ブーメラン
ナロミメエ
新聞を敷いてはいたが、結局は畳まで粉屑がはみ出してしまった。
明け方から削り始めて一心不乱、気づくともう陽が翳っている。
これほど何かに熱中するのは、いつぶりだろうか。
アパートの窓を外すと、真ん丸な夕陽に目を焼かれた。
はたして、うまく飛んでくれるだろうか。
半身になり、やや肩を落とすと脱力し、体を鞭のようにしならせ足先から手先へ伝えた力そのままに投擲。
世間を切り正すような、鋭い弧を描いた。
さすがに疲れた、しばらく体を休めよう。
夜まではまだ間がある、カーテンは閉めておこう。
これからまた、人生が始まる。
車で遠出したのも、思えば何年振りだろうか。
仕事、仕事、仕事。養う家族もない五十の独り身が、よくもまあ人生を無駄にしたものだ。
何のために頭を下げ、何のために自らを疲弊させるのか、何も考えずに生きてしまった。
能力がないのか、運が悪いのか、周りのような安定職にはつけず、それでも必死にしがみついて働いて、国内に疫病が流行るや消耗品のように捨てられた。
つくづく自分が嫌になった。
つくづく世界が、嫌になった。
そんな折、あてもなくぶらついていると、公園の空を思い出が舞っていた。
河川敷や原っぱで汗だくになるのが仕事だったあのころ、飽きもせずに毎日投げていた。
明日も、未来も、気にしない。ただその時だけが楽しく、それがきっと、一番大切だった。
そういえば、どうやってあれを手に入れたんだろう……そうだ、あの人が作っていたんだ。
母親には「気味悪いから近づくんじゃないよ」と言われた、ひと夏の間だけしかいなかった、あの人に。
ある時、傷だらけで家路を延ばしていた夕暮れ。母親に叱られたくなくて、服の汚れを落とそうと河川敷に向かった。
裸になって洗っていると、いつの間にか隣にいた。
とても驚いたけど、怖さは感じなかった。
その人は地面に置いていたズボンを手に取ると、何も言わずに隣で洗い始めた。
それからはよく河川敷で遊んだ。
もちろん、怒られるから母親らには内緒で。
その人は不思議がいっぱいだった。
天気をずばりと言い当てたり、指で鳥を集めたり、大人の人たちに殴られた後、川の水で汚れを落とすとなぜか怪我一つなかったり。
そんな不思議いっぱいの人が、ある時、空を切り裂いていた。
魅了された。
すると、その人は「欲しいか」と聞いてきた。
満面の笑みで答えた、でも、くれはしなかった。
少し落ち込んだけど、その人は毎日新しいのを必ず一つは作っていた。
それを見ている内に、自分で作ろうと思い立った。
最初のは全然飛ばなくて。でも何度も作るうちに、とうとうすごく飛んだ。
うれしくて思わずその人を見た。
笑っていた、でも、なぜか悲しそうな目だった。
そういえば、あの人は何者だったんだろう。いまどうしているんだろう。
そんなことを思っていた時だった。
けたたましい警笛と共に、ミラーの中に白いスポーツカーが現れた。
山へと向かう峠の道路。
わずか二車線の行き違いの狭路を、対向車を確認しながら慎重に道を譲った。
しかし、なぜか追い抜いていこうとしない。
しばらくすると、前から車が来たため仕方なく戻る。すると、今度は車間距離を詰めてきた。
思わず息が荒くなる。
最近流行りのあれだと思った。
対向車が通りすぎると、もう一度、道を譲る。
固唾をのみ、様子を窺っていると、過剰にエンジンを唸らせながら、ようやく追い抜いて行った。
昼を少し回ったころ、オートキャンプ場に着いた。
予想通り、あの車があった。
とはいえ、このまま引き返すつもりはない。
顔を見られたわけじゃなし、他の車、他の客もいるのだから大丈夫だろうと思った。
鞄を背負い、キャンプ場から茂みをしばらく進むと、木々の間から広い山間の崖へ出た。
思わず息をのんだ。
それは、首になってよかったと心から思えるほどの絶景だった。
しばらく山景に浸り、いざと腰を上げると、鞄から取り出す。
あのころには両手で抱えるほど大きかったのに、今ではしっかりと手に馴染んで、感慨深い。
昔の自分の手跡や汚れがとても愛おしく感じられた。
崖は急で、落ちたらそれまでだ。
足場をしっかりと確認し、年相応の準備運動をしてから、軽く腰を入れて一投目を投げた。
清々しく、若返った気分を乗せたからか、美しい空の中を遊泳する様はどこか気持ちよさそうだ。
二投目、三投目、慣れると体がどんどん軽くなってきて、踊るように投げたあのころのように、連続で五十投ほど舞投した。
時間にするとわずか十分くらいか。
それでも、なまりきった体は悲鳴を上げた。
地面に大の字で寝転がってもまだ心臓が苦しい、なのに、気分は最高だった。
本来、生きるとはこういうことなんだと、自分に教えられた。
木漏れ日にビー玉の輝きを思い出していると、山間に下卑た声が木霊した。
気分を害されたからか。
子らが怯えていたからか。
それとも、あの車の奴らだと確信できたからか。
山にもし『うるさい』ということがあるとするなら、それはお前の声だ。
頭の中でそう叫んだ時には、もう投擲していた。
疲れ切った体が自然と無駄を省いたせいか、達人の動きでもなぞったように、手から放れたそれは異常な速度で一直線。
しまった、当たるなっ。
瞬くようなその願いを、まるで聞き届けたかのように急な軌道変更。そのまま山間へ飛び去ると、もう戻りはしなかった。
一方、頭をかすめた物に気づいてか気づかずか、奴らは学生のように騒ぎ続けていた。
キャンプ場に戻ると、さすがに客の全員を敵に回す度胸はないようで、虫の羽音が聞こえるほど静かな夜だった。
ライトもつけずに、車内でゆっくり掌を揉んだ。
投げだこ、とでも言うのだろうか。たった一日で、あのころの手のように立派なものができていた。
帰ってこなかったが、清々しい気分だった。
人生百年、折り返すにはちょうどいい。
これからどうするかはわからない、わからないけど、きっと、楽しいことがありそうな予感がした。
翌日、車に傷がつけられていた。
きっと奴らだろう。
気分が良かったからか、それとも気が大きくなっていたのか、めずらしく一端の怒りを覚えた。
そして、今までの人生ではまずしなかったような大胆な仕返しをしてしまった。
まだ陽も高くならない内に車を出して、峠を下る。
緊張からか、ハンドルを握る手が湿っていた。
人生で初めてした仕返しへの自責か、それとも恐怖心からか。
しばらくしてその緊張が高揚へと変わり、顔が緩むのを感じた、その時、行きと同じにけたたましい警笛、ミラーの中には、あの白いスポーツカーがいた。
胃が縮むのを感じた。
肝が小さいとはよくいったものだ。
もちろん、先を譲った。
隣を通る際、この車と同じ場所にある傷跡がくっきりと見てとれた。
そして、車は前に出るとお手本のような急停車を繰り返す。
それはニュースで見た映像そのもの。
怖い、本当に怖い、なのに、恐怖以外の湧き上がる何かがあった。
ハンドルを強く握り、アクセルペダルへ力を加えんとした瞬間、それは突然のことだった。
その車が運転を失い、ガードレールを越えてそのまま崖を転がり落ちてしまったのだ。
しばらく経った後、片側車線に警察車両が山ほど並んでいた。
詳しく事情を聞かれたが、無実は提出したドライブレコーダーの映像データに任せるしかないと思った。
その後、いくらかの取り調べを終えると、警察からの連絡は一切なくなった。
テレビやネットのニュースでも単なる事故という扱いで、大きく取り上げられることもない。
連絡がなかったため、こちらから返却を申し出て、ようやく映像データが返却された。
何があったのか、しっかりと知るべきだと感じていた。
鮮明ではなかったが、警笛の音もしっかりと入っていた。
改めて見てもやはり酷い運転で、いくら死んだ者たちとはいえ、ふたたび腹が立つほどだった。
まもなくして、事故直前の場面まで来ると、たまらず一時停止を押した。
映像とはいえ、崖へと転がり落ちる車、いや、人間たちを見るのだ、しっかりと覚悟を持っていたつもりだったが、あまりに予想だにせぬ出来事に戦慄した。
「死ね死ね死ね死ね」
記憶の中には無い声だった。
きっと、事故で動揺していたからだろう。
ただ、これを警察に聞かれたかと思うと、どこか居心地が悪かった。
とはいえ、別に世間に知られることもないだろうし、峠であれだけの通行妨害をされたのだから、人格はどうであれ、このくらいは許されるはずだ。
自分にそう言い聞かせながら、再生ボタンを押した。
車が急にブレ、崖へ転落する様がしっかりと映っている。
やはり恐ろしい光景だったが、なにか気になるものが映った気がした。
少し戻し、改めてコマ送りで確認すると、やはり映っていた。
車がブレる寸前、右側のひらけた視界から一瞬、黒い影が運転席の横に現れる。
運転席から出ていくところか、それとも入るところか。
鳥なのか物なのか、それとも映像のノイズなのか。
おそらく警察は気付かなかったのだろう。
たとえ気付いても、どうというわけでもなかったのだろう。
映像を停止し、震える手でコーヒーを飲む。
ふと、気配を感じて窓を開けた。
なにもない夜空に、何かを待った。
だがすぐに滑稽に感じ、やめた。
時計を見るともう四時を回っている。
夜通し走るバイクの音で気づかなかったが、どうやら夜を徹して見てしまったらしい。
室内を暗くして窓を開けると、まだ暗い住宅街に五月蝿いライトが七つ八つと見えた。
また、作ってみようと思う。
ブーメラン ナロミメエ @naromime
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