【9月6日】さよならの前に
王生らてぃ
本文
「じゃあ約束どおりに」
「う……」
「約束でしょ。なに、約束破るの? それでまた、一発だよ」
「わ、わかったよ。やればいいじゃない、やればッ」
「よろしい……」
指を絡ませて揉みながら、瑛子は今まで見たことがないくらいのいい笑顔を見せていた。
唇をきっと結び、目は真剣そのもの。ただ、顔全体にうっすらと浮かぶ笑顔。
「まず一発目……」
瑛子が拳を握った。
「入学式の日に、わたしの挨拶を無視したぶん」
ぼか。
瑛子の細い腕から繰り出されたパンチは予想以上に貧弱で、わたしは痛くもなんともなかった。
「次。クラス委員を決めるときにわたしに無理やり手をあげさせたぶん」
ぼか。
「わたしのお弁当を勝手に食べたぶん」
ぼか。
「無理やりお昼ごはんを奢らせたぶん」
ぼか。
「教科書を忘れたときに、見せてくれなかったぶん」
ぼか。
「トイレに一緒に来てくれなかったぶん」
「ちょっといい?」
「なによ。まだ途中なんだけど。あと500回は殴らないと気が済まない」
「いや、なんかひとつひとつ内容がしょぼいんだけど」
「はぁ?」
「あ、ごめん。いまのなし」
わたしと瑛子は約束していた。卒業式の日に、3年間のお互いの不満をぶつけ合って、後腐れなく別れるということを。
わたしは卒業後は母の事業を継がなくてはいけない。瑛子はすでに結婚することが決まっている。わたしたちはその貴重な時間を惜しむように、ずっと愛し合い続けた。だけど、お互いに卒業してからは、今まで通りの関係を続けることはできない……
「分かったわよ。んじゃ、大きい不満を何発か……」
「う……どんとこい」
「わかった」
そのとき、瑛子のまとう雰囲気は変わった。
「まず……、最初のデートに遅刻してきたこと!」
鋭いパンチが飛ぶ。
今までにない威力だった。頬に突き刺さった拳は冗談じゃなくわたしを吹き飛ばした。天地を失い、わたしはよろめいて倒れた。痛みより衝撃がすごかった。
「まだ……!」
瑛子はわたしの上に馬乗りになって、セーラー服の襟首をぐいと掴み上げた。
「まだ、こんなもんじゃない……! いっぱいあるんだから……」
「瑛子……」
「デートの時にいつもワリカンだったこと! 誕生日プレゼントを忘れてたこと! 去年卒業する先輩から告白されてたことっ!」
ぼこぼこ。
瑛子は不満をぶちまけた。その度に殴られた。冗談じゃなく意識が朦朧としてきた……
「ごめ……」
「それからっ! それから、それから……」
「瑛子……?」
「なんで……なんで、止めてくれなかったのよ。わたしの結婚を……!」
そうだ。
瑛子の結婚相手は……わたしの、歳の離れた兄なのだ。お互いの両親が決めた、大人の都合による結婚。
わたしは口を出せた。
でも止めなかった。兄も両親も乗り気だった。それに、母の事業のためには、必要な結婚だったのだ。
「ごめん」
「そうやって、謝るだけで! わたしは、あなたのことを、本気で愛していたのに……!」
「でも……仕方なかった……わたしは、母の跡を継がないと……いけないから……」
「わたしよりも、仕事の方が大事だっていうのね……」
「ちがう……」
「違わないじゃないッ!」
また殴られた。血が口からだらだら漏れた。地面がぐらぐらして、もう立ち上がることもできなかった。
それでも瑛子が泣いているのはわかった。
「代々、うちは……女の子が、家を継がなくちゃ、いけないから……わたしには、責任があるの……ずっと続いてきた、この家を、継がなくちゃいけない責任が……」
「そんなこと……わかってる」
「ごめん、瑛子……」
瑛子はやるせなさそうに立ち上がった。
でもわたしは立ち上がれなかった。
「さようなら」
それきり、瑛子はわたしのことを振り返らずに歩き去った。わたしは立ち上がれないまま、その場に倒れていた。
くやしかった。
わたしだってこんなことしたくない。ずっと瑛子と一緒にいたかった。でも、事業を続けていくためには……瑛子の家の力がどうしても必要だったのだ。
そんなことわかってた。だから止められなかった。
「瑛子……」
結局、わたしには、殴らせてくれなかったな。
瑛子への不満、いっぱいあったのに。いっぱい殴りたかったのに、それはもうできない。次に会う時、瑛子は義理の姉、兄の奥様だ。
「うっ、ううっ……」
もう泣くしかなかった。
何度泣いたってなにも変わらない、それでも、泣くしかなかった……情けなくて悔しくて、そのまま日が暮れるまで泣いた。
【9月6日】さよならの前に 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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