第7話
死体は何も語らない
二棟の五階建てマンションに続く道は通行止めになった。現場保存のために立ち入り禁止と表示された黄色いテープが張り巡らされている。
制服の警察官が緊張した面持ちで周囲の立ち番をしている。雨は止んでいた。梅雨の中休みだろうか、早朝と言うのに強烈な太陽が雲間から顔を出している。
年齢は二十歳代から三十歳代とみられる。少し派手さを感じさせる女性。うつ伏せに倒れており、背後から突き上げるように左脇腹を刺されており、創傷は反対側まで貫通している。相当強い力で刺したことが推測される。
刺された角度と貫通箇所の角度から見て犯人は左利きの可能性が高い。警察医の推定では死後五六時間。死亡時刻は六月十九日零時前後から、二十日の二時前後とされた。大量の出血があったと思われるが、強い雨のせいで血痕は残っていない。
所轄の蕨西警察署と埼玉県警捜査一課が、機動捜査隊と鑑識の応援を得て、現場一帯の遺留品と聞き込みを実施した。
被害者の服装は、白のレインコート。ピンクのドレス。
所持品としては、左腕に十八金のブレスレット、胸にはダイヤ付きネックレス、共にイタリア製高級ブランド。
それ以外は、レインコートのポケットに残っていたのど飴の空き箱だけ。
財布、免許証、携帯電話等の身分を明かすものは何もない。犯人は被害者のハンドバッグを持ち去ったのかもしれない。バイオリンケースの中身はビオラだった。
当日の午後、埼玉県警捜査一課と蕨西警察署は同署内に『蕨駅西口殺人事件捜査本部』を設置し、「物盗り」と「怨恨」の線から手を付けることになった。
しかし、被害者の身元も死因も確定されていない段階では、単に現状の確認という意味しかなった。
解剖結果が報告された。死因は鋭利な刃物による背後からの刺傷による失血死。刺された際の衝撃によるショック死も考えられるとのこと。
高価な装飾品が遺留されていた点から、「物盗り」の犯行ではないとの見方もあったが、所持してたであろうハンドバッグの見当たらないのが難点であった。
「今時、物は盗らないだろう。処分すると足がつき易いから」
「じゃあ、見つかっていないハンドバッグはどう考えるのですか?」
若い捜査員が初老の刑事に反論した。
中年の係長が議論の中に入った。
「常識的に見てバッグは持っていたでしょう。ドレスを着て、きちんと盛装しているのだから…」
捜査本部は未発見の遺留品と被害者の身元割出しに全力を挙げることで一致し、それと並行して、第一発見者である王から再度事情を聴くことになった。
新聞販売店に着いた捜査員達は王の失踪を聞かされることになる。
「あの現場で皆さんにお話しした後、私と二人でここへ戻ってきて、学校へ行くって出てったきり戻らないんです。もう二日になります」
店主は渋面を作って答えた。王にはいくらかの前借があることも付け加えた。
「学校?」
「北区王子にある日本語学校ですよ」
不思議そうに問い返す捜査員に向かって店主が答えた。
「その学校の所在と電話番号は分かりますか?」
手帳をめくり、電話番号を告げながら、
「無駄だと思いますよ。学校の外で何をしているのか知る訳ないですから。それにしても本当に、中国人ってぇのは、何を考えているのか、さっぱり理解できませんね。王には親切にしたつもりだけどねぇ……」
「ところで、王さんは当日の午前一時頃、どこにいたか御存じですか?」
「寮で寝ていたと思いますよ。何なら、同室の陳に聞いてみたらいかがですか?」
店主は捜査員の質問に面倒くさそうに答えた。
学校の回答は、店主の言ったとおりだった。王は潜ってしまった。
当然、捜査本部は王の失踪に重大な関心を持った。「第一発見者を疑え」は、捜査のイロハであり、しかも姿を消したとあっては、そのまま放置しておく訳にはいかない。所在を突き止めて詳しい事情聴取をとの意見が出た。
しかし、店主と同室者陳祭元の証言に食い違いはなく、王と陳は、同室といえども福建人と上海人とのことで特に仲が悪かったらしい。アリバイは完璧であり異議を挟む余地はない。
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