第5話 差し押さえ
素人の僕の手で申し訳程度に手入れされた庭木が家の敷地を囲い、母屋となる場所の隣に道場が建てられた僕の家。
道場と家を合わせるとかなりの面積になり、普通の一戸建ての何倍もの広さがある。
留め金が錆びた郵便受けを力を込めて開けて、中身を取り出す。
スーパーの広告や塾のチラシといったものの中に役所からの書類が入っていた。
僕はそれらを取り出して家に入る。チラシは卓袱台の上に、書類は家の書類をまとめるファイルに入れた。
お帰りの声も、夕飯を作る家族もない母屋を後にして道場に向かう。
古流の良いところは、一人でも稽古がしやすいことだ。
型を一つ一つ丁寧にこなすことで筋力、間合い、タイミング、足さばき、なによるいにしえの精神といったものをすべて網羅できる。
本当は相手がいたほうがいいけれど、仕方ない。
今この道場の門下生は、僕一人しかいないのだから。
僕の家に代々伝わる古流、柳生流剣術。
宗家の息子ということで小さいころから木刀と竹刀を握らされて稽古をつけられたけど。
小さいころは、古流が嫌いだった。木刀も竹刀も、道場も大嫌いだった。
延々と続く素振り、日常生活で使うことのない歩き方、剣道や他のスポーツでは反則にしかならない技の数々。
意味のないことにしか思えなかった。
それに子供の門下生が僕一人だったから、友達もできなかった。
サッカーに、野球に、空手、柔道、ゲーム。同年代の友達が共通の趣味でグループを作って、練習以外の時間には一緒に遊んでいるのを見るのが羨ましくて、妬ましくて、憎かった。
遊びくらいは仲間に入れてほしい、とお願いしたこともあったけれど。
僕の家そのものが珍しい目で見られていたせいか、返事は決まっていた。
小さな子供はちょっとしたことで、他の子どもを差別したりいじめたりする。
古流という珍しいことをやっているためか、いじめのネタにされることも多かった。
北辰一刀流をはじめとして名が知れ渡る古流と違い、名だけが残る古流なんて部外者から見れば怪しげなものでしかない。
古流でない柔道や剣道はスポーツとして世間に広く認められ、全国大会まで開かれている。そういう武道をやっている子は普通に受け入れられるのに。
なぜ、僕の家の古流は認められないのだろうか。
どうして古流をやっているというだけで、古流の家に生まれただけでいじめられて、からかわれて、仲間外れにされるのだろうか。
そう思って、古流を、自分の家を、何より自分自身を憎んだ。
これが器用な子なら、うまくやれたのだろう。でも僕は人の言葉を額面通りに受け取る、空気を読めないクソ真面目で世間知らずなバカだったから。からかわれたら怒るか、泣くか、落ち込むしかできなかった。
そうすると相手はますます調子に乗るという悪循環。
でもむしろ、そうやっていじめられてから稽古に熱心になった。
自分の体を苛め抜いていると殴られたりからかわれたり、無視されたことを忘れられた。
くたくたになって筆記用具も持てないくらいに疲れ切ると、悪い夢も見ずに寝られた。
そうやって、無心になることが楽しくなっていった。
それに稽古は厳しかったけど両親は優しかったから、それが救いにもなった。
学校の知り合いと顔を合わせずに無心になれる時間が楽しくなって、目録、免許と段位が上がっていくと嬉しくなった。
一人で体を動かす趣味としても楽しめることに気が付いて。
柳生流剣術は気がついたら趣味というか、生活の一部になっていた。一日でも稽古をしない日があるとすごく気になって、インフルエンザで三十九度の熱が出ても部屋の中でこっそりと稽古した。
そうしているうちに、体つきが変わったことに気が付いた。線が細いのは変わりないけど。撫で肩で傍目には筋肉がついているようには見えないけれど。
猫背気味だった姿勢がまっすぐになり、小枝のように細かった腕は筋張って、筋肉の隆起が見えるようになった。
そうして気が付くと、僕に対するいじめはなくなっていた。中学一年の頃だっただろうか。
でも中学二年の夏、両親が他界して一人ぼっちになってしまった。
辛くて、泣いて、それでも何とか立ち直ったけれど。
立ち直った時、自分の置かれた状況を理解してしまった。
両親が死んで、家はお金持ちじゃない。そうなるとお金の問題が出てくる。
祖父母も、親戚もいなかったから援助を頼める人もいない。
遺産と、生命保険と、国からの年金だけでは家と道場を維持するのは難しかった。
自炊をはじめ節約したりと色々な面で工面して、ぎりぎりで耐えてきた。休み期間中は様々なバイトをして、家計の足しにした。
それでも全然足りなかった。
もちろん、道場を売ってしまえば解決する。
家が二、三件は立てられそうな広さがあるし、土地代だけでも十分なお金になると訪ねてきた不動産屋に言われたけど、すべて断ってきた。
両親との絆を僕自身の手で壊してしまうのが怖かった。
売ってしまえば、今までの自分がなくなりそうで怖かった。
我を忘れるほど熱心に打ち込んだたった一つの場所。それが失われる、売られる、更地にしてマンションにされる、それが恐ろしいものに感じた。
でもそろそろ限界が近い。
役所からの書類をざっと見ると「三か月」「差し押さえ」という言葉が目に入った。
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