遠い悲願

鳥籠茶

遠い悲願

 ジリリリリリ、という、夢の目覚めを知らせるベルが鳴って、私は陽炎のようなゆらめきが徐々に崩れていくのを感じた。


 意識はジェットコースターのはじまりのように、ゆっくりとどこか高く昇っていって、その合図とともに急勾配へと投げ出された。


 私のうとうととした微睡まどろみは、深い海の底から水上めがけて浮上するシャチのように、暗くて深い意識の底から、勢いをつけてバっと飛び上がったのだった。


 ぱち、と目が開くと、その情報量の多さに、私は一瞬だけ混乱する。


 窓、座席、手すり、ベル、アナウンス。ぼうっとした混乱の中でもアナウンスだけは何とか聞き取ることができて、それで私は、ここが終点だから5分後までにはどこかに降りて欲しいらしいことを知った。


 ううん、と私は小さく呻きながら、グッと腕を伸ばして伸びをする。周りを見渡すと、その苔のように深い緑色の座席には私以外だれも座っていないらしいことがわかって、私がまだスマホで料理のレシピなんかを調べていた間にはひとりかふたりくらいは人がいた気がするので、あれからきっと短くない時間が流れたんだろうなと思った。


 対面の窓から入ってくる刃物のようにきらめく光は、私の白くて柔らかい肌にはあまりにも切れ味が鋭すぎて、私はそこにはもういない誰かに「カーテンくらいしてくれてもいいのに」と言った。


 とはいえ、そんなことを勝手に愚痴愚痴言っていても仕方がないので、私に注ぐ黄色い光をその無防備な体に一身に浴びながら、座席に置きっぱなしだったリュックを持って私は立ち上がる。


 隣に座っていたリュックもじっと日に当てられていて、一瞬持つのをためらってしまうほどに熱くなっていた。誰に聞かせるでもなく「あちー」なんてぼやきながら、私はストラップに腕を通す。リュックとくっついた背中がじんわりと熱を帯びて、それだけで私はすぐに汗をかきそうになる。


 思わず手の甲で額を拭ったけれど、意外なことにまだ汗はかいていなかったので、私の手はさらさらと前髪をかくだけで済んだ。


 私が電車を降りようとすると、もうとっくに全開になったドアからは絶えず蒸すような熱気が入ってきていて、私は意味もなく大きく息を吸う。むっとした重い空気が肺を満たした、その瞬間に。もしかしたら一度も二度も体温が上がったんじゃないかと、そんなありえないことを思った。


 私は体を満たすそれをゆっくりと時間をかけて吐くと、それから意気揚々と電車のステップを踏む。


 開きっぱなしのドアをくぐると、そこには異世界が広がっていた。

 

 白。青。緑。黄色。赤。橙。茶。そして透明。神様が手にした筆で、好きなだけ世界に色を塗りたくったみたい。


 私がいつも見ている色は、大体に灰色が混じっていて、こんなに鮮やかな色は見たことがなかった。私がいつも見ていたのは、くすんだ青色に、水彩のように滲んだグレー。あとはお弁当のおまけみたいに、申し訳程度にぽつぽつと置かれた緑と茶色くらいだった。

 

 改めて空を見上げると、そこにはくっきりと境界線が分かれた青と白があって、とても綺麗だと思った。きっと私がこれまでに見たどんな空よりも、奇麗だと思った。だから私は「きれいな空」と声に出して言った。


 もしここになぎさちゃんがいたらきっと『やれなんたらという画家の描いた、うんたらという絵画の空のようね』なんて言って。


 そして最後に、私が聞いたこともないような青色の名前を教えてくれて、私はうれしくなって、それにうんうんと相槌を打つのだ。


 渚ちゃんはいつもそんな風に、かたい知識にやわらかい比喩を交えて、世界の素晴らしさを私の代わりに言葉にしてくれた。私にとってはあまりにも大きすぎる世界を、まるでジグソーパズルのピースのように。ひとつひとつに意味のある小さな欠片にしてくれるのだ。


 そして私は、彼女というフィルターを通してもう一度この景色を組み立てて、この世界の美しさに触れることができていた。


 ただし残念なことに今、彼女はここにいない。そしてあいにく私は、感動をうつくしい文章に起こす才能も、芸術に対する深い造詣も、そのどちらも持ち合わせていなかったので、ただひと言「きれいな空だなあ」とだけ呟いたのだった。


 ジリリリリ、という私を起こしたけたたましい鳴き声が、もう一度ホームに高らかに響く。


 音につられて肩越しに振り返ると、空っぽになった鋼鉄の獣がゆっくりゆっくりと尾を引いて、ちょうどどこかへと帰っていくところだった。私はじっとその様子を見送って、それが完全にいなくなったあと、向かい側のホームに赤ちゃんを抱いた、若いお母さんがいるのを見た。


 腕に抱かれた小くてあたたかな命が、こちらをじっと見つめていたので、私は、にこ、と笑って、小さく手を振った。私は赤ちゃんに手を振ったつもりでいたのに、そのお母さんが、にこ、と笑って私に手を振ったので、なんだか急に気恥ずかしくなって、会釈をして急いで改札を出てしまった。


 駅を出ると、そこまであった灰色の道は途端に全くなくなってしまって、そこから先は真っ直ぐな茶色と、その両端に広がる膝くらいの高さの緑色だけになっていた。


 そこには道しるべもなにもなかったけど、きっとここが正しい道なんだと、私にもなんとなくわかった。それは何か月、あるいは何年と時間をかけて、やっとこさ作り上げられたひとり分の幅なんだと思う。


 その道の先を見ようとして視線を上げると、鋭くて強い黄色が私のすべてを真っ白に焼いて、思わず私は「う」と声を漏らした。右手でまぶたの上に日陰を作ったけれど、それでも関係ないくらいにすごく眩しくて、私は目を細めてなんとか耐えようとする。


 さっきとは違って前髪が額に張り付いて、手の甲がじとっと濡れるのがわかる。生きとし生けるもの、すべてを憎んでいるんじゃないかと思ってしまうような太陽が、私と、その周りと、あと全部を飲み込んでいた。


 私はゆっくりと、目が明るさに慣れるのを待ちながら、辺りをきょろきょろと見回した。目に入ってくるものは、相変わらず青と白と緑がほとんどだったけど、私はちょっとだけ歩きにくい道を歩きながら、じっと目を凝らして進む。目を凝らして、渚ちゃんがいそうなところを探す。


 別に駅の近くにいると決まったわけではないけれど、きっと彼女はこの辺にいるだろうなと思っていた。それは勘でもあったし、確信でもあった。

 

 そして案の定、私の考えは間違っていなかったことを、私はすぐに知ることができた。


 駅からちょっと歩いたところにあるバス停に、ベンチと、屋根と、ひとり分の人影が見えた。


 塗装が剥げかけて、赤茶色に錆びてしまっているベンチの上に、ちょこんと人が座っていた。


 この距離から顔が確認できるわけもないのに、私にはそれが渚ちゃんだとわかる。ノースリープのニットに、ハイウエストのテーパードパンツといういつもの恰好で、私には渚ちゃんがどこか遠くを見上げているように見えた。


「なぎさちゃん、おひさー」


 私は彼女の目に留まるように、日陰にしていた手をぶんぶんと振った。彼女はこっちを向いたように見えたけれど、それだけで、それ以上は何のリアクションもなかった。仕方ないので、私はちょっとだけ早足に彼女に近づいて、もう一度大きく手を振った。


「なーぎーさー! おーひーさー!」


 私から彼女の顔をはっきりと視認できるようになったとき、彼女がちょっとだけ嫌そうな顔をしているのがわかって、私はそれを見て思わず笑ってしまう。私はわざともう一度「なぎさー!」と叫ぶ。


 遠目からでも渚ちゃんの口がパクパクと動いているのがわかって、きっと何か文句を言っているんだろうなと思った。だけれども、渚ちゃんがなんて言っているのかまでは全然わからなくて、それが私にはおかしくて、私は耳に手を当てると、わざとらしく「な、に」っていう形の口を作った。


 渚ちゃんは額に手を当てると、ゆっくりと頭を横に振った。私には彼女が「やれやれね」と言っている気がして、今度は「あはは」と声を出して笑った。


 ようやく渚ちゃんの声が私の耳にまで届く距離に近づいたとき、私は思わず「黒だ」と呟いていた。彼女のその透き通るような黒髪がこの景色からあまりにも浮いていて、世界に足りなかった黒いインクが、神様の筆から垂らされたように感じたから。


 だから思わず口をついて、私は「黒だ」と言ってしまった。


 私のその、何も考えずに漏れ出た言葉を聞いて、渚ちゃんは不思議そうに首を傾げる。汗なんてまるでかいてないようにその黒い髪がさらさらと揺れて、渚ちゃんは「何が?」と訊いた。


「髪の色、黒じゃん」


 私は、私が途中まで考えていたことはひとことも説明せずに、まとめだけを彼女に伝えた。私が思ったことを言葉にしようとすると、うまく伝わらないだろうなということがわかっていたから。


 それに渚ちゃんなら、私が言おうとしたことを、私以上にうまく汲み取ってくれるだろうと思った。


 だから私がそう言うと、彼女は一瞬だけ考え込むような顔をしたあと、ぷっ、と口を押さえて笑った。


「わたし、生まれてから一度も、黒以外にしたことないわよ」


「うん、知ってる」


 渚ちゃんは今度はふふ、と小さく笑う。その笑顔につられて、私も「あはは」って笑った。渚ちゃんはそのあと少しだけ時間をおいて「変なの」と言うと、ぱんぱんと膝のあたりを手で払ってベンチから腰を上げた。


「行きましょうか」


 そう言って渚ちゃんは私の腕を取る。そしてあの溶けてしまいそうな暑い道を、今度は2人で並んで歩いた。



 * * *



 目的地に着くまでの間、私たちはどうでもいい話をした。


 私は写真じゃない田んぼを初めて見たので「すごいね、田んぼ」という話を2回はしたし、そのへんに現れる大きい山も初めて見たので「野良の山ってこんなにでかいんだね」っていう話をした。


 私の「野良の山」という言葉が、渚ちゃんにはすごくはまったみたいで、渚ちゃんはその単語だけでずっと笑っていた。


「野良じゃない山って何よ」


 と笑って、そのあとに「もしかしたら富士山は野良じゃないのかもね」と言ってまた笑った。


 私もそんな渚ちゃんがおかしくてずっと笑っていたし、野良の山を見つけるたびに、渚ちゃんが「ほら、野良の山」と言ったので、私もそのたびに「やめてよ」と言って笑った。


 あとは、道の脇に自販機を見つけるたびにそのラインナップを見て、その自販機がセンスがいいか悪いかの話をした。


 私はコーラがない自販機はセンスがないっていう話をしたら、渚ちゃんは炭酸水がない自販機はもっとセンスがないって言った。だから自販機を見つけるたびに近寄って、どっちが多く売ってるかを確認した。


 だんだん自販機を見つける方が目的になって、自販機らしきものを見かけるたびに走り回ったので、私はかなり汗だくになった。結局4つ見つけた自販機のうち、コーラは全部の自販機で売ってたけど、炭酸水は2つにしか売ってなかった。


 4つ目の自販機を見つけたときにはいつの間にか渚ちゃんの方が夢中になっていて、炭酸水が売ってないことがわかると「ここの自販機は全然センスないわね」と、ちょっとがっかりしたように言った。なんとなくそれがおかしくて、私はちょっと意地悪に「渚ちゃんのセンスがないんじゃない」と言うと、渚ちゃんは珍しくむすっとしてすねてしまったので、私はおわびにお水を買った。


 そんなことをしているうちに、気が付くと目的地である渚ちゃんの実家の近くまで来てしまっていた。途中にコンビニを見つけて、私が「渚ちゃん何か食べたいものある?」と訊くと、「うーん、おはぎ?」と何故か疑問形で答えが返ってきたので、私は「おはぎかー」って言った。


 ただ残念なことに、コンビニにおはぎが売ってなかったので、私は代わりにあんこのついたお団子を買った。




 私はインターホンを押すのにとても緊張した。それは私が、渚ちゃんの実家に来たのが初めてだったからというのもあるけど、それ以上に、渚ちゃんの実家がドラマでしか見たことがないような、ちょっと大きすぎるんじゃないかという大きさの古めかしい武家屋敷みたいだったからだ。


 家をぐるっと囲うように立つこんなに大きな塀はこれまでの人生で見たことがなかったし、私の前にそびえるこの大きな門も、こんなタイミングで見ることになるとは思ってもいなかった。


 暑さとは違うところから来る汗が、額と背中をつう、と落ちるのがわかって、私はここに来るまでの間で一番、喉がカラカラになった。


 だから私は「大丈夫? 用心棒とか出てこない?」って冗談混じりに訊いたのに。


 渚ちゃんはふふ、とだけ笑うと「どうかしらね」なんて言ったので、私はそれで余計に緊張した。


 私は3回くらいごくりとつばきを飲んで、意を決してインターホンを押した。ピンポン、という馴染みのある音の後に、1秒、2秒、3秒待っても返事がなかったので、2回目のピンポンを押そうかどうか悩んでいるとき、インターホンがブツ、と鳴った。


「どちらさまですか?」


 という、優しそうな女性の声が聞こえてきて、私は安心してほっと息を吐いた。それでようやく少し緊張が解けて、「すみません、渚さんのお友達です」と答えた。


 声の主は、「ああ、渚のお友達の」と得心したように言うと、そのあとに「それではお入りになって」と続けて、会話が切れた。


 私はとにかくほっとして、「言ってくれればよかったのに」とちょっとだけ恨みがましく言う。渚ちゃんはまた、ふふ、と小さく笑うと「驚かせてみたくて」と悪戯っぽく唇に人差し指を当てた。


 それだけで私は何も言えなくなって「こりゃ一本とられましたわ」なんて額に手を当てて、オーバーリアクションでおどけてみせた。私がそんなことをしている間に、渚ちゃんはすすすと門の方に近寄っていって、「こっちよ」と門を指差した。


 渚ちゃんが指をさす方を見てみると、門の端の方にもう一つ小さな扉があるのがわかった。そっちは大きな門よりも明らかに新しめの風貌で、そこを渚ちゃんが通っていったので、そこが出入口なんだと思って私も一緒に扉をくぐった。


 門を越えると、そこは想像していたよりかなり広いお庭で、盆栽と、名前も知らないちくちくした葉っぱの木と、いろんな色の砂利なんかがお手本のように敷き詰められていて、よくわからないけど綺麗だなと思った。


 青、白、緑、グレーとちょっとの茶色。


 そして黒。


 私は人差し指と親指でフレームを作り、カメラのシャッターを覗くように、その風景を覗く。


 庭だけを切り取れば、まるで出来のいい日本画みたいだと思ったけれど。


 そこに垂らされた黒色のインクがあまりにも綺麗に浮いてしまっていて、私はその風景を切り取ることができなかった。


「まるで、涅槃ねはんの庭みたいでしょう」


 振り返ってそう言う渚ちゃんに、私は小さく頷く。


「よくわかんないけど、京都みたいだね」


 私がそう答えると、渚ちゃんは口に手を当てて「そうね」と、くすっと笑った。


 そんなやり取りをしていると、その庭の奥の方。つまり母屋のある方から、少し腰の曲がった女性が歩いてきた。その女性が私を捉えると、あら、と小さく声を出した。


「おやおや、話に聞いてたよりだいぶ別嬪べっぴんさん」


 そんな彼女、おそらくは渚ちゃんのおばあちゃんに私は、「よく言われます」と冗談交じりに答える。おばあちゃんは、あらまあと上品そうに笑って、外で立ち話もなんだから、と私を玄関まで案内してくれた。


 私は家の入口で、改めて頭を下げて挨拶をする。私が玄関でコンバースを脱いでいるとき、おばあちゃんは私にお庭と観葉植物の話をした。さっき私がじっと庭を見つめていたので、もしかしたら家庭菜園か盆栽か、そのあたりが好きなのかと思われたのかもしれなかった。


 だから


「お庭が好きなのかい」


 と訊いたおばあちゃんに


「涅槃の庭みたいだな、って思って」


 と私が言うと、おばあちゃんはかなり驚いた顔をして、あの子みたいなことを言うね、と言って小さく笑った。私はおばあちゃんに、渚ちゃんと仲良しなので、と答えると、靴を脱いで家へと上がる。


 その間、渚ちゃんはずっと無言で、私にゆっくりとついてきた。ときどき家の外を見ては、何かを思い出すように、その長い睫毛をぱちぱちと、花火のように瞬かせる。


 長い廊下を歩きながら、おばあちゃんが私に訊いた。


「あの子とは、仲がいい友達だったんだって?」


 あの子が、誰かの話をすることなんて長いことなかったから、驚いたのよ。とおばあちゃんは言った。


 その声音はとても愛おし気で、他意がないことは明らかだった。だから私は、渚ちゃんはとても愛されていたんだなと思って、勝手にほっとした。


 けれど私は、おばあちゃんのその質問になんて答えていいかわからなくて、2秒くらいじっと考える。


 いつの間にか、私の隣を並んで歩く渚ちゃんがじっと私を見つめていて、私も渚ちゃんのことを、じっと見つめた。


 私は誰にでもなく小さく頷くと、ゆっくりと息を吸って、そうですね、と答える。


「仲、よかったと思います。かなり、とっても」


 私がそう言ったとき、ちょうどその部屋に着いたみたいで、おばあちゃんと私と、それと渚ちゃんが足を止めた。


 しゃー、というふすまを開けた音の後に、おばあちゃんが「どうぞ」と言って掌を部屋の中に向けた。


 そこで私は、渚ちゃんを見る。


 薄い唇。


 一重の瞼。


 部屋の中の渚ちゃんは誰に向けるでもなく微笑んでいて、私はそれを見て。ああ、外行きのときの渚ちゃんの顔だ、と思った。


「ほら、渚。お友達が会いに来てくれたわよ」


 その祭壇には、青色の涼やかな盆提灯と、色鮮やかな果物と、綺麗な真っ白のお花が添えられていて。そして真ん中には、何よりも綺麗な四角い黒があった。世界に足りない黒い色。彼女の姿が飾ってあった。


 その色彩のコントラストは、私にはあまりにも強すぎて。私は頭を何回も、内側からドンドンと叩かれているような気さえした。


 おばあちゃんが祭壇に緋色を灯す。正面の座布団に正座をすると、おばあちゃんはゆっくりと、お線香にその色を移した。


 じじ、という何かが鳴いたような小さな音がして、灰色が混じったようなくすんだ青色の煙が陽炎のようにゆらゆらと揺れた。辺りに白檀ビャクダンのような独特の香りが漂って、私はスン、と鼻を鳴らした。


 私は渚ちゃんを探す。


 さっきまで隣にいたはずの渚ちゃんがいなくて、私はきょろきょろと辺りを見回した。後ろを振り返ると、窓の向こう側、縁側のその先に渚ちゃんはぼうっと立っていて、どこか遠いところを見上げているように見えた。


「よかったら」


 というおばあちゃんの声で、はっと部屋を振り返ると、おばあちゃんはもう立ち上がっていて、座布団の隣にいた。


 私は慌てて座布団に座る。もちろん正座をして、さっき買ったお団子と、とっくにぬるくなったお水を渚ちゃんの前に置いた。


 そしてお線香に火を点けて、私は目を瞑る。


 私は何十分もそうしていたような気がして、ふっと目を開けた。たぶん、実際はそんなことはなくて、長くても数分くらいだっただろうけど。その間、私は渚ちゃんのことだけをずっと考えていた。


 目線を上げると、いつの間に庭から移動したのか、渚ちゃんはそこにいて、私を見て、にこ、と笑う。だから私も、渚ちゃんを見て、にこ、と笑った。


 それからおばあちゃんにお礼を言った。



 * * *



 帰り際、私はいいって言ったのに、おばあちゃんがどうしてもといって譲らなかったので、お菓子やら果物やらで私の荷物はぱんぱんになってしまった。リュックが閉まらなくなったので、お土産だけでなく手提げ袋まで持った私に、おばあちゃんは言った。


「これからも、あの子のこと。渚のこと、思い出してあげておくれ」


 そう言うおばあちゃんに、私は答える。


「忘れるわけないですよ。だって私、一生そばにいるって、約束しましたから」


 私はその悲願を声に出し、強く胸に抱いた。


 ギラギラと刺すように尖っていた陽の光は身を潜め、いつの間にやら涼しげに肌を撫でる夜風がその姿を現していた。私は誰に向けるでもなく、「もうかなり涼しいね」と小さく零し、遠い遠いどこかを見た。


 空を見上げると、青色と白色はもうかなり滲んでしまっていて、あちこちにに橙色が混ざってきていた。さらにその向こう側には、穢れのない黒色が見え始めている。


 黒色のインクが、空に垂らされたように。


 私はそれを、綺麗だと思った。


「きれいな空」


 だから私は、声に出してそう言った。

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遠い悲願 鳥籠茶 @Oolong_bird

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