第二章 【過去】フィンセントを継ぐ者
ひまわり5 テオの書簡集
「――愛しい兄さん、
私が振り向くと、ご婦人が手紙を読み上げているのが目に飛び込んで来た。
「僕はいつでも兄さんの味方だから、安心して絵を描こう――。ああ、テオ、テオドール!」
彼女は、テオドールの名を締め付けられたように細い喉から絞り出している。
「すん、うっくうう……」
そして、すすり泣いているのだろう。
彼女はハンカチで涙の行方を隠した。
「ごめんなさい。もう哀しみの姿を見せないわ。テオの心に誓うわね」
ご婦人が背中側へくるりと向く。
見付かってしまったのか!
地面に転がり落ちて来た私達に、彼女は野の花を一輪向けた。
「テオをご存知ですよね? 私の愛しい
ご婦人は、毅然とした態度でしゃがんでいた私達の手を取った。
「私は、
私達は、お互いに顔を見合わせた。
異様だと思われそうな黄色は、もう取れていたことを確かめ合う。
こちらからも自己紹介をしようと、目配せをして立ち上がった。
「私は、キクエ・コウゲツよ」
「僕は、スミト・ナバナです」
それぞれに握手をした。
あれ?
パグの刺繍をした、志一くんバッグが左手にない!
現在に置いて来てしまったのか。
道理でハンカチも見当たらない訳だ。
私の些細な焦りを他所に、テオドールの奥様は、澄んだ瞳を寄越した。
「貴方たちは、これからフィンセントの軌跡を追う者なのですね。先程、神からの啓示がありました」
ヨーの凛とした声が決意を感じさせる。
神を信じる者の意思が容易に曲がることはないのだろうと思った。
「私達がファン・ゴッホの軌跡を?」
私は、芸術に明るい壽美登くんならばいい返事をするだろうと、視線を送る。
「はい。僕達は、我が家に舞い込んだファン・ゴッホの足跡から、彼の芸術と人を知る旅に出た所です」
これが、ひまわりの壺の持つ力なのだろうか?
非科学的なことは信じない私だが、先程の異空間の移動、この見たこともない墓の前では、本当の出来事だと思うしかない。
加えて私は無神論者なのだが、ヨーの受けた啓示を否定する訳には行かないだろう。
悲嘆に暮れているようなご婦人のヨーを壊しそうで。
「夫のテオは、フィンセントの人生を語る上でとても大切な人です」
そうだ。
期末の最中に壽美登くんに聞いていた。
父をテオドルス・ファン・ゴッホ、母を
中でも四つ下のテオとは、兄弟の絆を超越する程、仲がよかったそうだ。
私ははっとした。
「テオドールの奥様なの?」
「ヨーと仰いましたか?」
壽美登くんも同じことに気が付いたらしい。
そうだとすれば、一つの大きな疑問に当たる。
「もうテオに奥様がおられるとは。今は何年なのかしら」
「お二方、これは夢の中だと思ってください。私は神ではありません。けれども、神から預かったお告げをこれからお伝えいたします」
ヨーは信心深いようだ。
しかし、夢だとすれば整合性がある。
集団で同じ夢を見ることもあるだろう。
ああ、私はどうしても非科学的になる。
「夢でしょうか、香月さん」
「壽美登くんはどう感じるのかしら。私は、全て夢だと思いたいわ」
私達は、夢にしてはありありとした光景に目を瞑れない。
その理由は、そこに、フィンセントとテオの墓が並んでいるからだ――!
「壽美登くん、落ちて来た辺りの上空を見て」
「文字が浮いています。『一九一四年四月、フランスのオーベル・シュル・オワーズにあるフィンセントの墓へ並ぶようにテオの墓を改葬す』とあります」
「歳月はさして重要ではありませんよ。お二方」
ヨーの言葉が私の胸に突き刺さる。
「香月さん、ヨーの頭上もご覧ください」
一八六二年生、一九二五年没とある。
ヨーに自分の将来を告げることは、歴史を曲げることになりかねない。
二人して、大切な情報を飲み込んだ。
「コウゲツさん、ナバナさん、大丈夫ですか?」
「はい。何でもありません」
「ええ、私も何でもないわ」
顔の前で手を振って動揺を隠した。
壽美登くんは、すましていられるタイプだから羨ましい。
「ここは、オーベルにあるフィンセントのお墓です。いえ、その隣にテオドールのお墓も移したのですから、二人の墓前です」
ヨーは、本を二つの墓の前に置いた。
興味深く覗くと、『ファン・ゴッホ書簡集』との表題がある。
「幸せなのか、哀しいのか、これは埋葬されている二人にだけ分かることだと思います」
ヨーの祈りを捧げる姿から哀しみが伝わって来た。
「そして、テオと私に愛する我が子がおります。その名をフィンセントと命名し、伯父の名を残しました」
「奥様、申し上げる言葉がございません」
壽美登くんも哀しそうに項垂れる。
そして、彼に誘われて私も一緒にお祈りした。
ファン・ゴッホにもテオにも安らかでいて欲しい。
無神論者ではあるが、宗教関係なく人の生き死にを惜しむこと位ある。
「コウゲツさんとナバナさん、天国できっとテオも喜んでいるでしょう……。ありがとうございます」
意外なものを差し出された。
「今日ここで渡すようにご神託されました。こちらです」
先程の本だ。
二人分もある。
それぞれに受け取って頭を垂れた。
「一九一四年に出版した、『フィンセント・ファン・ゴッホ――弟への手紙』と言う本です。六百五十通を上回るテオとの書簡集が私の手元に残されました。それから、周囲へ話をお伺いして執筆したものです」
「奥様、素晴らしいことをなさいましたわ」
私達は、ずしりとした本を開くのも憚られる。
そこには、人生が詰まっているであろう。
ただ、感嘆するばかりだった。
「私、これからファン・ゴッホの軌跡を追います!」
「僕も微力ながらファン・ゴッホの人と芸術、そしてテオとの関係を辿って行きたいと思います」
私達の気持ちがヨーに届いたのだろうか。
ご婦人は、墓前の本に向かって語り掛けた。
「この本はフィンセントとテオの手紙を集約したものです。テオ、やっとここまで来ましたよ……。貴方もきっと天国で喜んでいるに違いありません」
ヨーは、ゆっくりと私達の方を振り向いた。
私は、掌が汗ばんで来て、緊張しているのを感じる。
彼女には、目力がある。
「こちらのお二方が、貴方の愛したお兄さんの生涯をこれから後世に伝えてくれるそうです。フィンセントを支えたテオの生き方が、再び真に問われるときを迎えました」
ヨーは祈ることで昇華しているのだろうか。
長い間、風が吹いても揺れることなくヨーは祈りの姿勢を崩さなかった。
死ぬのって痛い。
死んだら絵も描けない。
話もできない。
それが常識だと思って来たけれども、
「亡くなってしまっても、墓前で祈りを捧げ、奥様はお会いすることまでもできるのですね」
「ええ、こうしておりますと、生前のテオの口癖まで思い起こされます」
祈る行為そのものが、瞑想に当たるのだろうか。
「口癖とは何かしら」
「兄さん……。兄さん……。それしか言わない位ですよ」
テオの息子さんもフィンセントと命名されるとは、私は相当の熱量を感じる。
「幸せ一杯を約束したご結婚が、ご苦労の絶えないものとなりましたね」
「ナバナさん、お気遣いありがとうございます。それはいいのですが、どこまで兄を支えて行くのかと思っておりました。逃げ水のような彼を灼熱の地で追うように」
少し風が強くなった。
草は千切れて飛ぶ。
ヨーは背筋を伸ばして帰って行く。
私達もぼんやりしてはいられない。
「壽美登くん、これを頼りにしよう」
「この書簡など、心が丸裸になっています。ファン・ゴッホの神髄に辿り着けるでしょう」
テオの本を手にし、ファン・ゴッホに迫ろうと決意した――。
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