次の新刊の話をしよう。

2121

夏の風うつる蜂蜜酒

 トス、と手に六冊の本の重みがかかる。近所の書店の紙袋の中身を確認すれば、三冊が文庫、二冊がソフトカバー、一冊が結構厚めのハードカバーだった。

 渡した相手は眼鏡の奥の瞳を綻ばせて、少し意地悪そうに笑うのだ。

「……多くない?」

「一日一冊読めるだろ?」

「じゃあ十四冊必要なのでは?」

「あとの八冊は図書館で見繕って」

「なるほど」

「オススメの本をLINEで送っとくよ」

 ズシリと筋トレ用品かの如く、貧相な腕を軋ませる。持って帰るのが億劫になるが、きっとこの中の物語にこれ以上の重みがあるのだと思えば苦にはならない。「まぁいつものことだし」と紙袋を肩に掛け直す。

 私には本の貸し借りをするクラスメイトがいる。広山誠というその人は、暑いのに長袖カッターシャツを着て袖を捲っている。伸びる腕は白く、きっと数ヶ月後の体育祭で赤く日焼けすることだろう。

「私からはこの四枚」

 駅前ビルのCDショップの袋に包まれたそれを渡すと、彼はやはり意地悪げに口角を上げた。

「少なくない?」

「こんなことなら、十四枚持ってくれば良かったと思ったよ」

「冗談だよ。俺が張り切って持ってき過ぎた。春にあんまり貸せなかったから」

 風が窓から入ってきて、靡いた髪が私の視界を一瞬隠す。彼はふっと視線を校庭へ向けた。

「夏の風だ」

 その声に、『夏が来たのだ』と思った。随分前から夏は来ていたというのに、初めて気付いたかのようだった。夏の風の音や色や匂いさえも、今なら子細に感じ取れる。

「ほんとだ……夏だ」

「だな。暑いから帰るのちょっとめんどくさいよな」

 彼の横顔は綺麗だ。髪は細く猫っ毛で、癖の強そうなそれをワックスで整えている。メガネの向こうの瞳の色は薄く、蜂蜜酒ミードの色をしていた。その瞳には、今は入道雲が映っている。

 こちらに向き直り、手を上げて軽快に言う。

「では、夏休み明けに」

「またね」

 アブラゼミの声が、風に紛れて教室に吹く終業式。

 私達の短い夏休みが始まる。



 クラスメイトの広川誠とは本とCDの貸し借りはするが、親しい友人という訳ではない。それこそお互いの小説と音楽の好みしか知らない仲だ。

 彼とは高校一年生、二年生と同じクラスだった。どこか達観したような目をしていて、最初の印象は何事にも本気にはならない器用で要領よくこなしていくタイプというものだった。話せば気さくで、クラスの陽気な人達と話していることも多い。一見すれば、小説を読むよりもマンガを読んだりゲームをしたりする方が似合う人だとあのときまでは思っていた。

 高校一年生の十月。日曜日に体育祭が行われ、次の日の振替休日に焼肉屋で打ち上げが開かれることになっていた。

 昼間に親に用事を頼まれて、その足で待ち合わせ場所に向かう。用事は早く終わってしまって予定の時間まで一時間以上もあった。きっとまだ誰も来ていないだろう。商店街を抜けて、駅のロータリーへと進む。

 昨日、日焼け止めを塗り損ねて焼けてしまった首筋が痛い。腕と顔にはちゃんと塗ったのに首のことはすっかり忘れていて、昼過ぎに痛いと気付いて塗ったけれどもう遅かった。流れる汗が日焼けに沁みてヒリヒリする。

 待ち合わせ場所の駅前の時計台辺りに日影が無ければ、近くのマクドにでも避難しようーーそう思っていたら、先客がいた。私と同じように日に焼けて肌の赤い、広山誠だった。

 それが当然とでも言うように、彼は文庫本を読みながら時計台の下に立っていた。本を読み慣れた人なのだろうということが、片手で本を開いている仕草や人通りの多い駅前でも物語に没頭しているところから窺える。声を掛けることも憚られるほど集中していて、足を止めてその姿を遠目に見ていた。

「何を読んでるの」

 ここで待ち合わせなので隣に無言で立つ訳にも行かず、ゆっくりと近付いて私はそう聞いた。きっと面白い本なのだろうと、彼の雰囲気から察せられたから。

 活字を追っていた瞳が、真っ直ぐさを失わないままこちらを見た。活字のように、自分を読み取られているような気がした。

「……早いね」

「一時間以上前に来ている人に言われたくは無いかな」

 文庫は栞を挟んで閉じられる。そのままリュックにしまおうとしたから、私は再び聞いた。

「何、読んでたの?」

 視線が困ったようにさ迷った。しかし本は予定通りリュックの中に仕舞われてしまう。

 目をすがめるようにして、こちらに視線を寄越す。

「……そっちは何聴いてたの?」

 トントンと自分の耳を叩いて、私のイヤホンを指し示した。

「これ、は……別に」

 多分、言っても分からない。テレビにも出ないようなマイナーなバンドだった。

「四條って、何を聴いているのか聞かれてもいつもはぐらかすよね」

 ーー確かにはぐらかしている覚えはあった。なるほど私が何を聴いているのか答えられないなら、彼に何を読んでいたのか答えさせることは出来ない。

 以前は友達に何を聴いているのかと聞かれて答えていたこともあった。けれど、「ふーん、そう」と興味無げに相槌を打たれるのが切なかった。「写真見せてよ」と言われて見せたら「顔そんなに格好よくないね」と言われて複雑な気持ちになって、それから答えなくなってしまった。

 彼女達が好きなのは、顔の造形のいいテレビに出る人達で、CMのタイアップに使われているようなアーティストで、こんなマイナーなライブさえも一年に一度するかしないかというバンドに興味は無いのだ。

 友達が興味を持たなくても構わない。動画配信サイトからリンクを飛び続けてあるとき奇跡のように見付け出したその歌声を、私は大事にしていたい。

 とはいえ、広川にそのことを知られていることにも、四條という名前を覚えられていることにも驚いた。人を読むことはなくとも、人のことをよく見ていることは事実であるようだ。

「本棚とか音楽プレイヤーとかって、人に知られるとと自分の内部を見られているような気がしてなんか嫌じゃない?」

 その言葉は拒絶のように聞こえた。だから私はすぐに謝った。

「嫌な気持ちにさせたなら、ごめん」

「あー違うんだ。ごめん、そういう意味じゃなくて……ちょっと嫌だけど、それでもこの良さを知って欲しいって思ったことない?」

 慌てたように否定して、彼は雰囲気を和らげふわりとはにかむように笑った。

「いつも学校の行き帰りに音楽聞いてたから気になってたんだ。けどあまり友達とは音楽の話をしたがらないから、俺と似たような理由かなって」

 少しだけ息を吸って、意を決したように言う。

「俺も教えるから、そっちも教えて」

 そのときの彼の笑顔の眩しさは、きっと一生忘れない。

「好きなものの話をするのは楽しいでしょう?」

 嬉しそうに笑うから、私も胸が熱くなる。

 この人ならば、茶化さずに聞いてくれるのだと思った。同時にこの人の好きなものについて、もっと知りたくなった。

「どんなバンドなの?」

「えっと、スペクトルっていうスリーピースバンドでキーボードとボーカルがすごくいいんだけど……聞く?」

 いくら私が言葉を尽くしたところで、きっと伝えきれない。ワイヤレスのイヤホンを片方外して渡すと、「ありがと」と言って彼は受け取った。

 音楽プレーヤーを操作してお気に入りの一曲を再生し始める。彼は目を瞑って、イヤホンから聴こえる音に耳を傾けていた。

 同じ音を聞いているのが、どことなく気恥ずかしい。

「音楽のことは詳しくないんだけど、音が厚くてその上に乗るボーカルの声がいい。とても綺麗な声をしているんだね。楽器みたいだ」

「そう! 楽器みたいなんだよ。他の楽器の音にいい感じにマッチして、キラキラしてるんだ」

「……確かに海に反射する光みたいな声だね。スポットライトみたいな強い光じゃなくて、ずっと見ていられるような眩しすぎない光。波の音みたいに、耳に心地良い」

「そう、それだよ……!」

 さすが読書家だからだろうか、言葉の表現の仕方がとても上手い。私は「それそれ、それですよ!」と心の中で何度も頷いた。

「次はそっち。何読んでたの?」

 本日三回目の同じ質問に、彼はやっと答えてくれた。

「安生椎哉っていう作家さんの本だよ。今読んでるのは幻想小説だけど、ホラーが多いかな」

「ホラーが好きなの?」

「好き。一番よく読むのはミステリーかな」

「ミステリーは、ちょっと難しそう」

「難しくないよ」

「犯人がすぐ分かったり、トリックを解いたりするのが得意なんだ?」

「いや、そういうのは得意じゃない。事件は起こるけれど、そこに描かれるのは複雑な人間模様だったり、格好いい生きざまだったりする。犯人は解けなくてもいいんだ。探偵と一緒に推理するのもミステリーの醍醐味だけど、それだけじゃない」

 その言葉に、ミステリーというものに興味が湧いた。もっと広山と好きなものの話をしてみたいと思った。

「良かったら、好きな本貸して」

「そっちはCDね」

 交換条件のように彼が持ちかけて、こうして契約が成立した。

 次の日に学校で、お互いに一冊と一枚を交換する。

 人がいるところで渡すことは、友達に茶化されるような気がしたから出来なくて、ずっとタイミングを窺っていた。それは向こうも同じようで、時折視線がぶつかる。

 タイミングは掴めず、帰りのHRも終わってしまった。みんなが部活や帰路へと向かう中、どうしようかと彼を見ると帰ろうとしているところだった。今日は諦めるしか無いだろうかと思っていたら、教室を出るときに彼が刹那こちらを向く。その視線が「付いてきて」とでも言っているように見えたから、私は慌てて学生カバンを肩に掛けて追いかけた。

 向かった先は図書室や美術室のある棟で、渡り廊下を渡るともうほとんど学生はいなかった。

 図書室に入ると彼は「どうもー」と司書に軽い挨拶をして流れるように返却ボックスに本を入れる。私も続いて図書室に入ると、彼が振り返り私のことを待っていた。

「放課後はテスト前でも無い限り、ほとんど図書室に来る人いないんだよね」

 そこで私たちは一冊と一枚を交換する。家に帰ると借りた本にはルーズリーフを破った紙が挟まっていて、LINEのIDが書かれていた。すぐに登録して本を貸してくれたお礼を送る。それからというもの、広山誠と私は本とCDを貸し合うだけの仲になった。



 私も広山も帰宅部だったから、夏休みの時間は自分のために使える。家に帰ると、母親がソファでお昼のワイドショーを見ていた。

「おかえりー、遅かったじゃない。スパゲッティあんたの分まで茹でちゃった」

「ちょっと色々してたんだよ」

 聞かれてもないのに言い訳のようにそう言って、時間が経って固まりかけたパスタに温めるだけのトマトソースをかけて急いで食べた。

 二階の部屋に行き、ベッドに座って布団の上に六冊の本を並べる。広山はどうやら『話題になっていた本』『広山の好きな本』『私が好みそうな本』をバランスよく貸してくれているらしい。

 さて、どれから読もうか?

 ふと一冊の綺麗な空の表紙の文庫本が目に付いた。著者は狭山トルスという。

 初めての作家さんの本で、短編集のようだ。これはどういう意図で貸してくれた本なのだろうか?

 その本を手に取ってベッドに寝転がってページを開く。日が沈む頃に、その小説を読み終わった。

 ああ、これは絶対に広山の好きな本だ。

 複雑な人間模様のミステリーがあり、少し怖い闇のあるホラーがあり、不可思議なことの起こる幻想小説がある。広山の好きなものばかりが詰まっている本だった。

 いつ出版された本なのだろうかと奥付けを見ると違和感があった。出版されたのは今年の五月なのだが、出版社名が入っていない。読書メーターにいつも記録を付けているから、感想を書くついでに検索してみるとタイトルでも著者名でも引っ掛からない。

 これは、どういうことなのだろう? 世の中に出版されていない本が、ここにある……?

 そんなのあるはずが無いだろう、とグーグルで検索を掛けると、すぐに出てきた。この本はboothというところで扱われているらしい。

 狭山トルスという人はカクヨムというサイトで小説を書いている人で、この小説はそこに上げていたものをまとめたもののようだ。所謂、同人誌と呼ばれるもの。

 この人のファン、なのだろうか。あんなに本を読むのだから、ネット小説というものにも精通していたとしてもおかしくはない。

 こういうところにも面白い小説はあるんだな、とカクヨムのその作者のページを開いた。



◇◇◇



 俺には本とCDの貸し借りをし合う友人がいる。

 体育祭の次の日の打ち上げで、本屋に寄ってから待ち合わせ場所の駅前の時計台に行ったら、思ったよりも大分早く着いてしまった。もちろんまだ誰も来ていない。買った小説を読みながら待っていると、次に来たのが四條美澄という女子だった。

「何を読んでるの」

 と聞かれて、困った。あのときに読んでいたのはあまり有名な作家ではなく、言っても分からないと思ったから。代わりに同じような質問を返した。彼女は学校の行き帰りにイヤホンをしていて、今と同じように人に何を聞いてるのかと問われるとはぐらかしていた。だから、なんとなく俺と似たような人なのではないかと思い、以前から少し話をしてみたかったのだ。

 思いきって自分の内面を吐露するように、彼女に「好きなものを教えて」と提案したときには心臓の鼓動が痛いほどに早くなって声が震えそうだった。あのときに肌が焼けていなかったなら、耳まで真っ赤になっていたのがバレていたかもしれない。

 それから四條との貸し借りが始まった。

 春休みに入る前の修了式のこと。いつものように本とCDを貸し合って「また四月に」と言って、別れる。しかし四月に会うことはなく、緊急事態宣言が発令されて春休みは延長された。新型コロナが流行ったからだ。

 世間的にはどうかはしらないが、四月から高校二年生が始まらなかったのは、本を読むことができる点において僥倖だった。

 今日も一冊の小説を読み終わり、読後の余韻に浸りながらそのままパソコンのモニターと向かい合う。そしてデスクトップに置いている、いつも使っているテキストエディターを開いた。

 俺ーー広山誠は小説を書いている。

 書いているとは言っても趣味の範囲で、ネット上に小説を上げたとしても閲覧数が三桁に行くことはほとんどない。それでも俺は小説を書くことが好きだった。書き始めたのは小学生のときで、きっかけは面白い小説を読んだときに、俺も誰かが面白いと思ってくれる小説を書きたいと思ったからだ。けれど小説を書くことは妄想を書き散らしているみたいで、しかも当時はあんまり上手くなくて恥ずかしかったから、身近な人に小説を書いているなんて言ったことはほとんど無かった。

 それでも書くのは楽しくて、中学生になったころに小説サイトに投稿し始めた。高校生になった今も、変わらず書いている。

 この自粛期間は、小説を読む点においてはもちろん小説を書くという点においても僥倖だった。

 しかもーーこのタイミングで印刷所の値段がかなり安くなっていた。自粛の影響で、イベント等が無くなったために印刷所の経営がかなり傾いているらしい。そのため多くの印刷所が割引キャンペーンを始めていた。

 自分の書いた小説を、手に取れる本にしたいと思ったことが無いわけではなかった。これまで書いてきた小説は、文庫本一冊くらいならば余裕で作れそうな量になっている。

 ただ、イベントに出るわけでもないのに刷るということは、なんとなくハードルが高くて出来なかった。けれどこの機会ならばと、思いきって作ってしまったのだ。

 一冊だけでも良かったのだけれど、割高になるし投稿サイトで懇意にしている方にも送れたらと思い、十冊ほどを刷る。

 印刷するために文庫の体裁に編集をして、表紙を作って……と色々とやりきって入稿が終わった。

 やりきった頃に、学校が再開された。

 自粛明けに図書室で、彼女に春休み前に貸していた本を返してもらう。

「前に話してたインディーズバンド、良かったよ。三曲目が歌詞も含めて好きだった。ああいう青春で爽やかな曲っていいよね。そっちはどうだった?」

「今回のも面白かった! 二冊あったけどミステリーの方が良かったな。まさかあのキムチ丼にあんな謎が隠されているとはね……! けど、こんなに休みがあるならもっと本を借りておけば良かったよ」

「そんな暇無かったからな」

「今度休みがあるときはいっぱい借りたいな」

 まさかこんなに休みが延びると思っていなかったから、二冊しか貸していなかった。貸せるなら貸したかったけど外に出ること自体推奨されていなかったし、出れたとしてもそもそも休みの日に二人で会うような仲でもない。

 数日後、印刷所から本が手元に届いた。届いた小さな段ボールを、ゆっくりと開ける。

 あのときの感動は忘れない。

 手に取れる形になったことで、昔書いた作品も再び生き始めたように思えた。

 手に取れる形になる、という高揚感。

 自室の椅子に座って、ページを捲る。内容なんてもう諳じれるほど知っているのに、いつもと違って見えた。

 そこで、一つの欲が生まれたことに気付く。

 ーー僕の小説を読んだら、彼女はどんな感想をくれるだろうか。

 そんな欲望のままに、夏休み前に五冊の本を用意して、そこに俺の本を一冊紛れ込ませた。だって、春に『いっぱい借りたい』って言っていたし。そんな言い訳をして。

 そしてーー頭を抱える夏休みを過ごすことになる。

 勢いで渡してしまったけれど、面白くなかったらどうしよう。自分の書いた話は客観的には読めないから不安だった。

 早く感想を聞きたい気持ちもあって、LINEを開く。しかしそんなに頻繁にLINEのやり取りをし合う訳ではなかったから、何もせずに画面を落とした。だって、今までそんなことしたこと無かったのに、いきなり感想を催促したらそれこそ不審がられるだろう?

 大丈夫、今回の夏休みは自粛期間の皺寄せで二週間ほどしかないのだから。

 夏休み明けの図書室にて。

「スペクトルの新しいアルバムいいな。もうなんて言っていいか分かんない。全曲良かった」

「でしょう? いい曲ばかりで最高の一枚ですよ……! 私も小説読んだよ」

 心臓が跳ねた。なんだか酸素が薄い気がする。浅い息を繰り返しながら、彼女の言葉を促した。

「そうなんだ。やっぱり六冊読みきれたでしょう?」

 声が上ずらないようにするのに必死だ。

「どうだった?」

 いつもしている問いなのに、今日だけは全く意味の違う響きを持つ。

「この文庫良かったよ。この作家さんの小説、もっと読みたいな」

 ーー泣くかと思った。

 彼女がそう言って指し示したのは、俺の作った本だった。その言葉があまりに嬉しすぎて、後のことはもう覚えていない。



◇◇◇



「この作家さんの小説、もっと読みたいな」

 そのときの表情があまりに印象的だった。

 いつもとは違う目の光。綺麗な色の瞳が、濡れたように輝いて、瞬きを繰り返す。

 小さく息を吐いた後、彼は目を伏せて眼鏡の奥にその瞳を隠した。

「ある?」

「あ、ある!あー……けど、一ヶ月くらいかかるかもしれない」

「一ヶ月?」

「……もうすぐ、新刊が出るんだ」

「タイミングぴったりじゃん」

「短編と長編、どっちがいい?」

「オススメの方!」

 今、会話に引っ掛かるところが無かっただろうか?広山の言葉を頭の中で反芻していると、彼は珍しいことを言った。

「……その小説、ハードカバーと文庫の両方買っちゃったから、良かったらあげるよ」

「いいの?」

「もちろん」

「……払うよ?」

「ううん、いいんだ。貰って。俺のところに同じ本が二冊あるより、四條が持っている方がいいと思う」

 強くそう言って彼は私にその本をくれた。だから私も彼に声をかける。

「あ、あのさ」

「何?」

 彼の目が合うと、私は言おうとした言葉が飛んでしまった。

「……いや、やっぱりなんでもない。またね」

 学校から一人で帰りながら、今日の会話の違和感についてずっと考えていた。この感覚は、ミステリーの中盤にたくさんの謎が提示されたときにも似ていた。

 あの会話の違和感はなんだろう。なぜ彼はあんな顔をしていて、しかもこの本をくれたのだろう。

 いつものようにベッドの上に座り、彼から貰った本を置く。表紙を見つめながら、膝を抱えて頭を置いた。

 一つ思い至ったことがある。

 仮にこの本が本当に文庫とハードカバーの両方を買い、私にくれるほど好きならば、なぜ最初に貸してくれなかったんだろう?

 無名の作家で出版社から発行されていない小説だから、という理由でこれまで貸さなかった訳ではないと思う。なぜなら貸し借りが始まったとき、私が早々に有名ではないインディーズバンドのCDを貸しているからだ。ライブ会場でしか売られていない、バンドメンバーが個人で作ったCDだったで、もちろんCDショップには売られていない。私がしているのに彼がしないということは無いだろう。

 あと今日の彼の言葉には嘘がある。前に調べたときに、この本にハードカバーなんて出ていないはずだからだ。

 気になるのは今日の挙動と、あの泣き出してしまいそうな瞳。僅かに赤くなった頬。

 それで私は一つの解答に辿り着く。

 多分、狭山トルスはーー広山誠だ。

 物語の中にもなんとなく違和感はあったんだ。話している最中に不意に風に気付いて「夏の風だ」と言うようなあの雰囲気が、この小説に描かれていた。それに『蜂蜜酒ミードの色』という表現は、彼の好きな作家がよく使っている、私も好きなフレーズだ。狭山トルスも物語の中でその表現を使っているシーンがある。

 答え合わせが出来ないものかと、カクヨムのサイトを開く。そこにはツイッターのアカウントも載っていた。リンクから飛んでツイッターのログを辿ると、この本の表紙を写した写真と共に『念願の文庫が届きました』と簡潔に書かれていた。どうやら十冊しか刷っていないのだとか。

 さらに遡ると一枚の画像に辿り着く。その画像は狭山トルスの本棚が写されていて、そこに収まっていた本は今まで借りた本ばかりだった。やっぱり、そうなのだろう。それだけでほとんど答え合わせが出来たようなものだったが、本棚の手前におもむろに置いてある眼鏡が、明らかに彼のものだった。狭山トルスは、広山誠でほぼ確定だろう。

 ……ただただすごいな、と思う。

 本を読むのはこんな私にも出来るけれど、『書く』というのは未知の領域だ。

 そして、違和感の理由が分かる。狭山トルスの本をもう一冊貸すと言ったけれどーー新刊が出るのに、短編と長編を選べるのはおかしいよ。きっと、私のためにもう一冊作ってくれるに違いない。

 私は嬉しくて、深く暖かな息を吐く。それは、なんて特別な本なんだろう。友人の書いた物語が、こうして触れる形になるなんて。

 壁に掛けていたカバンから二枚のチケットを取り出した。これはスペクトルのライブチケットだ。……今日、渡せなかったチケットでもある。

 君が君の紡いだ物語を読ませてくれたなら、私ももう少し踏み込んでもいいのかな。

 誘っても、いいのかな。



◇◇◇



 浅はかな嘘を吐いて、彼女に小説をあげてしまった。しかも見栄を張ってもう一冊貸すと言ってしまった。

 正直なところ、安易に言うべきじゃなかったと少し後悔している……。だって、校正だとか体裁を整えたりだとかに時間がかかる。表紙も作らないといけないから大変だ。果たして一ヶ月で完成するのだろうか? 僕はお金がないから、割引を最大限効かせるために二週間くらいは見ておいた方がいいし。

 ひとまず今回も短編集にしようと思う。一度、小説のレイアウトに流し込んでみたけれど、このままだとページ数が少なすぎる。少し書き下ろさなくてはならないだろう。

 パソコンに向かい、いつものエディターのアイコンを押し、ファイルを開く。そこには書きかけの小説があった。

 僕は、最近のことを小説にして書いている。

 けれど、この小説を次の本に入れるかどうかはまだ決めかねている。そんなことをしたら、きっと完全にバレてしまうから避けたい。いずれ言いたいけど、まだそんな心の準備は出来てない。

 小説を書くのは楽しい。一人で書くだけでも楽しいけれど、感想を貰えるとそれだけで「書いてきて良かった」と、これまでの自分をも肯定できる気がする。そして何でもなかった自分の小説が、君が好きだと言ってくれるだけでかけがえのないものになっていく。

 君が読んでくれるなら、俺は書き続けられる気がするんだ。

 君に面白いと言ってもらえる小説が増えたらいいなと願いながら、今日もこうしてキーボードを歌って物語を紡いでいく。

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