Red cyclamen perfume

雨音亨

episode1 Morning, meeting and breakfast

朝。

いつもと変わらないスマートフォンの振動で目を覚ます。

気だるい身体を奮起させ、伸ばした片手でアラームを止めた。

(今日何曜日だっけ?)

鈍い思考が今日という日を探す。

遮光されたカーテンの隙間から、太陽の光が漏れ込んでいた。

小さく呻きながら睡眠時間の短さに抗議する身体をなんとか起こすと、はだけたシーツから素肌が露出する。

パーマをかけたショートボブの黒髪を軽くかき上げて、繰り返している朝という時間を木崎沙奈はぼんやりと見つめていた。

「ん~……何時?」

不意に背後から声がする。

振り返ると膨らんだシーツがもぞもぞと動いた。

「7時。ごめん、起こした?」

「ううん大丈夫、起きてた」

あからさまな嘘に沙奈は苦笑する。

彼女の名前は、佐々木美憂。6歳年下の恋人。

同棲中の彼女は現在、我が家の24時間自宅警備を生業にしている。

その原因について本人曰く、人間嫌いの悪化が原因、らしい。

過去に「私も人間よ」と沙奈が言った時「沙奈は人間じゃないから大丈夫」と、何となく失礼な気がしなくもない返事を寄越した事があった。

人外生物になった覚えがない以上、美優が沙奈をどう認識しているのか甚だ疑問である。

「朝ごはん、食べる?」

「んーーー」

曖昧な返事を肯定と受け取り立ち上がろうとすると、手首を捕まれてベッドへと引き戻された。

「ちょ……」

摺り寄せてくる肌のぬくもりが心地良くて、今にも抹殺されそうな沙奈の労働意欲が悲鳴をあげる。

「美優」

「行っちゃ、や……」

胸元に頬を当て、美憂が甘えた声で呟く。

絶滅寸前の労働責務を総動員して、この甘い誘惑に抵抗する。

「またそんな事言って。駄目よ、私が働かないとここの家賃だって払えなくなるんだから」

「ぅ~~~」

嫌々と首を振りながら沙奈を抱きしめる美憂の髪を撫でる。

ふわふわとした長く茶色い髪からいい香りがして、反射的にそっと抱きしめた。

「ほら、わがまま言わないで。美味しいハムエッグ作ってあげるから」

美優の好きな食べ物の一つ。

かくして提案は無事承認され、美憂の腕が緩んだ。

立ち上がる沙奈の腕を美優の指先が名残惜しそうに撫で、最後に指が絡み合い、離れた。

「今日はオレンジジュースがいいな」

「はいはい。朝食が出来るまでの間に、シャワー浴びておいで」

「なんで?」

「昨日の汗、流したいでしょ?」

「沙奈は?」

「私はそんなに汗かいてな……」

言いかけて、チラリと美憂を振り返る。

案の定、不服そうなジト目が沙奈を睨んでいた。

「今日は絶対、私が沙奈を泣かせてやるから」

余計な刺激を与えてしまったらしいが、美優のこんな感じの発言はいつもの事なので特に問題はない。

「お手柔らかに。ほら、服とバスタオルは後で持ってってあげるから。浴びておいで」

毎回、一方的に攻められることに不服そうな顔をしているけれど、美憂が沙奈をまともに抱けたことは一度もない。

潜在的な依存が、抱くより抱かれる事を選んでしまっていることに彼女は気づいていない。

それでも果敢に挑んでくるのは彼女の願望故かもしれない。

彼女の願い。

それは木崎沙奈を独り占めすること。24時間、365日。

自分だけを見つめる沙奈を美憂は夢見ている。


***


初めて沙奈が彼女の存在を知ったのは3年前。

沙奈が務める建築デザイン会社の、プロジェクト成功を祝う祝賀会場であるホテルに、彼女はいた。

茶色の柔らかそうな髪をアップにまとめた美人顔。猫のような愛らしい瞳がとても印象的だった。

しっかりとした社会人女性のオーラを纏い、フォーマルな装いでホテルのロビーを人待ち顔で彩る花。

恋人と待ち合わせかな、となんとなく思いながら、その日は過ぎた。

次の日、同僚とランチで訪れた喫茶店に彼女の姿を見つけた時はかなり驚いた。凄い偶然もあるものだ、と。

更に次の日、仕事帰りに立ち寄った書店で。また次の日は通勤中の電車の中。

5日目に会社のロビーで彼女を見つけた時、沙奈は思い切って彼女に話しかけた。

偶然にしては出来すぎだし、ストーキングされる覚えもない。

探偵か何かかと思ったが身辺調査をされるような理由も見当たらなかった。

確かに、彼女に対する好奇心がなかったと言えば嘘になる。

あれほどの美人がどうして沙奈の周りをうろついているのか、気にならない方がどうかしている。

同時に、沙奈は退屈な日常に生じたこの奇妙な出来事を、心のどこかで楽しんでいる自分を自覚していた。

「ねぇ、貴女。違ってたならごめんなさい。もしかして私に何か御用かしら?」

キリリとした表情で彼女は沙奈へと視線を向けた。

長いまつげが目の輪郭を際立たせ、抑えられたトーンの口紅が少し開いた薄い唇を魅力的に彩っている。

着ているスーツは高級すぎず、さりとて安物ではない。

僅かに感じる混ざり合った香水の香り。

キッチリとした服装は、事務職というより高級店の店員を思わせた。

しばらく沙奈を無言で見つめていた彼女が突然、沙奈の手を取った。

「へ?」

凄い勢いで走り出す彼女に、半ば引きずられるように沙奈も走る。

「え?ちょっと!?」

ランチタイムでもないオフィス街を、なぜか手を繋いで疾走する女二人。

そんな奇妙な光景を作り出している自分の姿を客観的に想像して、沙奈の口元が緩む。

周りを歩く人々が何事かと次々に自分たちを振り返るのが面白かった。

不意につんのめり、転びそうになる沙奈を彼女が支えてくれた。

「こっちに来て」

混乱したまま手を引かれ、やがてとあるマンションの一室に辿り着いた。

「一体、なんなの、貴女」

エレベーターを経由してもまだ整わない息で、とりあえず尋ねてみる。

こんなに走ったのは多分、大学の学祭以来だった。

肺も足もズキズキと痛い。

沙奈を先に部屋へと通して、同じく息を切らしながら、彼女は玄関をロックした。

玄関の鍵は二つ。

一つはサムターン式の普通の鍵。

もう一つは初めて見る形式で、止めたチェーン錠の途中に金属が設置されており、それを開けないとチェーンが外せない仕組みになっているようだった。

その金属部分に設置された南京錠が今、彼女によって施錠された。

これは……鍵がないと内側からも開かないのでは?

そんな沙奈の疑問を肯定する決定的な言葉が、彼女の口から発せられた。

「木崎沙奈さん。貴女には一生ここで、私と一緒に暮らしてもらいます」

「はい?」

どうやら沙奈は、まんまと美人女史に誘拐&監禁されてしまったらしい。


***


ひとえに誘拐と言っても今回の場合、つい勢いに流されて、脅されたわけでもないのに沙奈が自分で彼女について来てしまった以上、沙奈自身の過失を大いに認めざるを得ない。

自主的にここに来た、と言われても仕方がないほどに。

しかしそのせいか、正直怖いとかヤバイとかいう実感があまりない。

沙奈は、どうやら今だこの状況を楽しんでいる自分に気づく。

見たところ、室内は普通のワンルーム。

開かれたカーテンから太陽の光が差し込み、整頓された室内を照らしていた。マンションは大通りに面していたが、ビルの隙間に遠くの山が窓から見える。5階のわりに景観はまずまずだった。

玄関に置かれた芳香剤代わりの香水が仄かに香る。

とりあえず、走らされたせいで悲鳴を上げている足をヒールから解放して、沙奈はそのまま部屋へと進んだ。

「ここ、貴女の家?」

「ち、違います!ここはその、セカンドハウスで、それで」

なるほど、彼女の家か。

フローリングには毛足の短いグリーンの円形ラグ。

シングルベットの上の布団もグリーン。

ついでに、テーブルとその上に置かれたマグカップまで濃さはそれぞれ違うものの、グリーンで統一されていた。

「緑、好きなの?」

「落ち着く、から……」

「なるほど」

ラグの上に転がったクッションを掴んでお尻の下に敷き、ラグの上に腰を降ろすと、沙奈は上着を脱いだ。

走るのをやめた途端に噴き出した汗のせいで、身体に張り付くブラウスの感触が気持ち悪い。

「エアコン、つけてくれる?」

促されるまま、エアコンのスイッチを入れて、彼女がおずおずと沙奈を見る。

「あの、私、貴女を監禁したんですけど」

「そうみたいね」

「怖くないんですか?」

足の状態を確認をしながら、彼女を見ずに答える。

「貴女、手とか足とか切る趣味ある?」

「まさか!そんな気持ち悪い!」

「うん、それなら良かった」

よし、足はとりあえず豆になったりしてない。

「良かったって、貴女状況分かってるんですか!?」

「貴女こそ、状況分かってるの?」

沙奈の言葉に彼女が怯む。

「私はガッツリ仕事中だったの。オフィスから私がいなくなって暫く経てば、誰かが探し始める。そしてロビーの受付担当は走り去る私と貴女を見てる。勿論、あの時間に外にいた大勢が走る私たちを見てるわよ」

「そ、それは……」

「その人達の証言を追っていけば、いずれここに辿り着く。うちのオフィスからもたいして遠くないしね。それに」

沙奈はスカートのポケットから社内用携帯電話を取り出す。

「GPSもあったりして」

沙奈の手から携帯電話をもぎ取り、急いで電源をオフにすると彼女はそのまま床へと叩きつけた。

業務用に会社から支給された携帯電話ではあるが、乱暴にされると心が痛む。旧式だから、あれくらいで壊れたりしないだろうけど。

あいにく、沙奈の個人携帯はオフィスの引き出しの中で眠っている。

「攫うにしてはちょっと計画がずさんすぎね。ねぇ、元々そんな予定じゃなかったんでしょ?本当の目的は何?この一週間、どうして私を尾けまわしてたの?」

玄関の鍵からして、いつかはやるつもりだった可能性はあるが、彼女の様子を見る限り、それは決して今日ではなかっただろう。

「……うるさい」

「え?」

「うるさいって言ってるの!さっきからベラベラと偉そうに!貴女、自分の立場分かってんの!?」

「ぅっ!」

むなぐらを強い力で掴まれ、そのままベットの上へと放り出された。

なにやら逆鱗に触れてしまったらしい。

ブラウスの胸元が強く引っ張られたせいで、ボタンが数個はじけ飛ぶ。

露わになった胸元から、ワインカラーの下着が覗いた。

「貴女はもう私のものなの!これから、ずっと!」

起き上がろうとする沙奈にのし掛かり、彼女の手が沙奈の両手首を押さえつけた。

「私、今汗だくなの。ベッド、臭くなるわよ」

「どうでもいい、そんな事」

追い詰められた暗い瞳が、沙奈を見下ろす。

ほつれた髪が彼女の綺麗な顔に影を落としていた。

「私の事しか考えられないようにしてやる」

脅しめいた言葉と狂気的な行動。

彼女の言葉を聞きながら、ふと、どうしてだろう、と沙奈は思っていた。

こんなに綺麗な人が恋人に困るとは思えない。

彼女が沙奈の名前を知っていたことから、誰でも良かったとも考えにくい。

彼女の狙いは沙奈。

でもなぜ、執着するのだろう。

首筋に彼女の吐息を感じながら、投げかけてみる。

とてもシンプルな質問を。

「貴女もしかして、私の事が好きなの?」

肌に触れかけていた唇の動きが止まり、身体が沙奈から離れる。

見ると、紅くなった顔を片手で隠して沙奈を恨めしそうに睨んでいた。

なるほど、そういうことか。

「も、もし、そうだったとしても、貴女みたいな人が私なんか好きになるわけないでしょ!?」

なんだろう、この自己肯定感の低さは。

もしかして、自分がどれだけ美人なのか自覚がないとでもいうのだろうか。

いや、まさか……

「私みたいな、なんの取り柄のない人間……しかも女だし、告白してまた気持ち悪がられたら……私……私は……だから、だからこうするしかないの!」

甲高い叫びが部屋に響く。

『また』と彼女は言った。

過去の辛い経験がその言葉の裏に透けて見えた。

「えーっと」

何から伝えるべきか沙奈は言葉の順番を組み立てる。

「まず、私は貴女の事、とても綺麗だと思うし、素敵に見えるわよ」

「逃げる為に嘘ついたって無駄!」

押さえつけられたままの左手に彼女の爪が食い込む。

「つっ……。それから、好きならまずは知り合いましょう。貴女は私を知ってるみたいだけど、私は貴女を知らない。だから、まず名前を教えてちょうだい」

「そんな事言って、逃げた後、警察に突き出す気なんでしょ!?分かってるんだから!期待させて、どうせ裏切る気でしょ!?」

会話すらままならない。

不信と不安の無限ループ。

一体どこのどいつだ。こんな風になるまで彼女を傷つけた女は。

話しをするだけでも、なかなかヘビー級な難題。

それならと、沙奈は自由な右手で彼女の頬に触れ、そのまま引き寄せる。

彼女の薄く整った唇に、軽く口づけた。

「なっ……!」

彼女が慌てて身を離す。

「あ、貴女誰とでもキスするわけ!?なんて人なの!」

人の事をベッドに押し倒して馬乗りになっている人が、随分勝手な事を言ってくれる。

「貴女が観察した結果、私はそんな女に見えた?」

「え?だって……でも……なんで」

彼女の手が左手からも離れた。

そっと自分の唇を細い指で撫でている。

「私は貴女とちゃんと知り合いたいって言ってるの」

混乱している様子の彼女の思考を、玄関のチャイムが止めた。

「佐々木さん、警察です、佐々木さん?」

扉を叩く音と共に声がする。

どうやら警官が訪ねてきたらしい。

とりあえず彼女の苗字が分かったのは一歩前進だった。

しかし、部下たちが警察を呼んだにしてはちょっと到着が早すぎる。

やはり防音処理もなされていないようなただのマンションだったと考えるのが妥当だろう。

おそらく、隣人、もしく階下の人間による通報。

昼間とはいえ大声でかなり物騒な事を怒鳴っていたわけだから、まぁ、当然といえば当然かもしれない。

「あ、どうしよう、私……」

「とりあえず、出た方がいいわよ」

動揺しながら沙奈を置き去りに、彼女が慌てて玄関へと走っていく。

「うーん、今って『ここから動かないで』とか『声を出したら殺す』とかかっこいいセリフを言う場面だったんじゃないかしら?お嬢さん」

そう言って、沙奈は小さく笑う。

なんとも締まらない誘拐劇。けれど、それなりに楽しめた。

身体を起こし、ブラウスの胸元を掻き合わせる。

安全ピンでもないと、このまま職場に戻るのは難しそうだった。

「参ったわね」

独り言ちる沙奈の耳に玄関での会話が聞こえてきた。

「ご近所から通報がありまして、何か問題ですか?」

「え、いえ、あの、別に……」

明らかに怪しいですと告白しているような、弱々しい声が聞こえてくる。

「ちょっと、中を拝見しても?」

「え?いえ、困ります、そんなっ」

警官が押し入ろうとする気配に、沙奈はスカートとストッキングを急いで脱ぎ、髪を両手で乱れさせ、ブラウス一枚で玄関に続く廊下に出た。

「あ、警察の方?ごめんなさい、つい激しくなっちゃって。これから気をつけますので、今日は許していただけませんか?」

驚いた様子の警官は、沙奈と彼女を交互に見つめ、やがて

「失礼しました。今日は注意ということで、以後お気をつけください」

顔を伏せながら、そのまま玄関から去っていった。

扉を閉めるなり

「なんて格好で出てくるわけ!?」

そう、怒鳴りながら部屋に戻った彼女から、薄いタオルケットを押し付けられた。

さっきまでは脱がそうとしてたくせに、今度は隠せという事らしい。

「だって、貴女挙動不審すぎるし、中に踏み込まれて事情とか聴かれるの面倒だったんだもの」

あれが一番てっとり早く済むでしょ?と言いながら、脱ぎ捨てたスカートを拾い上げ、足を通す。

「だからって!」

言いかけて彼女が口をつぐむ。

沈黙の中、スカートのファスナーを引き上げる音が部屋に響いた。

「どうして、助けてくれたんですか?私は貴女を監禁して酷いこと、しようとして……」

「じゃあ、ブラウスのボタン、探しといてくれる?」

「え?」

「私の受けた損害はその程度って事。後、良かったらブラウス貸してくれない?」

「それは……いいけど……」

「ここで監禁なんて、無理だって分かったでしょ?佐々木さん」

沙奈の言葉に彼女が俯く。

「美優」

「ん?」

「私の名前、佐々木美優」

「じゃあ美優、今夜改めてデートしない?」

「私をおびき出して……」

「警察に突き出すつもりなら、さっきやってる。手、貸して」

差し出された沙奈の手に、美優がおずおずと手を重ねる。

テーブルに転がっていたボールペンで美優の掌に携帯番号を書き記す。

「プライベートな方の番号だから、誰にも教えちゃ駄目よ」

「怒って……ないんですか?」

「びっくりはしたかな。でも怒ってはない。むしろちょっと楽しかったし」

「楽し……」

「ベットに押し倒されたのなんて何年ぶりだろう」

楽し気に話す沙奈を美優が不思議そうに見ている。

「ねぇ美優。貴女、私が好きなのよね?」

「な!」

再び紅くなる顔を見ながら、沙奈は微笑む。

「じゃあちゃんと、ここから知り合いましょう」

片手を差し出して美優を見つめる。

「初めまして、私は木崎沙奈です。貴女は?」

「さ、佐々木、美優、です」

「よろしく、美優」

握手する手を、笑顔で上下に振る沙奈を見て、美優が小さく笑いだす。

「変な人」

「あら、幻滅した?」

首を左右に振る美優と二人で笑い合う。

見た目はとんでもないクールビューティー。

臆病なくせに大胆。

針の振れ具合が極端な沙奈の愛しい恋人との、それが出会い。

かくして、幸か不幸か佐々木美憂と出会ってしまった木崎沙奈は、その後無事にお友達になり、やがて肌を重ねる関係を経て、現在恋人というポジションに互いを置いている。

あの時、沙奈を攫ったのが美優でなければ死んでたかもなぁ、と時々思うものの、美優じゃなかったらそもそもついて行ったりしないか、と沙奈の中で結論づいている。


***


付き合ってから1年で始めた同棲はそこそこ上手くいってはいるものの、一つだけ沙奈には不満な事がある。

「ふぁ~、いいお湯だった~」

どこかのおじさんみたいなセリフを言いながら、バスタオルを頭に巻き付け、パジャマ代わりの長いTシャツに身を包んだ美憂が、バスルームから出てきた。

かつてのクールなあの大人美人オーラはもはや見る影もない。

一体何をどこにどう捨ててしまったのか。

いや、すっぴんも充分可愛い。

だがしかし

「詐欺よね」

「ん~、よくわかんないけど、ディスられたって事だけは分かった!」

不満全開で近寄ってくる美憂を無視して、フライパンのハムエッグをフライ返しを使って半分に切る。

薄く白い膜を張った黄身がプルプルと揺れた。

「ねぇ、沙奈~、言われた通り私、ちゃんとシャワー浴びたよ~?」

「私が置いておいた服とは違うんじゃない?」

「まだ寝るもん」

するりと細い腕が、後ろから沙奈の腹部を抱きしめる。

ご褒美のおねだりに、軽くため息をつきながら、半分になったハムエッグを皿に移し替えた。

「貴女、大人になってから何年経つんだっけ?」

「私、歳は取らない主義だから」

年齢というのは主義で取ったり、取らなかったり出来るものらしい。

「じゃあ、今何歳なの?3歳?5歳?」

お皿を両手に持ち、身体を半転させて美優の腕をほどく。

「もっと大きいよ!ん~、12歳?」

「はいはい、えらいえらい。分かったからそこどいて」

頬にキスして、テーブルへとお皿を置いた。

ご褒美のキスで上機嫌な恋人は、嬉しそうにコーヒーを淹れて、差し出してくれる。

「ありがと」

代わりに緑のグラスに入ったオレンジジュースを手渡すと、トースターが小気味よい音を立て、焼き上がりを知らせてくれた。

繰り返される日常。変わらない朝。

時々、自分へのコントロールを失う事もある、かつてクールビューティーだった沙奈の可愛い恋人は、今日も楽しそうに笑っている。

その笑顔を見つめて沙奈は思う。

一途すぎて不器用な恋人も悪くない、と。


***


『オマケ』


朝の準備、というのは大抵ルーティン化されているもので、木崎家の玄関においてもそれは同じだった。

「美憂、いい加減、離してくれない?遅刻しちゃうでしょ?」

毎朝行われるやりとりに小さくため息をつく。

化粧、香水、カジュアルスーツにピアス。

戦闘準備を整え、後は出撃するだけの沙奈を、美優が背中から抱きしめたまま離してくれない。

それはさながら、幼稚園に送り届けられた幼児が母親を引き留めるそれに似てる、と沙奈はぼんやり思う。

「いいじゃん、たまには休みなよ~」

「明日、お休みなんだから、ずっと一緒にいられるでしょ?」

「今日も一緒にいたいの~」

腰に回された手が、沙奈を引き留める為に力を増す。

懇願するように首の後ろに降るキスの雨の心地良さに、沙奈の心が休みの言い訳を考え始めた辺りで、身体を翻す。

「美憂、私だって一緒にいたいのよ」

正面から可愛い恋人の顔を見つめる。

私を24時間愛してくれるという彼女を優しく抱きしめた。

「なるべく早く帰ってくるから。美味しい夕食を作って、いい子でまってて、ね?」

お風呂あがりのいい香りがする首筋にキスマークを残す。

「ん~」

小さく呻いて身体を離した美優が、少し開けてある沙奈のブラウスの谷間に顔を埋めた。

「あ、ちょっと、そこは……っ、んっ!」

強く吸われる感触。

唇が離れた場所に赤い花が咲いた。

「もう、こんなとこに付けたら見えちゃうでしょ?」

「見せてやりたいんだもん」

「馬鹿」

そう言いながら、開けていたボタンを一つ閉じる。

「早く帰ってきてね」

キスマークで気が済んだのか今日も無事、出勤の許可が下りる。

「うん、帰る前に電話する」

化粧っけのない美優の唇に軽く口づけて、赤い口紅を移す。

少しだけ華やかになった美優は、やっぱり綺麗だった。

「いってきます」

そう言って玄関の扉を開ける。

「いってらっしゃい」

美優の言葉に微笑んで外へと歩きだす。

胸元のキスマークに小さく微笑んで、沙奈は一人、マンションを後にした。


episode1 FIN

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