第7話 道化と奴隷③

(1)

 

 微笑む白い少女と確かに目が合った直後、エンゾの意識は突然途切れた。

 そして、意識を取り戻した時にはベッドの上に倒れ込んでいた。

 今自分が何処にいるのか分からず、瞬時に飛び起きて周囲を忙しなく見回した。

 ベッドマットの固い感触、一応洗濯はしてあるが所々黄ばんだ染みが残るシーツ、傷だらけの板張りの床、亀裂や塗装剥がれが目立つ壁、壁に沿って置かれた傾いた飾り棚、開き戸の把手が壊れた小さなクローゼット。

 窓らしい窓は一つもなく、あるのは壁に小さな丸穴状の明かり取りの窓のみ。

 そこから漏れる陽光が朝を告げている。


 飛び起きてみたはいいものの、昨夜目撃した幻想的かつ不可思議な光景が脳裏から離れてくれないし、更にその前に見せられた実験の光景を思い出す。

 途端に胸糞の悪さで胃の腑から吐き気が込み上げてくる。

 半身を折り曲げ、吐き気に耐えていると首元で赤い光が明滅し始めた。


 首に下げた、本革の革ひもに通した小さな血の色の石を今すぐ引き千切ってしまいたい。

 このチョーカーはユーグに渡され、強制的に身に付けさせられたのだ。

 道化か奴隷のどちらか、もしくは両方が世話係を呼び出すために作られたもので、石は魔女の血で作られた魔血石という、魔力を持つ石だという。


「くっそ……、どっちか知らんけど朝っぱらからなんなんだよ……!」


 握り締めた拳を力一杯ベッドマットに叩きつける。

 拳はマットに沈んだが、すぐに込めた力の分だけ跳ね返された。

 あんな気狂い連中なんかを何で甲斐甲斐しく世話してやらなきゃいけないんだ!

 エンゾはベッドの上で抱えた膝の間に頭を埋め、低く唸る。


「勘弁してくれよ……」









(2)


 スレイヴと道化の牢より更に奥――、廊下の先は突当たりの壁に見せ掛けた隠し扉になっていた。

 一見すると他の壁同様古びた石壁にしか見えないが、ユーグが少し力を入れて壁を押せばギィィッと金属同士が擦れ合うような音を立てて、壁ごと奥に向かって開く。

 石壁に見せ掛けたその扉をユーグが先導し、続いてヴァイオリンのケースを大切そうに抱えたスレイヴ、最後に二人から距離を取って歩くエンゾの順に潜っていく。

 石壁の扉の先には、廊下の続きと他の壁とほぼ同じの石壁が廊下を挟んでいる。

 左右の石壁には強固な鉄扉がそれぞれ一つずつ取り付けられていた。


「右の部屋は道化が使用中だから私達は左の部屋だ」


 左の鉄扉の前に立つユーグが説明するより先に、スレイヴが横から口を挟んだ。

 ほんの一瞬、ユーグの黒い眉がぴくりと跳ねた――ように見えたが、気のせいだったかもしれない。

 鉄面皮を張り付けたままでユーグは見るからに重そうな扉を押し開けた。

 先程の石壁の扉よりもずっと硬く重厚な音が辺りに反響する。

 ユーグは扉を抑えると黙って二人に中に入るよう、手振りで促してきた。


 広さ四帖程度の室内は四方の壁も床も天井までもが鉄で作られていた。

 黒光りする壁はやけに重々しく、明かり取りの小窓や空気穴すらないせいか、息苦しいまでの圧迫感を与えてくる。

 重々しいだけでなく、家具調度品が一切排された無機質かつ殺風景な様子にたじろぎ、ごくりと喉を鳴らす。

 無為に彷徨わせた視線は部屋の中心にきたところで止まった。


 そこには、鎖で手首を後ろ手に縛られ、床に跪かされる一人の男がいた。


 年の頃はエンゾと同じくらいだろう、まだ若い。

 だが、窶れきった顔付きや土気色の顔色から、何日も拘束されてろくな食事も睡眠も摂っていなさそうだった。


「なんだ、こいつ……」

「ヴァメルンからの密入国者さ」

 思わず呟いた独り言に、またもやユーグではなくスレイヴが答える。

「密入国は軽犯罪だし、捕まえてすぐにヴァメルンに送り返すって聞いたけどよ……??もしかして、こいつは他にも殺しとか盗みでもやらかしたのか??」

 この質問に対してはスレイヴもユーグも答えようとしなかった。

「そこはだんまりかよ!」


 苛立ち紛れで凭れていた鉄の壁に後ろ蹴りを入れる。

 足の裏からふくらはぎにかけてじんと軽い痺れが生じる。

 苛立ちは収まることを知らず、エンゾはぎりぎりと奥歯を噛みしめながら鉄の壁を何度もゴンゴン蹴りつけた。

 そんなエンゾをスレイヴは横目でちらりと侮蔑を込めた視線を送り、ユーグは腕を組んで黙って佇んでいる。

 男は苛立って壁を蹴り続けるエンゾだけでなく、落ち着き払った二人の方にも何度も視線を巡らせ、怯えた目で三人の顔色をビクビクと窺っていた。


(こいつはどう見繕ったとしても、こんな場所に監禁されるような重罪人には見えないのに――)


 粗方苛立ちが治まり、怯える男を冷静に観察しだしたところで、エンゾの隣にユーグが移動してきた。


「手を出せ」

「は??」

「いいから手を出せ」

 言われた通りに右手を差し出せば、ユーグは指先で撮めるくらい小さな、コルク栓のようなもの二つ、エンゾの掌上に転がした。

「なんだこれ」

「耳栓だ」

「はぁ??耳栓ん??」

「いいから黙って今すぐ嵌めろ」

 いつの間につけたのか、ユーグの耳穴は手渡されたものと同じ耳栓が嵌められている。

「意味わかんね。説明不足にも」


 程がある、そうエンゾが続けようとしたのと、スレイヴがヴァイオリンを弾き始めたのはほぼ同時だった。


 その曲の旋律は繊細な硝子細工を次々と叩き壊していくような、強すぎる衝動性と裏に潜む不安感を駆り立て、早鐘を打つように鼓動がドッドッドッと速さを増していく。

 鼓動の速さが増すごとに心臓は握り潰されるかのように痛みだし、頭も鈍器で殴られ続けるように痛みだす。


「だから嵌めろと言ってるんだ!!」


 胸を抑え込んで苦しみだしたエンゾの手からユーグは無理矢理耳栓を奪うと、強引に彼の両の耳穴に捻じ込んだ。

 音が聴こえなくなると胸と頭の痛みは立ちどころに消えてしまった。

 訳が分からないと益々混乱しながらユーグの横顔を、続けて男に視線を向ける。

 男は大きく見開いた目を真っ赤に血走らせ、しきりに頭を振り続けてもがいていた。

 獣の咆哮に似た声で悲鳴を上げ、床に転がりのたうち回って苦しんでさえいる。


「なんじゃ、これ……って、おい、やめろよ!」


 白目を剥いて舌を突き出し、跪きながら男は鉄の床に自ら額を打ち付け始めた。

 何度も何度も、額が割れて顔中が鮮血で赤く染まっても。

 悶えながらも男は何度も何度も鉄の床に額を打ち続けた。


「……ヴァンサン様の鳥と呼ばれる奴隷や道化が、罪人にも関わらず生かされているのはヴァンサン様に愛玩されるためだけじゃない。音楽によって罪人の拷問、もしくは処刑代わりに狂い死にさせる実験に協力させるためだ」


 目の前で繰り広げられる凄惨な光景。

 エンゾは男を止めることもできず、情けないことに腰を抜かして座り込むしか成す術がなかったが、あることに気づいて叫ぶ。


「でも、なんでこいつスレイヴは耳栓してなくても平気でいられるんだ!!」

「人を狂わせる音であろうとも美しい音には変わりない。音で人の精神や命を支配するなんて最高ではないか」


 エンゾの叫びにスレイヴが答える。

 演奏の手を止めることなく、こちらに視線を寄こすこともなく。

 ここで初めて、エンゾはスレイヴの異常性と共に彼がスレイヴと呼ばれる意味を思い知らされる。

 奴隷は彼を指すのではなく、彼の音楽で人を奴隷以下に落とすことを指すのだと――

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