第53話 疾走-2
風はますます強くなった。いつもだったら、僕は引き返していただろう。だけど今日は、僕はむしろすすんで風の中に身を投じた。
速度の中で地面はゆがみ、火星の重力の中でバイクは何度も高く跳ね上がった。ヘマタイトの丸い砂粒に幾度かタイヤはすべり、僕はそれでも体制を立て直した。
ただひたすら北の方にむかって僕はバイクを走らせた。沸騰する青いエンジンの熱が足元に伝わってきた。シリア丘のふちもすでに近かった。燃料メーターは、帰りのぎりぎりの残量を示していた。
嵐は地面から砂を巻き上げて、空も前も見えなくなっていた。狼狽フォボスと恐怖ダイモスは足早に地平の向こうにもう消え去っただろう。
とつぜん、手元のナビゲーションシステムのアラートが鳴った。あっと思ったときにはもう遅かった。砂嵐の切れ目、僕は体勢を整えるのにさえ必死で、目の前に谷が現れたときにはすでにそれを避ける術はなかった。
僕はとっさにバイクのエンジンを切ると、体ごと重心を横倒しにした。ジャイロセンサーが切られたバイクは、倒れたまま僕を引きずって絶壁へとすべっていき、僕は必死の思いでハンドルを放した。そして僕は大きな岩にしこたま体を打ち付け、遥はるかさんの自慢のバイクは谷底へと落ちていった……。
僕は防護服が破れてしまったことに気が付いた。
外気が入って息が苦しかったのだ(大気混合池から遠かったからね)。肩のところから血が出ていたけれど、傷自体は大したものじゃなかった。
息を整えながら、靴の中にあるテープで応急的に服のほうの傷を止めた。そっちの方がとりあえず問題だったからだ。
「さて……問題はここからどうやって帰るか……」
僕は冷静になるために声に出してそう言った。そうだ、昨日から僕はまったくもって冷静さを欠いていた。冷静さを欠いていて、それで……。
僕は自分のやったことに爽快さとバカらしさを感じて笑いの発作に取りつかれた。運試しをしたのだ。自分のやったことは自分に返ってくる、当然なことに。
猛烈な砂嵐は去ったけれど、風はまだ強かった。峡谷に満ち満ちた風の音。急激に高くなったかと思えば、うなり声の様に低くなり、僕の足をさらおうとした。
もしナビゲーションの通りなら、ここはシリア高原の端、ノクティス地溝に近いはずの場所だった。
僕はバイクがすっ飛んでいった崖の方向に目をやった。
嵐はすぎさり、そこには風のほか音もなく、崖の下にはノクトゥス・ラビリントス、夜の迷宮と呼ばれる灰色砂漠が無数の砂丘を地平線まで伸ばしていた。
風によって刻一刻と姿を変える砂丘は、まるで生き物のようだった。それでいて、そこにはもうソテツの木も、生命の気配もなかったのだ。
「僕は何も怜に直接聞いていない。昔のことも、今のこともだ。もし帰ることができたら……面と向かって聞くんだ、亘平。わかったな」
僕は砂漠を見ながら、自分に向かって言った。
そして、自分のきた方向へと取って返した。
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