一歩先

 まぶたを開けるとそこには沢山の花が咲き誇っていた。だが、ここがどこかは俺は知らない。改めて周りを見ると違和感が俺を襲った。雲が一つもないのに太陽がない、なのに空は明るい。その上、地上には本当に花しかない。どれだけ遠くを見ても地平線の先まで花だけだった。

花を見ていると、ある一輪に目が止まった。その花は、鮮やかな青い花弁を持った竜胆だった。俺は何故かこの竜胆から目が離せなかった。何かを思い出せそうでも、頭に靄がかかったように思い出せない。その記憶は、忘れてはいけなかったような、どうでも良かったような、なんだっけ。そんな時、突然

「竜くん」

背後から名前を呼ばれた。振り返ると驚くことに、少女が十メートルほど離れたところに立っていた。彼女を見て、俺は涙が止まらなくなった。まだ、彼女が誰かも思い出せていないのに、涙が次々と溢れる。

「竜くん、泣かないで。私は笑顔が好きっていつも言ってるでしょ」

「笑顔、、、」

笑顔、その言葉を聞いた瞬間、頭の中の靄が段々と晴れて行った。そして、思い出した

「叶苗、なのか」

「そうだよ。久しぶり竜くん」

「うん。久しぶりだね、叶苗」


戸羽叶苗は泣き虫だった頃の俺のヒーローだった。彼女と出会ったのは小学一年生の夏休み、俺の家の向かいに戸羽家が引越して来た時だ。

二学期から彼女は僕をいじめっ子から守って、泣いている俺の手をずっと握ってくれていた。俺にとってはテレビで観るヒーローよりも、かなえちゃんはかっこよかった。俺にとっての一番のヒーローだった。

「竜くんは泣いてる顔よりも笑ってる顔の方がかっこいいよ」

かなえちゃんのその言葉に俺は力を貰った。

それから俺はどんどん泣かないように、かっこよくなれるように振舞った。叶苗にかっこいいとこを見せるために。


「竜くん、あの時は突然いなくなってごめんね」

「いいんだ。しょうがなかったんだから」

そう、俺たちが中学一年生の春休み。戸羽家は街から姿を消した。噂では、叶苗の父親が借金の肩代わりをしてしまい、母親と一緒に叶苗は母親の実家に行ったという。

「ごめんね、竜くん。どうしても謝りたかったの」

「謝らなくていい。叶苗が悪い訳じゃないだろ」

「竜くん…。ありがとう」

「それより、叶苗。ここはどこなんだ」

「え?知らないの?」

え、俺が知ってるはずだというのか。知る訳ない、こんな現実離れした場所。

「教えてくれ、叶苗。本当に分からないんだ」

「教えることは出来ないよ。この世界は口にすると消えちゃうから」

消える…どうして。じゃあ、この世界は元々存在していないのか?叶苗はいないのか?

「叶苗っ」

叶苗に近づこうとすると突然、俺の足は石のように動かなくなった。

「なんだ、これ?!足が」

「ごめんね。竜くん」

そう言って叶苗が近づいて来た。俺に向かって手を伸ばしている。俺も反射的に手を伸ばす。叶苗に少しでも触れたいから。

だが、俺の手と叶苗の手が触れることはなかった。叶苗のもう片方の手が鎖で繋がれていたのだ。

「鎖、なんでそんなもの…」

すると、叶苗の背後から

「そろそろお時間ですよ。戸羽様」

と仮面をつけた黒猫がいた。

「分かりました。ありがとうございました」

叶苗はその猫にそう言ってから、俺を真っ直ぐ見つめて

「ごめんね、竜くん。もう時間になっちゃった。最後に一つだけ言わせて。」

「時間ってなんだよ!最後って、、」

叶苗は少し口角を上げて

「私ね、竜くんのことが大好きだよ!竜くんはずっとずーっと笑顔でいてね。幸せになってね」

「何、言って…」

「バイバイっ!」

すると、叶苗の体がどんどん薄くなって消えて行った。

「待って!叶苗!」

石のようになっていた足を一歩踏み出すと、


ガタンッと音がした。はっと周りを見るとそこは教室だった。

「どうした?寺本。お前が寝てるなんて珍しいな」

「あ、すみませんでした」

寝てた…?じゃあ今のは夢?叶苗でさえ、俺の夢の中の登場人物に過ぎないのか?

戸惑いながら、頭を抱えていると

「おい、寺本っ。次、お前」

と隣の席の羽田が机を叩いて来た。どうやら、音読の順番が回って来たらしい。

「何ページ?」

「92」

「サンキュ」

そして、教科書を音読した。意識は上の空で何を読んだか覚えていなかった。


その授業は六時間目だった。何ともない普通の金曜の六時間目だったのに、叶苗に会う夢を見るなんて…

授業が終わり、終礼をした。終礼の終わりに担任が

「明日からの週末をどう過ごすか受験生として考えて過ごして下さい。以上!」

そうだ、もう受験生なんだっけ。叶苗がいなくなって五年も経ったのか。

叶苗がいなくなってから俺は勉強だけはちゃんとした。おかげで今はなかなかの進学校で学年上位に居続けられている。

でも、叶苗がいない生活の良さを何一つ見いだせなかった。


家に帰り、今日の不思議な夢を思い出す。たくさんの花があって、その中に叶苗の好きな竜胆があって…あれ、竜胆が好きっていつ聞いたんだっけ?まぁ、子供の頃だしどこかで聞いたんだろう。そして、叶苗が現れて黒猫が現れて、叶苗が消えた。

何度考えても全く分からない。叶苗のあの言葉、あれは俺が頭の中で描いた空想なのか?だとしたら、俺はよっぽど諦め切れていないんだな、叶苗のことを。

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