世界で最も高価なアレ。
冬春夏秋(とはるなつき)
そいつの名前はコピ・ルアク。
あるいはコピ・ルアック。コピとはコーヒーの意味なのでルアックコーヒーとも。ルアクとルアックの違いはクトゥルー神話と言うかクトゥルフ神話と言うか程度でしかないので気にしなくてもいいだろう。
見慣れない、耳慣れない名前かもしれない。けれどコーヒーを嗜む人であれば一度ならずその名前を見聞きし、何度もそれとのめぐり逢いに想いを馳せ、そうでなければ一生縁がありませんようにと祈るような存在だ。
まごうことなき世界一高価なコーヒー豆。名実共に世界一とされる、最高級ブルーマウンテンの実に4倍以上の値段がつく豆、と言えば少しは伝わるだろうか。
外で注文したらカップ一杯2000円~、みたいなコーヒーである。
間違っても裕福とはいえない身分の私からすれば、やはり縁遠い存在だった。
だったが、ありがたいことに物書きを
マスターは若い頃の私にコーヒーの何たるかを一から教えてくれた、勉学とは別の意味の恩師で、今でもお世話になっている。私もコーヒーを淹れることに関しては素人ではない身の上だが、試行を許されない状態(希少価値と実際の量的な意味で)でピタリと正解を出せる程の
それとは別に。まだ十代の私と交わした何気ない会話を、それほど重要でもないはずなのにまだ覚えていたから。
――いつか飲んでみたい、と。
約束というほどしっかりしたものでもないし、何の縛りもないただの遣り取りだった。結局のところ、この最高級のコーヒー豆を独りで飲むには勇気が足りなかっただけとも言える。
さて。とはいえ相手はコーヒー豆を売ることをまさに生業にしている方だ。実際はこのコピ・ルアクを飲む機会などいくらでもあった、という話。なんなら仕入れることも可能だと。
けれどもこのコーヒーの実態を知っている彼からすればやはり、その機会は能動的に求めるものではなかったのだ。これを読んでいる方々の何割かは同じようにそれを知っているだろうけれど、コピ・ルアクを語るのであれば避けて通れぬ……いや、嬉々として出さねばならない『お約束』が存在するのだ。
それはインドネシアに生息する、ジャコウネコという動物の排泄物から採取される、世界最高級かつ世界一下品なコーヒー豆。
ぶっちゃけるとウンコから採れる豆である。
プロセスとしてはこうだ。
まず、ジャコウネコがコーヒーの実を食べる。果肉は消化され、消化されなかった種子(コーヒー豆)がフンと一緒に排泄される。それを取り出し、丁寧に洗い、あとは通常の豆のように焙煎――といった具合だ。余談だが生産風景は結構な地獄らしい。
前置きしておくと、今回私がいただいたコピ・ルアクは大当たりであったと言わざるを得ない。焙煎済みの輸入品であること、その焙煎の正確さ、豆の選別。全てがきちんとしていた。こういうのはコーヒー豆に限った話ではなく、偽物から二流三流、運搬状況の劣悪さなどハズレを引くことも決して少なくはあるまい。
現物を見て手に取れない不安というものは通信販売全般を忌避する一定層の人間が確固として存在することからも明らかだ。
そんな中で良品を引けた我々は、おそらくだが正しくこのコーヒーの味を知れた幸運な部類の人間だろう。
困ったことに、不良品との差は想像するほかないのだが。間違っても色々なコピ・ルアクを試すような余裕はない。
少し話が逸れるが軌道修正するので悪しからず。
『創作者は自身の体験したことのないものは創れない』という論が最近、こっち界隈で話題になった。結末はよく知らない。そしてこれについて私の持論をここに書くでもない。
ただ言えるのは『体験していないものについては感想を出せない』のは確かだと思う。体験していないのに繰り出すそれは感想ではなく憶測、空想だ。
では味の感想を。おそらくこの話を読んでいる人が期待している唯一の部分だろう。
結論からいえばこのコーヒーは『他のどのコーヒーとも違う味』などではない。そして好みが人それぞれ、千差万別である以上『この世で最も美味しいコーヒー』でもない。少なくとも私やマスターにとっては。実際のところ、この豆の味をブレンドで再現することは大いに可能であると言えよう。
浅煎り気味なのに深いコク。切れ味は確かにあるというのに切っ先が丸く嫌味のない酸味。苦さの後で口に残る確かな甘さ。ブルーマウンテンが世界で最も優れた豆である理由は、その減点部分のなさだと個人的には思っている。この豆も同じに思えた。
もっと好みに合った味のコーヒーはある。けれどこれはダメ出しする部分が特に見当たらない――その値段を除いては。そんな感じだ。
酒、たばこ、コーヒーに紅茶。嗜好品には様々な価値がある。それは味や香りなどの直接五感に作用するものや、コストパフォーマンスなんかも含まれる。
ではこのコピ・ルアクの最も重要な価値とは何か?
それはずばり『コピ・ルアクを飲んだ』という体験だろう。こればっかりは同じ味を再現した別のコーヒーでは得られない。同じ額を付けた別の高級豆では手に入らない。体験していなければ、この先にコピ・ルアクを語る時には伝聞や想像を描くこととなる。
体験した者同士で、大いに語り合える。それもまた、一緒の映画を見た者同士の感想戦に似た、得難い贅沢だ。
創作者は、体験したことを自身の創作に活かせる。
休日にとても贅沢な時間を過ごせました。この場を借りて、深い感謝を。
世界で最も貴重で高価なコーヒー、その一杯分。私は自分の描く世界に彩りを持たせられる。それも、おそらく恒久的に。
世界で最も高価なアレ。 冬春夏秋(とはるなつき) @natsukitoharu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます