ぐうたら姫様冒険記

結城暁

第1話:家を出た姫様

 少女は時々家を抜け出しては大好きなおばあさまに会いに森へ行く。その日も護衛の目を盗んでおばあさまに会いに行っていた。

 おばあさまはいつもやさしくて、少女にいろいろなことを教えてくれた。美味しい木の実の見分け方や、ハーブティーの淹れ方、魔術だって教えてくれた。

 少女はお礼に手作りのクッキーや、自分で刺繍したハンカチなどを持参しておばあさまを訪ねていた。

 少女はいつまでだっておばあさまといたかったけれど、おばあさまは「家族が心配するだろう?」と日が暮れるまでに少女を家に帰すのだった。

 その日も習い事の時間が迫っていたから、少女はしぶしぶおばあさまの家を出ようとした。

 その時だ。体に妙な違和感を覚えて少女は動きを止めた。おばあさまはそんな少女の様子に気づいて、額に手を当てたり、脈を取ったりと忙しなくしていた。


「ああ、熱が出ているね。風邪でも引いてしまったのかしら。今日はここに泊まっていきなさいね」


 おばあさまがやさしく言って少女を寝台まで案内してくれたものだから、初めてのお泊りに心を躍らせながら、少女は安心して目蓋を下ろした。


「大丈夫。あなたを守れないような場所には決して帰しはしないから」


***


 窓から入る陽光は柔らかく、微かに聞こえる鳥の声もまたかわいらしく、昼にはまだ早い時間だけれど午睡ひるねには丁度良い陽気と言えた。

 薬屋の調合台の前で大きく伸びをした店主は次いで欠伸をもらした。やる気のなさそうな、気だるげな店主だ。化粧っけがなく、ともすれば男に見間違えそうな出で立ちをしている。ただ、だからといって男に見間違える間抜けはいまい。

 涙を拭って仮眠室に行こうか、と店主が腰を浮かせたところにドアベルが軽快に鳴って来客を知らせてきた。


「おはようございまあす」

「いらっしゃいませ、おはようございます」

「小説家の先生が朝早くから何のようだ。また締め切りから逃げ回っているのか?」

「ひどいなあ。お茶を飲みに来ただけですよ、コハクさん。コクヨウさん、いつものお茶をお願いします」


 コハクもコクヨウもこの国では珍しい名前だが、名付け親がつ国の人間だから、と前に聞いたことがある。だからなのか薬屋の中はこの国ではめったにお目に掛かれない薬草の数々がぶら下がっていたりする。

 礼儀正しく挨拶をした店員のコクヨウとは違って、奥から客をねめつけるように眺めたコハクは上げかけた腰を下ろした。呆れた顔を隠しもせずに頬杖をついて、頷きひとつで茶を淹れ始めたコクヨウを目で追う。


「何度言ったらわかるんだ、ホレス。ここは喫茶店じゃないんだぞ」

「なにを仰る、ただの薬屋で美味しいお茶と軽食が出てくるわけないじゃないですかあ」


 面倒くさそうに文句を言いつつ、それでもお茶請けを用意するのだから、コハクはなんだかんだお人好しなのだった。茶と一緒に出されたおしぼりで手を拭き、ホレスは茶を飲んだ。すっきりとした味と匂いの茶は寝起きによく染みる。

 ホレスは物書きを生業にしている。筆があまり速いと言えず、気分が乗らなければひと月だって書けないこともある編集泣かせの小説家だ。気分が乗るかどうかは自分でもわからず、いつだって小説のネタを探して街をさ迷っているものだから、さらに編集を泣かせることになる。書けないものは書けないのだから諦めて欲しい。


「で、今日はなんの用だ?」

「だからお茶をいただきにですね……」

「そうか」


 ホレスの答えに興味を無くしたようで、コハクは新聞を読み始める。

 本当のところはもちろん茶を飲みにきただけではない。ホレスと同じくこの薬屋を茶飲み処として通っている風来坊を頼りに来たのだ。

 最近どうにも物騒な事件が起こっているようで、その事件を取材したいのだが、ホレスだけでは悲しいかな腕っぷしが心もとない。その風来坊は顔が広く、腕っぷしも強いものだから護衛として最適と言えよう。


「ねえねえ、コハク姐さん」

「姐さんはやめろ」

「ザクロの兄さんは今日来られるんですか?」

「なんだ、やっぱり厄介事を持ち込みに来たんじゃないか」

「いやあ、はっはっはっ」


 腕っぷしの強い常連客の名を出しただけでホレスの目論見を粗方察したらしいコハクにじとりと睨まれ冷や汗をかく。


「今回はどんな厄ネタを持って来たんだ」

「ひどいな、姐さん」

「姐さんはやめい」


 なはは、と笑ってごまかし、ホレスは周りを見回す。朝早い事もあって、今日の薬屋は珍しく閑古鳥が鳴いていたようだ。従業員以外は誰もいない店内を確認して、ホレスは声を潜めた。


「実はですね……。最近連続少女連れ去り未遂が発生しているようでして」

「連れ去り未遂?」


 怪訝な顔をするコハクにホレスは重々しく頷いて見せる。


「いきなり声をかけられて腕を掴まれて、それで路地に連れ込まれそうになる」

「物騒だな」

「ええ、でも幸い、連れ去られた子はいないって話です。近くにいた大人や子どもたちが気づいて騒ぐと犯人は一目散に逃げだすそうで」

「ふうん。その犯人を突き止めようって?」

「ははは、まさかあ。そんな無謀はしません。連れ去り未遂にあった子にちょっと話が聞ければなあ、と思ってるだけですよ。それで、ちょっとその子たちのいる場所が物騒なもんですから、おれ一人じゃ心細いなあ、って」

「どんな無法地帯に行く気だ」


 コハクは呆れたようだった。確かに大国テッサリンドの王都オル=ピスマで歩けば即ゴロツキに絡まれる、というような場所はそうそうない。

 ぺらぺらと市民街で集めた噂話を垂れ流してもコハクは聞いているのかいないのか、あまり興味を持ったようには見えなかった。


「被害者の女の子たちが貧民街出身なんですよ。そこから子どもらが城壁の外の森へ収穫に行くでしょう、あの行き帰りに声をかけられているみたいで」

「子どもだけでも行ける場所に護衛が必要なのか……」

「だって、もしも人攫いに遭遇したって、おれじゃぜったい勝てませんもん」

「それはそうか」

「そこで納得されるのもやだなあ……」


 ホレスは首をすくめて落ち込み、茶を再び飲んだ。


「で、兄さんはいつ頃お出ましになるんで?」

「知らん。客がいつ来るかなんてそいつ次第だろう」

「そんなあ」


 迷惑そうに眉根を寄せたコハクは再び新聞紙に目を通し始め、大仰に肩を落としたホレスのことは放置するようだ。

 仕方なしに茶をのんでしまうと、すぐにお代わりが注がれた。もちろんコハクではなくコクヨウだ。


「ありがとうございます。コクヨウさんは気が利くなあ」


 コクヨウは無口な性質たちなので、会釈を返すのみだった。


「はあ、兄さんはいつ来るんでしょうねえ」

「……今日は、来られない、かと」


 新聞紙から顔を上げない店主に代わってコクヨウが答える。


「そんなあ」

「お望み、ならばザクロ様の男衆てしたの方々を、ご紹介、できますが」

「ううん……」


 ホレスは腕組みをして唸った。

 ザクロはここら一体を取り仕切る顔役だ。大勢のゴロツキを子分にして様々な仕事を請け負っている。もともと治安のよかった王都だったが、ザクロが居付いてからはさらに治安がよくなった。それくらいゴロツキたちを統制している。けれども、ザクロの力は借りたいが男衆の力は余り借りたくはない。

 なぜなら怖いから。それはもう顔面が、恐ろしく怖い。ごついし、いかついし、傷だってある。もともとがゴロツキだから声も体格も大きい。生粋の頭脳労働者であるホレスと同じ生き物とは思えないほどだった。少ないながらもザクロを通して付き合いはあるから、彼らが悪い奴ではないと分かってはいるのだが、怖い。本当に申し訳ないのだが、怖い。頭領のザクロは偉丈夫で、髭面であっても怖くないのに。何故だ。七不思議か。

 しかし取材はしたい。恐怖と興味の板挟みになって悶えるホレスに、コハクが新聞紙を閉じる音が聞こえた。


「仕方ないな。コクヨウ、付き合ってやれ」

「……はい、わかりました」

「恩に着るよ、コハクの姐さん!」

「はいはい」


 早く行け、と手を払うコハクに茶の代金を払って、ホレスはエプロンを外したコクヨウを連れて薬屋を出て行った。

 残された女店主は窓の外へと目をやった。


「連れ去り未遂ねえ……」


***


「連続少女連れ去り未遂の現場はどこ、ですか」

「はいはい、えーとですね……森から貧民街の間なのであっちですね」


 メモをめくりながら、北門に程近い貧民街へと足を向けて歩くホレスの後ろをコクヨウはついていく。

 市民街を抜けると粗末な身なりの人間がちらほらと目立ち始め、街並みもそれに伴って薄汚れていった。北門が大きく見えるころには普段市民街にいるホレスとコクヨウが目立つくらいに街並みはみすぼらしくなっていた。

 なるべくたむろしている厳つい男たちと目を合わせないよう、ホレスは速足で目的地へ急ぐ。


「声を掛けられたのは貧民だけ、なの、ですか」

「ええ、そうですよ。その中の赤髪とそれに近い髪色の子、ということです。年の頃は十歳前後らしいですよ」


 ホレスとコクヨウは被害者を尋ね歩いた。住民同士の繋がりが強い地区だから、警戒が解ければ被害者の居場所はすぐにわかった。近くの井戸端で油を売っていた女たちは娯楽に飢えていたようで、喜々として喋ったが、子どもたちは見知らぬホレスに寄りつかなかった。逆に愛想のないコクヨウとは見知った子どもが多いようで、コクヨウは子どもたちに取り付かれては遊べとせがまれていた。


「うーん、おれも行動範囲を広げないとなあ」


 ホレスの生家は中央街に程近い場所に店を構える商家で、その家を出たホレスも市民街に居を構えていた。それ故ホレスも遠目に眺めたり通り過ぎたりはしたことはあるけれど、貧民街に来るのは初めてであったし、足を踏み入れるのに抵抗があった。しかし情報を求めるなら避けては通れない場所だろう。これからは足繫く通おう、と決意した。


「ホレス様、この子が、お話ししたい、と」

「ん? なんだい、お嬢ちゃん」


 コクヨウの服の裾を掴みながらもじもじとしている少女は赤みのかかった茶髪をしていて、見たところ十かそこらだった。なるほど被害者か、とホレスはメモをめくった。


「このまえ、腕をひっぱられたの」


 少女と目線を合わせながらホレスはメモをとる。

 たどたどしい口調で少女の話をまとめると、少女は三日前に拉致未遂にあった。朝の支度を終え、近所の子どもたちと連れ立って森へ行く途中で声をかけられたのだという。足の遅い少女は子どもたちの集団から遅れていて、そこを狙われたのだろう。腕を掴まれ、路地に引っ張り込まれそうになったところ、少女の兄が少女の不在に気づき戻ってきたため、事なきを得たのそうだ。


「君の腕を引っ張ったのは男の人だったかな、それとも女の人だったかな。わかるかい?」


 少女は考え込むそぶりを見せる。少女が答える前に少女の兄がコクヨウとちゃんばらをしながら答えた。


「男じゃねえの、コクヨウより背が高かったし」

「そうなのかい」


 ホレスはメモに男? と書きこむ。せっかく答えてくれたのに悪いのだが、コクヨウはそれほど背が高い方ではない。コクヨウよりも背丈の高い女は多くはないが、少なくもないのだ。


「お嬢ちゃんはどう思った?」

「えーと、えーとね」


 ホレスは少女の言葉を待つ。少女は迷った末に、わかんない、と告げた。


「そっかあ。でも仕方ないよ、怖かったものね」

「うん……」


 しゅん、と落ち込む少女の頭を撫でてやり、駄賃替わりのあめ玉を持たせてやると、笑顔になった。


「そうだ、あの人ね、いい匂いがしたよ。それから違うって言ってた。なにが違ったのかなあ」


***


 貧民街の住人たちとなにやら話し込むコクヨウは放っておいて、ホレスは聞き込みを続けていったが、目覚ましい成果は得られなかった。被害者は幼い子どもばかりだから恐怖で犯人の記憶は恐怖で朧気で、早く忘れたがっていたし、目撃者も間近で犯人の姿を見た者はいなかったのだ。

 お駄賃の飴がすっかりなくなってしまったホレスはメモをめくる。


「はあ。さて次はどこに行こうかなあ」


 書き取ったメモをなんとはなしに眺めていると、ぐう、と腹が鳴り、自分がまだ昼食を取っていないことに気づいた。


「コクヨウさん、お昼にしましょう。奢りますよ」

「わか、りました」


 軽食を食べようと近くの店に入ったが、その店はホレスが今まで入ってきた店の中で一番大雑把な店構えをしていた。コクヨウは初めてではないようで、平気な顔でさっそく注文している。


「この店で一番安くて量の多いものを一皿と果実水を頼、みます」

「あいよ。果実水は黄苺でいいかい? そっちのあんちゃんはどうする?」

「ええと、果実水となんにしようかな」


 シミがついた壁にかかった木札に書かれている料理名を見て、ホレスは焼き鳥を頼んだ。

 作り置きしているのか料理はすぐに出てきた。コクヨウの前に置かれた野菜炒めは山盛りだった。それを頬張ってコクヨウが問いかけてくる。口の中身が無くなるまで喋らなかったのは良家の出だからか。それにしては貧民の生活に慣れ過ぎている。



「この後はどこへ行、きますか」

「そうですねえ」


 ホレスもコクヨウにならって、鶏肉を飲み込んでから返す。

 被害者の全員に話を聞けたし、めぼしい目撃情報もなかったから貧民街での取材はもういいだろう。となると、森へ行ってみて犯人の手がかりがないか探してみるのがいいかもしれない。

 ホレスの考えを聞いて、コクヨウは頷いた。


「ではそう、しましょう」


 コクヨウはあれだけあった野菜炒めをぺろりと平らげて、果実水を飲みながらゆったりとホレスが食べ終わるのを待っている。

 カリカリに焼け焦げている鶏皮を堪能しつつ、ホレスはできるだけ急いで焼き鳥を食べ終えた。


「ごちそうさまでした」

「ご馳走様でしたあ」

「毎度! また来ておくれ!」


 コクヨウは女将に律儀に頭を下げた。


***


「子どもの採集場所といえばこの辺りらしいですけど……」

「この辺り、でしょう」


 しきりに鼻をひくつかせているコクヨウが断言する。鼻が良いらしい。コクヨウの真似をしてみても、ホレスにはさっぱりわからなかった。

 ホレスはしばらく地面に足跡がないか、茂みになにか落ちていないか、と探し回ってみたのだが、早々に根を上げた。


「だあああ! 素人が見たって分かるわけがない!」

「では帰、りますか」

「そうですねえ。はあ、なんの収穫もなしかあ」


 森の奥を見ていたコクヨウの提案にありがたく乗ることにした。トボトボと城壁に戻るホレスの行く先を、コクヨウの上げた腕が遮る。


「コクヨウさん……?」

「…………」


 コクヨウは何も答えなかったが、空気が張り詰めている。ホレスは生唾を飲んだ。まさか魔物が?! と心臓が嫌な音を立てたホレスに金属音が届いた。


「へ?」


 気づけばコクヨウが騎士の剣を腕で防いでいた。

 え? 剣? と混乱したのは一瞬で、ホレスの体からはいっせいに血の気が引いた。震えて言うことをきかない足を叱咤して、後ずさりする。

 もしもならず者に絡まれてコクヨウが戦い始めたとしても加勢しようと思うな、下がれ、身の安全だけを考えろ、と口を酸っぱくしてコハクに言われていたのものだから、ホレスは素直に茂みへ身を隠した。

 コクヨウは騎士からの剣戟を上手く躱したり防いだりしている。徒手でよくもそこまで、と感心するしかない。単なるおしゃれだと思っていた腕輪は籠手だったようだ。

 コクヨウからの合図が目に入って、ホレスは声を張り上げた。コクヨウは口下手だから質問はお前がしてやれよ、とコハクに言われていたが、まさかこんな場面でもそうなるとは。


「あ、あんた、な、なな、なにもんだ!」

「貴様らに名乗る謂れはない!」


 取り付く島もない。だが、ちょいちょい、とコクヨウからはまた合図が入る。ええい、ままよ!


「あんたが拉致未遂犯か?! よくもあんなちっさい子たちを脅かしてくれたな!」

「なに?!」


 ひと際高い金属音が響き、襲ってきた不届き者は大きくコクヨウから距離を取った。


「無礼な! それはお前たちだろう、犯罪者め!」

「へ? いやいやいや。おれは単なる小説家で、このお人はおれの護衛について来てくれただけですけど」

「なんだと?! しょ、証拠はあるのか?!」


 明らかに狼狽える騎士にホレスもコクヨウも名刺を渡してやった。身分証明書をいちいち取り出すより気軽だろう、とコハクに言われて作って助かった。


「薬屋の店員コクヨウに、小説家のホレス・ピーボディ……? これが真実という証はないだろう」

「一応本は出てるんですけどね……。それを言うならあんただって怪しいでしょうに。で? あんたはどこのどちらさんなんですか?」


 コクヨウの後ろに隠れたホレスが尋ねると、騎士は兜を脱いだ。声の調子から女だと分かっていたが、騎士はやはり女で、それもとびきりの美人だった。男装して街を練り歩けば、かなりの数の婦女子が釣れるだろう。


「我が名はもが」

「続きは店でし、ましょう。立ち話もなん、ですから」


 コクヨウに口を塞がれた女騎士は目を白黒させながらも頷いた。


***


「それで薬屋うちに連れてきたのか」

「説明の二度手間が省ける、かと」

「それもそうだな」


 柔らかな香りのする茶を淹れてやり、コハクはカウンター席を騎士に勧めた。


「かたじけない。私はハンブリング家ご令嬢、ヴァレリー・ハンブリング様にお仕えしているダーシー・イングラムと申す」

「ハンブリング家といえば……」

「林業が盛んな領地を治めていますね」


 独り言のようなコハクの呟きにホレスが続く。


「領民にたいそう慕われていて、冬以外はずっと領地に住んでいらっしゃるとか。たしか成人している息子さんが三人、十歳になる娘さんがいたんじゃなかったかな」

「なんと、そこまで正確にご存じであったか」

「いやあ、情報収集が趣味なもんでして。ああ、もしかして探していらっしゃるのは……」


 ダーシーは深く頷いた。


「ああ。ヴァレリー様を探している。おばあさまに会いに行く、と書き置きを残して一週間前から姿が見えぬのだ」

「家出ってやつですね」

「……まあ、そうなる。治安の良い王都でも不埒者がいないわけでもないからな。発覚してからすぐに探し始めたのだが、手掛かりはなく今日まで過ぎてしまった。おまけに少女を狙った誘拐犯が出たという噂まで……。姫様になにかあったら私は、私は……!」


 今にも叫び出しそうなダーシーにホレスは疑問をぶつけてみた。


「もしかして、ダーシーさん。お姫様に似た子を片っ端から声かけて回ってました?」

「ああ、そうだが」


 それがどうした、と言わんばかりにきょとんとするダーシーに、やっぱり、とホレスは笑った。女の子の言っていた良い匂いはダーシーの香水だろう。百合の匂いがかすかにしている。誘拐犯などいなかったのだ。


「それならその誘拐犯ってダーシーさんですよ」

「なん……だと……?!」


 ホレスから説明されてダーシーは項垂れた。小さく「騒ぎにならないようにしようと」とか「こっそり声をかけてたのに」などと言い訳をしている。

 落ち込むダーシーを慰めてやりながら、ホレスはお茶請けの芋の薄焼きを口に運ぶ。コハクが作ってくれたものだ。ぱりぱりとした歯ごたえが子気味よく、塩味も丁度いい。


「ダーシーはなんで姫さんを貧民街で探してたんだ? 貴族令嬢ならそんなところにはいないだろう」


 ホレスに薄焼きを勧められて一口食べたら止まらなくなってしまったダーシーがコハクの声に正気を取り戻し、恥ずかしそうに顔を赤らめ、居住まいを正した。


「実は姫様が家出をなさるのは初めてではないのだ。今まではニ、三時間もすればお戻りになっていたし、遅くともその日のうちにお帰りになっていた。しかし今回はもう七日だ。屋敷の者は皆、姫様を心配している」

「なるほど、それは心配になりますね」

「前に姫様が家出をしたときに貧民街で子どもたちに混じっているお姿を見かけたのだ。すぐに見失ってしまったのだが。くっ! 騎士として不甲斐ない……!」


 ホレスがコハクを見れば、何事か考えている様子で、いつもは眠たそうな目付きが鋭くなっていた。


「姫さんの家出が始まったのはいつだ?」

「姫様が七歳の誕生日を迎えたあとからだから……三年ほど前になるな」

「そうか」


 メモを取りながらホレスはコハクを観察する。

 コハクはものぐさだが、頭の回転がすこぶる速い。ホレスにはまったく見えてこない真相がすでに見えているのかもしれなかった。


「ホレス」

「はい?

「ハンブリング家の噂はあるか?」

「そうですねえ」


 メモ帳をめくりながら今まで聞いたハンブリング家に関する情報を羅列していく。ハンブリング家に恨みを持っている貴族の情報はともかく、執事の歯痛などなんの役にも立たなそうだ。

 ダーシーが薄切りを食べ尽くしながら呆気に取られていた。


「よくもまあ、そこまで情報を集めたものだな……」

「なにが飯の種になるかわかりませんのでね、つい」


 呆れ半分、感心半分のダーシーにホレスははにかむ。


「よし、だいたい分かった」

「え?!」

「本当か?!」


 驚くホレスとダーシーに構わず、コクヨウに支持を飛ばして薬棚から数種類の薬草やら丸薬やらを取り出させると、コハクは素早く調合し始めた。あっという間に調合を終えると、出来上がった薬をダーシーに持たせる。


「これを歯痛の執事に飲ませてやれ。それからコクヨウは二人を送って行け。執事が薬を飲むのを見届けろ」

「……はい」


 コクヨウはコハクに反論したそうにしていたが、コハクは取り合う気がないようだ。お礼に夕飯でも食べさせてもらって来い、さっさと行け、と手を振る。


「コクヨウ殿、私には何が何やらさっぱりなのだが……」

「参りましょう」


 困惑しきりのダーシーには構わず、コクヨウは薬屋の扉を開けた。


***


 ダーシーの紹介でハンブリング家へ足を踏み入れたホレスは、一生見ることなどなかっただろう豪奢な内装を呆けて見ていた。品が良く、贅を凝らしているのが一目でわかるが、冷たさは一切感じられず春の陽ざしのような温かさを随所に感じる。


「ダーシー、本当にこれは飲んでもいいのかい……?」

「毒はないので問題ないでしょう。歴とした薬屋が作った品だ。店員まで寄越したのだから、心配はいらない。たぶん」

「……あなたはときどき抜けてますからねえ……」


 自信満々のダーシーとは違い、薬を渡された執事は疑惑の眼差しでコクヨウとホレスと、それからダーシーを見ていた。

 コクヨウがちょいちょい、とホレスに合図する。客に商品の説明をするのは店員の役目だと思うのだが。


「ご安心ください執事殿。その薬はこちらのコクヨウ殿が勤める薬屋カラリの店主が調合したものでして、誓って毒などではありません。……コクヨウ殿は命を懸けると仰っています」


 たかが歯痛の薬に重すぎやしないか、と思わないでもないが、コハクに対するコクヨウの信用はとんでもなく深かった。周囲の護衛たちが剣の柄に手をかけるのを横目に見ながら、ホレスは声が震えないよう努めて明るく説明した。


「そ、そこまで仰るのなら……」


 意を決した執事が薬を飲んだ。そして苦しみだす。


「ぐううううう?!」

「執事殿?! おのれ、謀ったのか?!」

「こ、コクヨウさーん?!」


 コクヨウはといえば、極めて冷静に執事の背をさすり始めた。喉元に剣を突き付けられているのに、動揺の欠片さえ見えない。すぐさま執事の体の上に魔術陣が浮かび上がり、それから執事の痛みは引いたようだった。


「お、おお……これは……歯痛が治りました! ちっとも痛くない!」


 宙に拳を振り上げて快哉を叫ぶくらいには歯痛に辟易していたようだ。執事はコクヨウの手を取り、しきりに感謝の言葉を述べている。

 周囲の護衛同様に、執事の様子に困惑したまま剣を鞘に納めたダーシーはいったいなにが起こったのだ? と声を上げた。

 コクヨウは懐から紙を二枚取り出し、テーブルへ並べた。紙には複雑な紋様――魔術陣が描かれている。


「こちらが歯痛を起こす魔術陣、です。こちらが魅了の魔術陣、です」

「ほおー」


 二つの陣は善くて板。正直なところ、門外漢のホレスには区別がつかない。コクヨウの意を汲んで、ホレスが詳しく説明する。


「この二つの魔術陣はよく似ていますから、魅了術をかけたかったところを術者が間違えて歯痛の術をかけてしまったのではないのでしょうか」

「つ、つまり、何者かが私を魅了しようとして間違い、歯痛にしてしまったと……?!」


 自分で自分を抱きしめながら、執事は震えた。


「それは違うのでは……いや、可能性はあるのか……?」

「執事殿はイケオジですものねえ」

「いやあ、それほどでも……あるんですけど~」


 好き勝手に話を弾ませるホレスたちとは違い、コクヨウは首を傾げるだけだった。



「歯痛を治していただきありがとうございました。このお礼は必ずいたしますので」

「お礼は薬屋カラリにどうぞ。わたしは説明しただけなのに夕飯までいただいてしまって、ありがとうございました」

「ホレス、私は明日も薬屋を訪ねる。店主によろしく言っておいてくれ」

「ええ、わかりました。伝えておきますね」


 執事とダーシーに見送られてホレスとコクヨウは帰路についた。辺りはとっぷりと日が暮れて、普段ならば早足になっているところだが、今日はコクヨウがいるのでゆったりと歩いていける。


「けどコクヨウさんを付けてくれたってことは、荒事があるかもってことなんだよなあ……」


 コクヨウがこっくりと頷いた。相変わらずどこか子ども染みた仕草をする人だ。

 何事もなく家に帰れますように、と祈ってみたが今日の神様は休暇を取っているらしい。


「まあ神様だって休まなきゃ疲れちゃいますもんねえ……」


 全身黒尽くめの集団に取り囲まれて、ホレスは抜けそうになる腰をコクヨウの腕に縋り付いて支えていた。


「……」

「あっはい。邪魔ですよね、すみません」


 震える足に必死に喝を入れて、ホレスは街路樹に隠れるように持たれた。ちょいちょい、と合図を出されて自棄ぎみに叫ぶ。


「どこのどちら様でしょうかあ!」


 黒尽くめから返ってきたのはいたってシンプルな殺意だった。


「お前らが知る必要はない。死ね!」


 おそらく、飛び道具が使われたのだと思う。

 コクヨウが腕を動かしたと思ったら、鋭い金属音が聞こえ、籠手から火花が散って、黒尽くめが二人、呻いて膝をつく。飛び道具に乗じてコクヨウに襲い掛かった者たちだ。手や足に飛び道具と思しき刃物が刺さっている。コクヨウは素早くその者たちの顎を蹴り上げ、昏倒させた。倒れた者たちはぴくりとも動かず地に伏している。

 まさかたった数秒のうちに二人も仲間がのされてしまうとは思いもしなかったのだろう。黒尽くめたちは明らかに動揺していた。そうして黒尽くめたちの視線が集団の一人に向いた。おそらく頭目だ。ただの物書きでしかないホレスにすら分かったことがコクヨウにわからぬはずもない。

 コクヨウはその頭目らしき黒尽くめを目がけてまっすぐに駆けていく。それを阻む他の黒尽くめは哀れな枯れ葉のように地に落ちて行く。


「チィッ!」


 あともう少しでコクヨウが頭目に肉薄する――その寸前で、黒尽くめは目くらましを地面に叩きつけてその姿をかき消した。煙が晴れると、黒ずくめたちはコクヨウが倒した者たちも含めて、全員が姿を消していた。


***


「襲撃を失敗しただと?! この役立たず共めがっ!」


 唾を吐き散らしながら男は手近にあったインク壺を投げつけた。インク壺は膝を折っている男の額を掠め、絨毯に黒い染みを作っていく。


「避けるな! まったく忌々しい……!」


 苛立ちを隠さぬ男はどっかと椅子に座り、ふんぞり返った。


「高い金を出して雇ってやっているのだぞ。それなのに術には失敗する、拉致もできぬ、襲撃にも失敗する……。やる気はあるのか?!」


 跪いた男はただ一言「申し訳ございません」と言うのみだった。


「次も失敗すればどうなるか分かっているだろうな? 先代が死んだ時点で貴様らのような無能は見捨てても良かったのだぞ?!」

「次こそは、必ず」


 答えに満足して、男は嫌らしい笑みを浮かべた。


「分かればよいのだ」


***


「お頭、すみませんでした。ぼくの字が汚いせいで……」

「大丈夫だ、魅了術はちゃんと作動している。ヴァレリー嬢の居場所さえわかればこちらの勝ちだ」

「でも……」


 今にも泣き出しそうなアダムの頭を撫でてやり、ルーサーはアダムに見られないよう唇を噛んだ。

 今の主人はどこをどう取っても破滅の臭いしかしない。だが、先代が世話になったのは確かだった。病に侵され、余命いくばくもない先代を生かしたのは紛れもなく今の主人の金だった。

 その先代が暗殺者から身を挺してあの主人を庇ったのだから、恩はもう返したのではと思う。けれど、先代の遺言は恩を返せ、だった。

 恩を返すに値するような為人をしていないが、今のルーサーたちの食い扶持を提供しているのもあの男の金だった。この仕事が成功すればまとまった金が手に入る。それで恩を返したことにしよう。そして、金を足掛かりに他の、ここよりも待遇の良い雇われ先を探すしかないのだ、とルーサーは自分に言い聞かせた。

 仕えるに相応しい主人を頂き、一途に仕えてきたルーサーの先祖たちが羨ましかった。

 こんな悪党がするような仕事をしなくて済むような主人に仕えたかった、とルーサーを己を照らす月を見上げる。ぐすぐすと泣き出してしまったアダムを宥めながらルーサーは部屋に戻った。

 アダムとのやりとりを聞いている者がいるのには終ぞ気づかなかった。


***


「さあ店主殿! 姫様の居場所を教えてもらうぞ!」

「朝から声が大きい……」


 ホレスはコハクに同情した。薬屋はまだ開店前であったのに無理やり開けさせられたのだ。機嫌も悪くなるというものだろう。コクヨウは朝が苦手ということもないようで、手際よくコーヒーを入れている。


「ヒントはやるから自分で考えてくれ。わたしはまだ寝ていたい……」

「申し訳ないが、問答はさっぱりでな! おそらく店主殿が理解したことの一割も分かってないと思うぞ!」

「マジか……」


 胸を張って堂々と言うことではないと思うが、ダーシーには相応しい気がした。


「ホレス、パス」

「ええ、おれですかあ。まあいいですけど」


 淹れてもらったコーヒーをありがたくいただいて、昨日からの情報を声に出して整理していく。


「姫様は現在十歳。婚約話がいくつか出ていますね」

「うむ」

「ハンブリング家は林業が盛んで、材木の商いをしているなら繋がりが欲しいでしょう」

「そうだろうな」

「執事のヴィンスさんは歯痛になりましたが、これは魅了術の掛け間違いでしょう。魔術陣を書いた者の字が汚かったとかですかね」

「ふむ……?」


 追加のコーヒーを淹れながら、コクヨウが小さく頷いていた。


「歯痛の術と魅了術を書き間違え、ヴィンスさんとヴァレリー姫様の名前も偶然書き間違えてしまった、と。これは珍しいことでもないのでしょう。魔術に使う古代文字は間違いやすいと聞きます」

「ほうほう、たしかに古代文字は難解極まりない」


 すっかり観客気分でいるらしいダーシーはお茶請けの芋の薄焼きを摘まみながら感心している。コハクから訂正が入らないところを見ると、ホレスの推理は今のところ合っているようだ。


「執事殿が歯痛になってしまったのですから、当然術は掛け直すでしょう。今度は慎重に、間違いなく姫様に魅了をかけたと思われます。執事殿にかけられていた呪は一つだったのでしょう?」


 ホレスの言葉にコクヨウが頷く。


「執事殿の歯痛が十日前。失敗したと分かるまで一日はかかったのではないでしょうか。それから新しく魅了術を掛けるとなると準備があるでしょうから、ニ、三日はかかったのでしょうね」

「つまり魅了術にかかって姫様は家出を?!」


 立ち上がりかけたダーシーを、先んじてコクヨウが遮った。


「落ち着いてください、ダーシーさん。それだとおれとコクヨウさんが昨夜襲われた意味がわかりません」

「襲われたのか?!」

「まあまあ、それは後程説明しますから。つまり敵は――仮称ですけど。おれたちが執事殿の術を解呪したものだから、障害物認定をして襲ってきたのだと思うわけです。それはつまり姫様を手に入れてない、ということです」

「そ、そうか……」

「それを確かめるためにわざわざ夕飯を食べさせてもらえ、なんて言ったんでしょう?」


 コハクは欠伸を噛み殺して、ああ、と返した。


「執事を解呪すれば術師は分かるだろうから、どうしたって解呪したやつを拝みたいだろうと思ってな。姫さんの術まで解呪されたら堪らんだろう」

「そういうのは先に言っておいてください。ものすごく怖かったんですよ」

「コクヨウを付けてやっただろう。お茶請けだって豪華にしてやったじゃないか」


 たしかに今日のお茶請けはいつもより手が込んでいる。ふわふわのスポンジケーキはかわいい猫模様で、くるまれているクリームにはフルーツがたっぷり入ったロールケーキを眺めて、ホレスは残っていた文句をぺいっと捨てた。胃袋を掴まれたら勝てないよな、とホレスはロールケーキを頬張る。


「そ、それで姫様は今どこに……!」

「おそらくはおばあさまのところなんじゃないんでしょうか。予想でしかないんですけど、姫様はちょうどおばあさまの家で魅了に掛かってしまって、そして、たまたまおばあさまは魔術に造詣がある方で、姫様の身にせまった危険を察知して匿っていらっしゃるのでは?」

「なるほど、そういう考えもあるのか……」

「ちょっと出来過ぎですけどね」

「だが、それならハンブリング家に何がしかの連絡があって然るべきだ」


 鼻息荒く抗弁するダーシーにホレスは首を傾けた。


「それはそうなんですけど、部外者のおばあさまからすればどこに姫様の敵がいるかわからないでしょうし……。貴族の家に連絡って、平民以下の人間だとしたらちょっと難しいです」

「そ、そうだな……」

「と、ここまでがおれの推理なんですけど、どうですか?」

「なんで私に言うんだ」


 気怠く返事をして、コハクは一杯を飲んでいる。


「まあまあそう言わずに。今度秘蔵のお酒を持ってきますよ。ダーシーさんが」

「私がか?!」

「まあそれなら」

「くっ……。持参するのは決定か……。だが、これで姫の居場所が知れるなら……」


 だいたい当たってるぞ、とコハクはお代わりのコーヒーをコクヨウに淹れてもらいながら欠伸をこぼした。


「まず、姫さんがおばあさまのところに行き出したのが七歳だと言っていただろう」

「ああ」


 ダーシーは繋がりが見えないようで、小首を傾げた。ちなみにホレスも分からない。


「貴族子女が七歳になると何がある?」

「むう。いろいろあるが、……お披露目式か?」

「それもあるが。お披露目の前にする儀式があるだろう。七歳の誕生日のすぐあとにやるやつだ」

「ああ、告別式か!」

「え、物騒な式ですね」

「はは、中身は物騒でもないぞ。何故行われるのかは知らんが、七歳になるとやる儀式でな、用意された長ったらしい挨拶を声に出して読むのだ。それがまた古代語だから、難しくてな」

「古代語なんて七歳なのによく読めますね」

「さすがにそこは音だけで、現代語だよ。それでも私は苦労したものだが」

「ああ、なるほど。変わった儀式ですねえ」


 新しい知識を得たホレスはメモに書き留めた。平民の間では聞いたことのない儀式だ。


「考えてみれば不思議なものだな。ホレス殿はしなかったのか?」

「ええ、うちは別に」

「貴族の風習だからな。豪商は真似るやつもいるようだが」


 コーヒーをちびりちびりと減らしながらコハクが答える。


「ああ道理で」

「それと姫様の失踪になんの関係があるのだ?」

「あの儀式が告別式というのはその名の通り別れを告げる儀式だからだ」

「なんにです?」

「妖精だ」


 いきなり出てきた馴染みの薄い妖精という言葉にホレスもダーシーも瞠目する。


「古代語で妖精に別れを告げてるんだよ、ありゃ。七つまでは神のうち、だとか言うだろう」

「聞いたことはありますけど……」

「それは衛生環境や食料事情の悪さによる、子どもの生存率の低さが原因の迷信ではないのか?」

「それもあっただろうがなあ。コクヨウ」


 名前を呼ばれたコクヨウはいつの間にか手袋をしており、どこから持って来たのやら、古びたぶ厚い 本を丁寧に開いた。


「読めるか?」

「平民のおれに読めるわけないでしょう」

「……恥ずかしながら、勉学は不得手で……」

 貴族だろうに、大丈夫なのだろうか。恥ずかしそうに縮こまっているダーシーを呆れたように見やり、コハクは説明していく。


「ここだ。子どもの周りで妙なことばかり続く男の話。妖精の歌に曰く、あふれし魔力、うつくしきもの、きよきもの……この後は関係ないな、飛ばすぞ。これらみな我らのものなりや、とある。つまり魔力豊富なやつ、見た目と心がきれいなやつ……見目のいい子どもだな。これはそのまま貴族子女に当てはまる。で、この歌を聞いたやつは急いで帰って自分の子どもに、自分には妖精の声が聞こえません、妖精の姿が見えません、と唱えさせたそうだ。以来子どもの周りは静かになったという」

「まさか姫は……!」

「だから落ち着け」


 コクヨウに本をしまわせて、コハクはダーシーを睨む。眠たそうに睨まれても怖くはない。


「昔は妖精に気に入られた末の連れ去りも多かったようだ。だから妖精を見られなくなるという七つまで大切にして目をかけるし、七つになっても念の為に妖精へ別れを告げさせる。妖精に通じる古語で私はもうあなたたちが見えませんと伝えるわけだな。基本的に妖精は気の好い奴が多いから本人たちから拒まれればちょっかいは出さない」

「なるほど、あの儀式にはそんな意味があったのか……」


 ダーシーは深く感じ入ったようだった。


「でも、姫様はきちんと告別式は終えられていた。どう関わってくるのだ?」

「七つになっても妖精が見える子どもはときどきいるんだ」

「もしやそれが姫だと?」

「確証はないが、そうなんだろうな」


 もしかしたら妖精眼の持ち主かもな、とコハクはコクヨウの持って来た別の資料を広げる。


「妖精眼?」

「端的に言えば妖精の見える目の持ち主だな。種類はいろいろあるが……」


 コハクの言葉通り、資料にもいくつか目の種類が書かれているようだった。古語で書かれているので、ホレスには読めない。

 あまり知られていないが、と言いおいて、コハクはしょぼついた目をしばたかせた。


「あの森には妖精が住み着いていてな。安心しろ、人に危害を加えることはない」

「つまりそれが姫様の言っていたおばあさま、ですか」

「そうだろう。人を積極的に害する奴じゃないが、お気に入りが危険に晒されれば妖精郷あちらがわに隠すくらいのことはやってのけるかもしれん」

「大問題ではないか! 今すぐお迎えにぐえ!」

「だから落ち着けと言っているだろう。何回言わせる気だ」


 いきり立ったダーシーだが、すぐさまコクヨウが押さえる。気道をきちんと確保してくれるのだから、やさしい。


「まずは姫さんに魅了術を掛けた奴と、コクヨウたちに襲撃をかけてきた奴を探し出して姫さんの安全確保がさきだろう」


 そんなんでよく護衛が務まるな、とコハクに呆れられたダーシーはいっそう小さくなってしまった。


「まあまあ。敵さんが誰だかわからないんですから、あまり長期戦になれば妖精が姫様を帰してくれなくなってしまうかもしれませんし、ちょっと言って言付けてくるくらいは……」

「ホレス殿……!」

「目星ならついてるぞ」

「なんと!」

「マジすか!」

「マジだ。コクヨウ」

「はい」


 コクヨウがカウンターテーブルに置いたのは小さな魔道具だった。見ただけではなにに使われるのかわからない。


「これは……」

「なんですか、これ」

「昨夜の襲撃者からコクヨウがせしめた通信魔道具だな」

「ええっ! こんなに小さいのに?!」


 魔道具は品質にもよるが、基本高い物だ。金があれば手に入るが、平民以下の手に届く魔道具は大きい、重いが普通で、小型化、軽量化をすればするほど値が上がっていく。耳に入るまで小さいとなれば値段は目が飛び出るくらいだろう。あくまで平民にとっては、だが。


「これは受信専用だからそこまで高くないが。

 姫さんの親父さんは家柄に関係なく、恋愛結婚して欲しいんだって?」

「ええ、そういう話です」


 メモをめくって確かめる。ヴァレリー嬢は上に三人の兄がおり、加えて老いてから生まれた初めての娘で、しかも末っ子、ということで家族から大層かわいがられているようだ。三人の兄も、父親も祖父たち男親族はもちろん、女性親族すらメロメロであるらしい。妖精の見える者は総じて心が清らかだというから、そうもなるだろう。


「つまり、姫さんに惚れてもらえばどんな奴でもハンブリング家と繋がりが持てるわけだ。林業……材木が欲しい奴で、小型通信魔道具を複数用意できるくらいに金を持ってるやつ……となると自然、数は絞られる。おまけに小型化通信魔道具を扱ってる店も数が少ないからな。特定は簡単だ」

「はあ……」


 いまいち分かっていなさそうだったが、ダーシーはそれでも小首を傾げながらコハクに問う。


「単純に姫さまが好きで……という可能性はないのだろうか」

「うん、そうだな。王都で唸るほどの金持ちってのは限られる。そんでもってそういう家の奴らは表向きお行儀がいいんだ。姫に惚れてもらおうと思ったら贈り物とか、劇に誘うとか、正攻法でいく。自分に自身がある奴ばっかだからな。初手から魅了術を使おう、なんて奴はいない。いるとしたらこっぴどく振られてからだろうが、そこまでの根性曲がりはいないんだ、これが。術を使うより外堀を埋めたりして結婚を迫る方が法に触れないし、確実だからな」

「なるほど、理解した。コハク殿はずい分貴族に詳しいのだな」


 本当に分かっているのかは怪しいが、取り敢えずしたり顔で頷いたダーシーを信じるとしよう。疲れたように息を吐いてコハクはこめかみを揉んだ。


「ホレスと同じで情報収集が趣味なんでな。ここを喫茶店と勘違いして茶を飲んではポロポロ情報を落としていくやつもいるし」


 ホレスはコハクの視線を気づかなったことにして、美味しいコーヒーに舌鼓を打った。


「それで、コハク殿はいずれの家が姫様を狙っているとお思いか」

わたしの予想が正しければだが――」


***


 マシュー・シェルビーはでっぷりと肥えた腹を揺らしながら愉快そうに笑った。


「そうか、ヴァレリー嬢は森にて妖精に囚われていらっしゃるのか。ならばすぐさま未来の夫である私が迎えに行って差し上げねばなあ」


 ぐふぐふ笑うマシューは窓からわずかに見える森をねめつけた。


「ですが森にいるのは高位の妖精らしく、部下たちが総出で調べましたが入り口すら見つかりませんでした」


 ガンッ、と跪いたルーサーのすぐそばでペン立てが跳ねる。


「言い訳なんぞ聞きたくないわ、この無能が。さっさと木を燃やすなり切り倒すなりして入り口とやらを見つけてこい、愚図め!」

「シェルビー様、妖精の森を傷つけるとなると……」

「ふん! 金がかかるか? 金ならどうとでもしてやる。さっさと姫を手に入れて来い!」

「……はっ」


 姿を消したルーサーにマシューは鼻を鳴らした。


「まったく、金だけはかかるくせにまったく役に立たんな。ここいらで切り捨てるか……」


 シェルビー家はマシューの父親の代まではパッとしない子爵だった。それを商売で財を成し、王都でも一目置かれる存在にまでのし上げたのは自分の手腕だ、とマシューは自負している。

 合法に拘って自分を卑下してきた父も兄も排してようやく思うままに振る舞えるようになったのだ。ハンブリング家の材木を手に入れたらまた商売が広げられる。それにハンブリング家のヴァレリーは当主からたいそう可愛がられていると聞く。上手くすれば公爵家に婿入りし、跡取りになれるかもしれない。マシューが婿入りすれば跡取りのいないシェルビー家は潰れるが、マシューの栄華の前にはどうでもいいことだ。

 甘い未来の到来にマシューは頬を緩ませた。

 極上のワインでもって喉を湿らそうか、と考えたところへ執事が水を差しにやってきた。


「失礼します、旦那様。お客様がお見えです」

「こんな朝早くにどこのどいつだ。常識を知らんのか。追い返してやれ」

「それが、ハンブリング家に仕えているダーシー・イングラム様でして……。ハンブリング家の印章入りの書状も携えていらっしゃるので追い返す訳には……」


 執事はマシューがヴァレリーに魅了術を掛けさせたことを知っている。それ故に顔を青くしているのだろう。だが、証拠など一切残していない。イングラム家の小娘がなんと騒ごうがマシューを告発できるはずなかった。

 小心者め、と執事を嘲り、マシューは執務室を後にした。



「お待たせいたしました。これはこれは、このように朝早くハンブリング家の次期筆頭騎士と名高いダーシー・イングラム様が当家をご訪問くださるとは、光栄の至りでございます」

「先触れもなく訪れた非礼を詫びよう。しかし時は一刻を争うのだ。許されよ」

「はて、そのように急いで我が屋敷をお訪ねになる理由はどのようなものでしょうか」


 ダーシーは控えている侍従らしき男に耳打ちされ頷く。


「ハンブリング家の末娘、ヴァレリー様をご存じであろう。そのヴァレリー様が行方不明になったのだ」

「なんと恐ろしいことがあったものですね。さぞご案じなさっていることでしょう。それで当家を頼ってくださったのですね。お考えはもっともでございます。当家の格は低くとも資産は侯爵家にも匹敵するほどでございますからね。ええ、もちろん当家も及ばずながらお力をお貸ししましょう」


 表面だけは人の好さそうな笑みを貼り付け、マシューは手を揉んだ。


「そうか、協力してくださるか。それは有難い」


 ダーシーは微笑んだ。しかし目も雰囲気も笑みとは程遠い冷たさをまとっている。


「では姫様に掛けた魅了術を解いていただきたい。それがある限り姫様はお戻りになられないのでな」

「は……」


 マシューの笑みが一瞬凍り、けれどすぐ取り繕う。


「何を言い出すのかと思えば、まるで当家がヴァレリー様に呪いを掛けたかの言い様をなさる。突然の訪問といい、無礼にも程がありましょう」

「無礼は承知の上だが、事実なのだから致し方ない。疾く呪を解いていただきたい。私個人の腸は煮えくり返っているが、ハンブリング家当主からはヴァレリー様の呪を解き、二度とハンブリング家に関わらぬと誓約するのならばこの度のことは不問せよ、と言い付かっている。貴殿に手は出さぬから安心なされよ」

「掛けてもいない術を解けるはずがないでしょう。そこまで仰るのなら証拠がおありなのでしょうなあ、イングラム様?」


 証拠などあるはずがない。弱味を握ってやると下卑た笑いの止まらぬマシューだったが、ダーシーはすまし顔を崩さない。


「あります」

「は?」

「貴殿が呪を掛けた証拠ならあります」


 どう対処すべきか、様々な考えがマシューの脳を駆け巡った。一番簡単な方法はダーシーと従者を始末して知らぬ存ぜぬで通すことだ。いつもの役人に金を握らせればこちらの思う通りに詮議を運んでくれる。いつもより大金になるだろうが、捕まるよりマシだ。しかし、人間二人を消すのはリスクのほうが高い。


「冗談にしてもまったく面白くありませんな。どこにそんなものがあるというのです?」

「この館の中庭にあります」

「ははっ、当館の中庭に? これはこれは。今度の冗談は面白いですなあ」


 ごろりごろりと耳障りな笑い声を立ててもダーシーのすまし顔は変わらない。


「冗談ではありません。そうお思いになるのなら今すぐ中庭に行って証拠をご覧にいれますが」

「ほっほっほっ、いいでしょう。ですが、見つからないと思いますよ? その時はどうなさるのです? 当家を疑い、私の顔に泥を塗った者をそうやすやすと許せば沽券に関わります」

「その時は我が身をどうとでもすればよろしかろう。私は死など恐れはしない」

「左様ですか」


 女をただ殺す訳がなかろう、とダーシーの使い道を考えながらグフフ、とヘドロガエルそっくりに笑い、マシューはソファーから立ち上がる。


「では中庭へご案内いたしましょう」



 果たして、証拠はあった。

 中庭についたダーシーは迷いなく庭の一角にあるバラの根元を掘ると、マシューの眼前に薄汚れた紙を突き出した。


「これなる呪紙こそ貴殿がヴァレリー様を魅了術に掛けたという動かぬ証拠だ」

「ばっ、ばかな! そんなわけあるか、証拠は全て始末させたはず……?!」

「言質までいただけるとはありがたい。どうもあなたは術を解く気がなさそうだ。この件はすべてハンブリング家当主にご報告させていただく。騎士団の到着を待つがよろしい。では失礼いたす」


 踵を返して中庭を出て行こうとするダーシーに、土気色の顔を器用に赤くしたマシューが怒鳴る。


「このまま帰す訳がなかろう! 貴様ら、この女を始末しろ!」


 マシューの怒号に黒尽くめの集団が現れた。従者共々囲まれたというのにダーシーはさして驚いた様子もなく剣を構える。それがさらにマシューを苛つかせた。


「わあ! この人たちですよ、昨夜おれたちを襲ってきたのは!」

「やはりか。観念しろ、シェルビー卿。自首すれば少しは罪も軽くなろう」

「はッ! ここで出てくるセリフがそれか。貴殿の頭の中身はさぞやきれいな花畑なのであろうな。――やれ!」


 勢いよく切りかかってくる黒尽くめからホレスは逃げ回り、ダーシーは迎え打ち、切り結んだ。ダーシーの腕は確かで、多数の黒尽くめたち相手して的確に応戦していた。しかし多勢に無勢、二人は壁際に追い詰められてしまった。


「はあああ。まったく面倒を掛けてくれたな、なにも調べずおればよかったものを。――殺れ」

「そこまでだ」

「?!」


 二人に襲い掛かろうとしていた黒尽くめたちも身動きを止めて、辺りを見回す。声の主はおっとりと中庭に現れた。コハクとコクヨウだ。


「なんだ貴様ら!」

「シェルビー卿においては城に赴いたことがあるのではなかったか? わたくしを覚えていないと見える」

「はあ? なにを言っている。お前のような下賤な者を知っているわけなかろう」


 コハクの発言にダーシーは呆気に取られ、マシューは唾を吐かんばかりに悪態をついた。


「エレクトラ様は城では面布かおぎぬをなさっていますので分からない、かと」

「それもそうか」

「何を訳の分からんことをくっちゃべっとる! 貴様ら、ワシの屋敷に入ってきてどうなるかわかってるのか?!」

「勝手ではないさ」


 コハクに促されコクヨウが書状を広げる。


「これは捜査許可状だ。シェルビー卿の館を捜査してよい、という証だな」

「そんな馬鹿な!」

「おっと、老眼じゃ見えないか? これは聞こえるか? わたくしは王妹エレクトラである。控えよ」

「馬鹿にしおって! お前のような凡百な女が王妹であってたまるか! つくならもっとまともな嘘をつけ! お前たち、あいつらを殺せ!」


 青筋を浮かべるマシューの怒号にコハクは意地悪そうに笑んだ。書状をしまったコクヨウが取り出した王族の紋章も目に入らないようだ。


「王族に対する反逆罪、名誉棄損でしょっぴけるな。やれ、コクヨウ」

「御意」


 コクヨウは疾風のように駆けながら向かってくる黒尽くめたちをちぎっては投げちぎっては投げ、地面に沈めていく。頭領らしき黒尽くめは二合、三合と打ち合えたが、他の黒尽くめと同じように地面へ叩きつけられた。


「ひ、ひぃぃ」

「すごい……」

「さすがコクヨウさんですねえ」


 倒れた伏している黒尽くめたちを踏まないように避けながら、ホレスはコハクの後ろへ隠れる。そんなホレスを追ってダーシーもついてきた。


「おい、ホレス。いったい何がどうなってるんだ。コハクが王妹殿下? ……私はなんて無礼な真似を」

「気にするな。あんたが会ったのはただの薬屋だ。そういうことにしておけ」

「………ううむ、それでいいのか……?」

「いいんだよ」

「そうか! ならば良し!」

「……ダーシーさんて、脳筋騎士って言われてるんですよねえ」

「だろうなー……」


 小声で会話をしているうちにコクヨウはマシューを縛り上げ、地面に転がす。黒尽くめたちも同じようにしてピィッ、と鋭く指笛を吹いた。それから間をおかずに騎士団が中庭になだれ込んでくる。


「コクヨウ殿!」

「お疲れ様です」

「あ、あれは師梟しきょう騎士団長のレイモンド殿では?! なぜコクヨウ殿と親し気なのだ?! いや、叩き上げで騎士団長になった方だからな、コクヨウと親しいのも当然か?」

「わかりやすい説明をありがとう」

「それよりもダーシーさん。姫様を迎えに行きませんか? 今ならけっこうあっさり帰してくれると思うんですよ」

「そうだな! 行こう!」


 ダーシーが言うが早いか、ホレスは荷物の様に担がれて運ばれていくホレスに手を振りながらコハクは息を吐いた。ホレスの悲鳴は聞かなかったことにする。


「ようやく一件落着か」


 部下たちに指示を飛ばし終えたレイモンドと、レイモンドの後についてコクヨウがコハクの側に寄ってきた。


「殿下のお陰で犯罪者を一網打尽にすることが叶いました。感謝いたします」


 初夏の晴れ渡った空のようなレイモンドの笑顔を見て、コハクはげんなりと眉をしかめた。


「副音声が漏れてるぞ。館に乗り込んだりして悪かったよ。でもコクヨウがいるんだからおかしなことにはならん。そもそもここに殿下なんぞおらんのだから礼は無用だ。いるのは薬屋の店主だからな」

「御戯れを。ただの薬屋の店主が捜査許可状など持てるわけないでしょう。コクヨウ殿のことは信頼していますが、どうぞご自愛ください。

 城に戻られましたら陛下がお話があるそうです。このままお戻りになりますか?」


 輝かしい笑みをさらに光り輝くものにするレイモンドに軽く手を振って、コハクはコクヨウを連れて輝く笑顔から背を向ける。


「冗談。せっかくただの薬屋で通ってるんだ、騎士団長様と城へ行ったら台無しだろう。みすみすばらして回るような真似はせんさ。あとで行くから兄上にはそうお伝えしてくれ。頼んだぞ師梟騎士団長」

「御意」


 折り目正しく深々と礼をする騎士に肩を竦めながら、コハクはシェルビー家を後にした。


***


「いやあ、参りましたよ、ダーシーさんの強引さときたら。胃の中のものを全部ぶちまけちゃうところでした!」


 荷物よろしく運ばれて、腹に痣を作ったホレスはそれを茶化すように笑った。底抜けに明るく、前向きな男なのだった。


「姫様も無事に帰してもらって、ダーシーさんは大号泣でしたよ。いやあ、よかったよかった。見事な大団円でしたね、エレクトラ殿下! そうそう、お預かりた妖精おばあさまへの手紙はたしかにお渡ししましたよ。あれなんて書いてあったんです?」

「殿下なぞいないぞ」

「おっとすみませんでした」


 念入りに息を吹きかけて茶に口をつけたホレスはそれで、と繋いだ。


「ダーシーさんにはどう説明しましょうね」

「口止めできればそれにこしたことはないんだが」

「ダーシーさん、ぺろっとしゃべっちゃいそうですもんねー」

「まあ、なんとかなるだろ。現状維持。で? 締め切りはどうにかなりそうか、先生」


 からかうようなコハクの問いにホレスは頭を掻いた。


「いやあ、現実は小説よりも奇なり、とは申しますけどね、今回はさすがにそのままじゃ種になりそうもないですねえ」

「そうかい」


 愉快そうに笑うホレスと機嫌良く笑うコハクに、コクヨウは目元を緩めてから手元の本に視線を落とした。

 コクヨウの耳には薬屋へと近づいて来るダーシーの鎧鳴りと騒がしい足音が聞こえている。またコハクの苦手とする労働を運んで来るのだろうか、と思案しながら、コクヨウは出迎えるために湯を沸かすことにした。

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