二月の梅花

mono黒

第一章 あと二回

 この仕事を引き受けたのは、電話の声が好きだったから。

 甘く暖かく穏やかで少しセクシー。


「もう少し足開いて。ソファの背もたれに手をついて」


 二人きりの部屋の中。オレを好きにしている男は、さっきから淡々とした声でオレに注文をつけている。


「片膝をソファについて、視線はこちらに」


 言われたままオレは彼の人形のように扱われる。それはまるで何かのプレイのようで少し興奮する。

 でも、そんな妄想、彼には知られるわけには行かない。


「伊東君、お疲れ様。今日はここまでで良いよ」


 時々、オレはこの声に聞き惚れる。

聞き惚れて時々ぼんやりしてしまうほど。


「伊東君?もう良いよ」


「あ、は、はい」


 こうして毎週土曜日のお昼頃にオレは彼から解放される。

陽の当たる大きな窓。石膏の匂い。沢山のデッサン。雑然とした部屋。白いカーテン。そして、


「今コーヒーを淹れて来る。洋服着て待っていて」


 このコーヒーの匂い。

彼は彫刻家の水森せつさんと言う人だ。大きな声ではいえないが、あまり有名な彫刻家では無いらしい。


「ねえ、水森さん。オレなんかで本当に良いの?」


 わざと意味深な言い方をしたが、これを水森さんがどう受け取ったかは分からない。まあ気がつかれなかったかもね。


「男の子のモデルさんが欲しかったしね。はい、コーヒー」


「それって男の子だったら誰でも良かったみたいな言い方だね」


 そうだね、多分良かったんだろうね。硬い男の肉体を持っていればおそらく誰でも構わなかった。

 水森さんはコーヒーを渡して来ながら困ったように笑っている。

 正直な人だな、水森さんは。


「冗談です。オレは週一の割のいいバイトで返って申し訳ないくらい」


 親の仕送りで大学に行けるありがたい身分だったけど、小遣いまでくれとは流石に強請れない。

 美術大学では、時々こんなバイトの募集がかけられる事がある。裸体モデルは割と見入りが良いから争奪戦になることが多いけど、今回はラッキーだった。

 自分も美術の授業で裸体デッサンは結構見慣れてる。だからなのかこんな風に誰かの前で全裸になるのにあまり抵抗がない。

 オレが羞恥心薄いだけかな?


「他にも応募があったって聞いたけど、どうしてオレだったんですか?」


「うん?そうだな、インスピレーション、かな?」


 なんだか曖昧な答えだ。まあ、そうかも。何せ、彼の彫刻はまるでオブジェのような抽象的な彫刻だ。この彫刻のどこにリアルなデッサンを求める要素があるのか不思議だけど、ピカソだってダリだって描かせたら相当写実的に描ける。きっと必要な基礎なんだろうね、デッサンて。


「あと二回で良いよ、ここ来るの」


 突然、思いもしない言葉を聞いてオレは驚いた。


「え?オレもうすぐ失業ですか。来月いっぱいって言ってたのに」


 何故だかとてもがっかりした。

あと二回で、この声と、いや水森さんと会えなくなるんだ。


「すまん、君は二月の梅花だからね」


「なんです?それ?」


 花に喩えられたのは初めてだったけど、どういう意味か尋ねても、水森さんは微笑んだだけで何も教えてはくれなかった。

 

 描き手はモデルに執拗に触ったりしない。それは暗黙の了解だ。

 だからオレも水森さんにあまり触られた経験はない。いつもあのセクシーな声だけで細かに指示されてオレが従う。

 それってまるで主従関係みたいだと感じることがある。彼の求めに応じて足を開いたり胸を反らせたり、腰を突き出したり。

 あの物静かで熱い眼差しで、身体の細部まで見られると、とてもドキドキする。

 そして何より、その声にゾクゾクする。もし、彼とセックスしながらあの声で命令されたら?

 大学生の男なんて、すぐに何でもエッチな事に結びつけてしまう。妄想の相手が男でも女でも。きっとこれがオレの性癖ってやつなんだ。


「じゃあ、来週また。ご苦労様」


 オレは水森さんのアトリエから外に出た。朝九時半からお昼の一時頃までの拘束で、何時も外に出ると初春の弱々しい太陽にさえクラクラする。世界が黄色くて、まるでラブホから出て来た時のような感覚になる。

 そんな不思議な感覚もあと二回。それでオレと水森さんの関係が終わる。寂しい気持ちで地面に目を落とすとチラチラと白いものが舞っているのが見えた。


「嘘、雪ぃ?どうりで寒い訳だ」


 あと少しで三月だった。これがこの冬最後の雪かも知れない。マフラーに顔を埋めるようにして、オレは一人暮らしのアパートへと家路を急いでいた。




 

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