに置かれる。陽夏は、赤い目で笑ってみせた。


「いままでありがとう、矢岸さん。握手しよ」


 陽夏はテーブル越しに、小さな手を差し出す。俺はそれを握った。陽夏は繋いだ手を振りまわす。


「そう言えば、ハンカチ持ってくるの忘れちゃった」

「次会ったときに返してくれ」

「くれたって良いじゃん。ハンカチの一枚くらい」

「それは出来ない。絶対に返してくれ」

「……分かった。絶対ね」


 陽夏は鼻を啜って、俺の手を握っていた手を離した。そのまま立ち上がって、出入り口に向かって歩き始める。


「このドア、直した方が良いよ」

「考えておく」


 陽夏は声を上げて笑って、廊下に消えていった。俺はソファから腰を上げられないまま、その姿を見送った。

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