祈りはきっと届かない

朝矢 真宗

神は死んだ

 幼稚園の頃、敬虔なカトリックである母に連れられて、毎週日曜日には教会に来ていた。


 教会の広い礼拝堂はいつもヒンヤリとした石の温度が静寂性を身体に直接的に伝えてくる。そこに神秘性とか、秘蹟を感じたことは一度も無い。でも、母が祈る横で、オレも一緒に祈る。

 どんなことを祈っていたかは今では忘れてしまった。家族の健康とか、世界の平和とか、そんな子供の思いつく簡単なことだったように思う。

 それに、その教会に併設されている幼稚園に通っていたから、教会の礼拝堂もそれほど忌避感はなかった。

 幼稚園は自宅から子供の足で歩いて五分くらいの場所だ。近所だから通っていたのか、母がカトリックだったから通っていたのか、オレには今でもよくわからないが、この聖母幼稚園は、父が本家の近くに引っ越しすることを決意するまでの間はオレにとってはとても大事な場所だった。

 

 そして、それがオレが幼い頃、まだ元気だった頃の母に関する数少ない思い出の一つだ。


 オレが小学校に上がった頃から母は体調を頻繁に崩すようになった。

 そして、母はオレが小学二年生に上がったばかりの春に亡くなった。

 癌だった。


 オレが小学校に上がって間もなく、母が検査入院という形で一度入院したとき、オレは母の病気の深刻さには全く気づけていなかった。


「カズキ、大丈夫。お母さんはちょっと風邪を拗らしただけなんだ」


 父は半分以上、自分自身に言い聞かせるようにオレを諭していたんだと今では理解している。


 父に連れられて毎週末は必ず病院に向かう。

 父は当時、自ら興したばかりの仕事がとても忙しかったと聞いている。父の仕事は父が大学の時に研究していた内容を事業化したもので、軍事転用が可能なため、早いタイミングからベンチャーとして軍部だけでなく民間からも投資と期待が寄せられていたと聞く。しかし、父はどんなに忙しくとも必ず土曜日の夜中には帰宅し、日曜日には必ずオレと二人で母の入院している総合病院まで一緒に車で行った。

 平日は朝は父と一緒に朝食をとり、父は車で会社へ、オレはもちろん歩いて小学校に行く。母がいないだけで普通の小学生とやることは同じだ。

 帰宅しても自宅のリビングにはもちろん誰もいない。だがなぜか時々、幼稚園の角谷先生や大塚先生が家庭訪問と称してオレの様子を見に来ていた。おかげで宿題をやったり時間割をしたりというような学校の準備は、帰宅したらすぐにしておかないといけない雰囲気があった。

 昼食は学校がある時は給食があったのでそれを食べていたはずだが、給食がない期間は父が作り置きしてくれていた弁当を電子レンジで温めて食べていた。でも、夏休みなどはたまに角谷先生や大塚先生と一緒にご飯を食べたりしたのも覚えている。


 小学一年生のオレが父に連れられて母のお見舞いに行くと、病床でたくさんの管をつなげた母はとても弱々しく見えた。髪の毛も抜け落ちてしまっていたが、暖かそうな赤いニット帽をかぶっていた。オレは母の艶やかな長い黒髪がとても自慢だったので、それがとても残念だった。でも、病気を治すための強い薬なのだから仕方がないのだと説明されれば、オレに否はなかった。


 病室の母は、オレの顔を見るだけで、とても嬉しそうな表情を見せた。母の笑顔が嬉しかったのはもちろんのことだが、小学校低学年なんて母に甘えたい年齢だと思う。だからオレは父に買ってもらったゲーム機で遊ぶよりも、父と二人で毎週必ず病院にお見舞いに行けるのがとても楽しみだった。


 入院した当初は母もとても元気な様子で病気だということをあまり感じさせない感じだった。お見舞いでもらったのだろう高級そうな果物を果物ナイフで剥いてくれてオレに食べさせてくれたものだ。だが、母は病室でそんなオレに果物ナイフを使ってリンゴの皮の剥き方を教えてれた。何回か一緒に練習して、やがてオレが病室で一人で母のために剥いた梨を母は笑顔で「美味しいね。上手に剥けたね」と言いながら食べてくれたのを今でも思い出す。


 だからオレは母の病気が治るよう、母が入院してからというもの、毎日寝る前に幼稚園で教えてもらったお祈りを必ずした。だって神様はいるんだ。幼稚園の先生や神父さんが言ってた。


「神様、どうかお母さんが元気になりますように」


「神様、どうかお母さんが一日も早く元気になりますように」


「神様・・・」


 ☆ ☆ ☆


 四月九日。


 その日、何だか変な、それでいて幸せな、現実感のある夢を見た気がする。


 それは母さんが家に帰ってくる夢だった。


 母さんの綺麗な黒髪が腰まで揺れていて、ステキな白いワンピースで、お気に入りのブランドのピンクのハンドバッグを肩掛けしていた。顔色も血色がよく、元気だった頃の母、幼稚園の親子遠足の時の朗らかな母を思い出させた。


 母さんは玄関に出迎えたオレを優しく抱きしめてくれて、そしてオレの頭を何度も優しく撫でてくれた。頰に何度もキスしてくれた。


 夢の中だったけど、とてもそれは鮮明だった。


 オレは夢の中で母に必死になって語りかけた。どんなに退院してくれるのを待っていたことか。神様へ毎晩必ず治るようお祈りしていたことをだ。


 夢の中の母はオレの目を見てにっこり笑うだけで、なぜか無言を貫いていた。


「カズキ、起きて」と、父の声がする。


「うぅ・・・」


 父さんに突然揺り起こされた瞬間、母さんが家にいないのが現実で、オレは一人で残されている状況気づいて、激しく戸惑った。


「ゴメン、母さんの具合が良くないみたいなんだ。だから父さんはちょっと病院に行ってくる。カズキは良い子で美沙と一緒に来てくれるか?」


「うん」


「美沙があと三十分くらいしたら車で迎えにくるから。そしたら朝ごはん食べて、美沙と車で病院においで。

 学校は今日はお休みしなさい。父さんが電話しておく」


「じゃあ、美沙さんを待ってるよ

 いってらっしゃい。運転気をつけてね」


「ああ、行ってくる」


 美沙さんは父さんの妹で、シングルマザーというやつだ。間違っても美沙叔母さんと呼んではいけない。美沙お姉さんと呼ばないと怒られるけど、美人でとても優しいし、四歳の真由ちゃんという僕から見ると従姉妹がとても可愛い。


 美沙さんは時々、父さんがどうしても帰ってこれない日には、真由ちゃんといっしょに家に泊まりに来てくれて、オレと一緒にいてくれた。オレは真由ちゃんと遊んであげながら美沙さんの肉じゃがを食べるのだ。


 父さんが長袖Tシャツにパーカーを羽織って慌てて出かけて行ったのは、まだ朝の六時だった。


 眠いなあ・・・


 オレは寝ぼけた頭でボンヤリと布団の上でモゾモゾしていた。


 どのくらい経っただろう?


 ガチャガチャ、バタンと、玄関のカギが開く音が遠くで聞こえた。


「カズキー、おきてる?」


 ボンヤリしていたらいつのまにか美沙さんがオレの部屋に顔を出した。真由ちゃんはおんぶ紐で背中に居た。手足が最近になって急に伸びてきたなぁ。


「うん、今起きたところ」


「そう


 朝ごはん食べられるかな?何か食べたいのある?」


「うーん、カリカリベーコンが良いなぁ」


「分かった。じゃあ支度してあげるから、顔洗って着替えてらっしゃい」


 美沙さんはリビングのソファに真由を降ろしてから、台所に慣れた手つきで立つ。真由も寝惚けてるようで目をこすりながらソファの上で横になると大あくびしながら寝返りをうった。


 オレは歯を磨いてからタンスからトレーナーやズボンをだして着替える。母が入院する前は母が今日着る洋服をどれにするか決めていた。でも今はオレが自分でやらなきゃならないんだ。


 靴下を履いてからリビングに来る頃には台所から美味しそうな食欲をそそるベーコンの焼けるにおいが漂ってきていた。


「カズ兄、抱っこ」


 真由は普段はとても利発な子で、どうやらオレのことがとても大好きらしい。オレはいつも絵本を読んであげたり、庭でボール投げしたり、オレのプラレールで一緒に複雑な線路を組み立てたりして遊ぶ。


 でも、今日は何だか美沙さんも様子が変だ。慌てて出て行った父さんの雰囲気も変だし、いつも優しい美沙さんの表情もとても硬い。でも真由は何だかマイペースな感じでオレのそばに来て抱っこして欲しいとアピール。


 ツインテールにした真由をオレのひざの上に乗せてあげると、真由から何だかとっても安心するにおいがした。


「やっしゃ〜、できたよ。あったかいうちに早く食べよー。カズくんお箸出して〜」


 いつもはとても美味しく感じる美沙さんの食事だが、なんだか味がいつもと違って頭に入ってこないというか、味はしているのに例えば辛さが辛く感じられないような、そんな不思議な食事だった。そして、美沙さんのゴハンを食べた後、オレは美沙さんに連れられて病院に向かった。


 車には父が乗って行ったうちの車から取り外されていたチャイルドシートを後部座席に取り付け、そこにオレが。その横で運転席から見て斜め後ろにもともと装着されていたベビーシートに真由が乗った。


「よし、真由もカズキも寝てていいからね」


 車のエンジンの振動が心地よいけれど病院まではうちから車で大体十五分くらいで到着するはずだ。だから寝入った頃に到着してしまうことを知っているオレは窓の外を流れていく景色をぼんやりと見ていた。


 病院に到着すると、美沙さんは真由ちゃんを抱っこして、オレの手を引いてすぐに病院のエントランスから母の病室に向かった。


 病院は朝すでに慌ただしい感じだった。この病院は地域でも大きな総合病院だから入院患者数も多い。母が入院しているのは八階だ。一階で受付を済ませると美沙さんに手を引かれて院内を進み、エレベーターに載った。


 そして八階に到着する。


 あれ、何だろう。この感じは・・・。ひどい胸騒ぎがする。


 目の前の色彩が急速に薄れていく。まるで突然昭和初期の白黒映画の世界に迷い込んでしまったかのように、色彩が色あせて、光と影だけで視界が構成されていく。


 母の病室は個室だ。容体が悪くなってからは個室に移っていた。


 オレは美沙さんの手を振り払って母の病室へ一目散に走った。


 廊下に、よく母をお見舞いに行った時によく話しかけてくる看護師の田中さんがいた。いつもは「廊下を走っちゃダメなんだよ」と注意する田中さんは、今日は何も言わなかった。


 母の病室のスライドドアを引いて、室内に入る。


 たくさんのお医者さんや看護師さんが室内にいる。慌ただしく何やら注射をしたり、大きな声で声をかけられている。だけど母はぐったりしていて何も反応していない。何だか胸騒ぎしかしない。ポッカリと心に空洞ができていくのが自分でもわかる。


 父は憔悴しきった表情で部屋の隅に立ち尽くしていた。


 その時、オレにははっきり聞こえた。それは母の声だった。耳元で囁くように、小さな声で聞こえた。


「カズキ、カズキが大きくなるところを見届けられなくて本当にごめんね。生まれてきてくれありがとう」


 病床の母は懸命に心臓マッサージをされている。


 視界の色彩は完全に無くなって黒一色に塗り潰されていく。


 四月九日午前九時四分。母は亡くなった。

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