1章 二人の少女

 足音がしないと思ったら、足が無かった。

 そいつはノックも無しにいきなりステンレスのドアを吹っ飛ばして、俺の事務所に入ってきたのだ。

 焦点を合わせてみると、足が無いそいつは見たところ二十五歳くらいの男だった。服は着ておらず、脛の途中から足が無い。宙に浮いているのだ。

 念のためその男が人間以外の存在であることを感じ取った後、俺は座っていたデスクの引き出しから塩の入った小瓶を取り出す。


「ちょっといま忙しくてな。悪いが、他を当たってくれないか」


 俺はそう言ったのに男は狭い事務所の中に入って来て、ローテーブルの上を通り越し俺のデスクに向かってきた。歩くように腿を動かしているが、足先は地面を捉えていない。

 俺が小瓶から塩を取り出して下手で投げる振りをしても、男は動きを止めなかった。ついにデスクの前までやって来ると、突然青い顔を歪めて、口を開く。


「俺を……、殺したやつを……」

「殺してくれ、なら受け付けないぞ。見つけてくれ、も後にしてくれ。それとも、信用出来る同業者を紹介しようか?」


 どんな伝手があるのか知らないが、たまに死んだ後になって俺のところに依頼をしに来る輩がいる。しかしいくら幽霊だかが視えるからと言っても、まさか幽霊から金銭の取り立ては出来ない。

 男は顔色を一層青くさせ、落胆を態度で示そうとしたのか、肩を落とした。それとも、生前からそういう癖があるのかもしれない。


「俺を信用してくれているのかも知れないが、紹介出来る奴ならいるんだ。青森の山奥で修行してた奴でな……」

「いたぁあい……。いたいよぉおおお」

「うん……」


 これは俺の経験した上での常識だが、霊という奴は大体、死んだときの状況のまま霊になっている。九十歳の人間が死んだなら九十歳のときの外見で霊になるし、犬が死んだら犬の霊になる。

 ところで幽霊と言えば足が無い、というのが社会通念だが、これがそうでもない。足がある幽霊なんてそこら中にいるし、足が無い幽霊というのは、なかなか見ない。

 何が言いたいかというと、目の前にいる足の無いこの男は、死んだときに足が無かったということだ。


「足はどうした。殺されたことと関係が?」


 俺がそう問うと、男の足の断面から血が滴り始めた。


「足を切り落とされて殺された、ということか」


 男は青い顔で頷く。そうなると憎しみも強くなるだろうし、早いうちに手を打って置かないと、祟りだ何だと厄介なことを引き起こすことになりかねない。

 とは言え俺だって暇ではなく、これまでの依頼の書類作成に新しい依頼の調査にと、ここ数年で一番忙しいと言っても過言ではない。少し前に行方不明者を捜索する仕事があったのだが、その一件をどこからか聞きつけた人たちが、次々と依頼を持ち込んできたからだ。そして俺の事務所のスタッフは俺しかいない。

 俺が首を捻っている前で男まで首を捻り始めたとき、ひしゃげたドアが音を立てた。


白石しらいしさん、ドアに恨みでもあるんですか?」


 男の体の脇から声の聞こえた出入り口の方を見遣ると、青いスーツを着たシオンが折れ曲がったドアを壁に立てかけていた。


「壊したのは俺じゃない。この男……、ここに男がいるんだが」

「そんなこと言われても、俺には見えませんしね」

「そうだ、最近足を切り落とされた死体は見つかってないか」

「俺は刑事じゃないんですよ。事件の情報がなんでも入ってくるわけじゃないんです」


 シオンはそう言いながら、足の無い男のすぐ後ろに立った。本人にそのつもりは無いだろうが、整列しているようにも見える。


「ちょっと探りを入れてくれないか。借りは今度返すから」

「その前にいままでの分を返してくださいよ……。足を切り落とされた死体でしたっけ。どうだったかな」


 足が無い男は肩越しにシオンの方をちらっと見て、すぐ俺の方に視線を戻す。この胡散臭い男は信用出来るのかと、その目は俺に訴えているようにも見えた。

 中峰紫遠なかみねしおんと名乗っているその男は、探偵事務所に勤めている下っ端の探偵で、たぶん歳は俺より一回り下くらいだろうから二十五を過ぎた辺り。たまに手を組んで調査をすることもある、仕事仲間というやつだ。そしてシオンは俺のことを、わざと読み間違えた名前で呼ぶ。


白石しらいしさん、俺が日本中の事件に精通してるしてると思ってませんか?」


 俺の下の名前は白石と書いてハクセキと読む。苗字は矢岸やぎしだ。それはともかく。


「そうだ、死んだのがどこなのか、聞いていなかった」


 俺がそう言うと、男は首を横に振った。殺された場所が分からないのだろう。拉致された後で殺された、ということだろうか。


「今日はどこから来た? ここに来たということは、東京か?」


 男は顎を引いて頷いた。俺はまた男の脇からシオンを覗き見る。


「日本中の事件に精通しているとは思っていないが、東京中の事件なら探れないか。いつまでもここにいられたら、俺が仕事にならない。どうせ暇なんだろう?」

「暇じゃないですけど……、まあいいですよ。東京だけなら、どうにかなるかな」

「殺害されたのは拉致された後かもしれない」

「また大きな事件を誘致しましたね」

「徳が貯まって仕方が無い」

「今回は、俺にも分け前があるかな」

「二人並んで極楽へ行こう。じゃあ、頼んだ」


 俺がそう言うと足の無い男がきびすを返し(かかとは無いのだが)、つぅっ……、と動いて、シオンの体を通過して行った。


「帰るのか」

「俺はまだ帰りませんよ」

「お前じゃない、そっちのお前だ」


 シオンは分かっていたという風に口の左端だけで笑う。俺が立ち上がって出入り口の方を見ると、すでにそこには誰もいなかった。



「白石さんは俺のことを暇だって言いますけどね、実は俺だって、暇じゃないんですよ」


 パーコレータで淹れた濃いだけのコーヒーを二人で啜っていると、シオンが不意にそんなことを言った。デスクの前には四人掛けのソファが二つ、ガラスのローテーブルを挟んでデスクと垂直に向かい合っている。俺とシオンはそれぞれ、ソファの真中に座っていた。


「へぇ、あの事務所、そんなに儲かってるのか」

「給料は悪いんですけど、依頼料は高いんですよ」

秋朝あきともさんが儲かってるんだな」秋朝花実かさねというのがシオンのボスだ。

「どうなんでしょうね。いや、そうじゃなくて、白石さんの顔を見る為にこんな東京の外れまで来ませんよって話ですよ」

「何かあったのか」

「ニュース見てませんか。この前、北区の赤羽で殺人があったでしょう」

「赤羽? あったかな。あったような気もする」


 俺も真面目にニュースを追っている訳ではないが、シオンが俺の事務所まで出張ってくるような事件があればどこかで情報は入ってきているだろうから、その事件は霊や呪いが関わっている訳ではないのかも知れない。それにしたって東京都内だけで一体、年間どれだけの殺人が起きて、どれだけの死にきれない人間がいるのか。


「それでですね。とある情報筋から、赤羽の事件が町屋と大泉学園であった二件の事件と関連しているかも、という情報が入ってます」

「それで?」

「どうやら連続殺人らしい、ということだけ。出来れば、その辺りで幽霊を探してもらえませんか」


 馬鹿な……、と口にすることすら憚られ、俺は黙ってコーヒーを啜った。


「ロハとは言いませんよ」

「どんな共通項があって、連続殺人だと?」

「それは、捜査上の規定で教えられないそうです」

「お前なぁ」


 シオンが腹の底で何を考えているのかは分からないが、俺が霊だ呪いだを感じられることを、隠しもせずに利用しようとすることがある。そして俺が乗るかどうかは、事態がどの程度収束しなさそうか、あるいはどのくらいの分け前があるかなどによって変わる。


「お前が暇じゃないかは知らないが、俺は暇じゃない。調査は山積み、報告書は雪崩寸前、依頼の電話は止まず……」


 俺が適当に喋りながら次に何を言おうか考えていると、不意に出入り口付近に気配を感じた。シオンも笑った顔を崩さずに一瞬目だけを動かし、さっきまでドアがあった空間を見た。

 俺は立ち上がって、着ているジャケットの襟を直す。


「何か御用ですか? どうぞ入ってください」


 気配は明らかに生きた人間のもので、それ以外の存在は感じられない。呪いや祟りの雰囲気も、敵意も恨みも漂っては来ず、どうやらポケットに忍ばせたジッポライターとカッターナイフの出番は無さそうだと判断する。

 少しの間があって、薄暗い雑居ビルの廊下を切り取ったその空間に、そっと、少しずつ、人影が現れて来た。明らかにこちらを値踏みしている目だけが、薄暗がりの中に浮き上がっているように見えたのも束の間、そいつは事務所の中にずかずかと入って来る。

 白い長袖のブラウスと、薄くチェックの入った灰色のスカート。ブラウスの上には灰色のベストを着て、前をボタンで留めている。手にはスクールバックを持ち、紺のソックスを履いた足は細く、黒いセミロングの髪を額の右上で編み込んでいた。

 シオンが足を組んで、口笛を吹く。


「白石さんの趣味にしては若すぎますね!」


 突然の来訪者は目を細めて、軽蔑したような眼差しをシオンに向ける。


「……ばかじゃないの」


 シオンは天井を向いて笑い声を上げ、俺は適当な言葉を探す。


「俺も同感だが、ところで、君は依頼人かな。この薄汚い雑居ビルに迷い込んだ訳ではないだろう?」


 一応の接客モードでそう言うと、笑い続けるシオンを無視して女学生は俺の顔を見た。俺はその目に真剣さとシオンに対する不信感を感じ取って、シオンに目で合図を送り、言葉を続ける。


「この人はちょっと、知り合いでね。従業員ではないから、安心して良い」


 俺の言葉を受けたシオンはカップを持ってやにわに立ち上がり、にやついたままソファの前から退く。


「じゃあ、仕事の邪魔しちゃ悪いですし、俺は帰ります。例の件は一応、お願いだけしておきますからね」


 それだけ言うとシオンは残りのコーヒーをぐいと飲み干し、そのカップを奥のキッチンに運んで、疾風のように去って行った。

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