トラブルトラベル

はおらーん

第1話 髙田家の習慣


「おかあさーん、今回は何枚持っていったらいい?」


佐紀は2階の部屋から大声でお母さんに聞いた。来週から夏休みの海外旅行に出かけるのだが、今は荷造りの真っ最中だった。高田家では、年に1回、多いときは2回海外旅行へ出かける。父親も母親も地域に拠らず海外旅行が大好きだった。佐紀自身も幼いころからアジア、ヨーロッパ、アメリカ、あらゆるところに連れていかれている。


「4泊の予定だから、7,8枚あれば大丈夫よ!」


お母さんも自分の荷物の支度をしながら2階の佐紀に向かって大声で答えた。


「わかったー!」


佐紀はクローゼットを開けて奥の方にしまってある段ボールを引っ張り出した。中にはピンク色のビニールのパッケージが仕舞ってある。その他にも、一度開封して使いさしになったものもある。赤ちゃんが使う紙おむつだった。佐紀はスーパービッグと書かれたパッケージから中身の半分ほどを取り出して床に並べた。


「8枚か~。3枚くらい手荷物に入れて残りはキャリーケースでいいかな」


キャリーケースの隙間に紙おむつを押し込み、残りの3枚は機内に持ち込んだり、観光地に持っていく用のリュックサックに詰め込んだ。佐紀には排尿障害などがあるわけではない。夜尿症を患っているわけでもない。高田家では海外旅行の時にはおむつを履いていく習慣がある。佐紀もそれを普通のことだと思っていた。


佐紀が初めて海外旅行に行ったのは、4歳の時だった。近場の台湾に家族3人で行ったらしいのだが、佐紀には記憶がない。当時はすでに昼のおむつは外れていたのだが、夜はまだまだ現役でお母さんの荷物の中には宿泊日数分の紙おむつが入っていた。夜は想定通りおむつを使っていたが、想定外だったのは昼間だった。慣れない土地と環境、公衆トイレのなさ、衛生面のこともあり、旅行2日目にして佐紀は昼間の失敗をしてしまった。佐紀自身には記憶のないことだが、残りの台湾旅行は現地で買った紙おむつを履いて過ごしたらしい。それから、海外に行くときはおむつを履いていくようになった。




空港に着いて家族そろってラウンジで休憩していた。登場時刻まではまだ1時間以上ある。ラウンジ内では他の旅行客もいたが、半数以上は外国人だった。そんな光景も佐紀には見慣れたものだ。


「佐紀、国際線に乗る前に履いときなさい」


「はーい」


飛行機の中もおむつを履いておくようにしている。できるだけ通路側の座席を予約するようにしているが、そうはいかない場合も多い。一度座ってしまうとなかなかトイレに立ちにくく、国際線だとキャビンアテンダントも日本人でないことが多いため、念のためである。佐紀は躊躇なくリュックサックから紙おむつを取り出してそのままトイレに向かった。


「Diaper(おむつ)…?」と隣のテーブルに座っているご婦人が驚いた様子だったが、英語の苦手な佐紀にはなんのことを言っているのかはわからなかった。身長も150㎝を超えている中学生の佐紀が、おむつを履いているとは想像もできなかったのだろう。佐紀はニコッと笑って会釈をしてそのままラウンジのトイレに向かった。洗面台の前で白人の女性ともすれ違ったが、彼女も驚いた様子で佐紀の方を見た。手におむつを持った中学生がそのまま個室に入っていったのだから。


個室に入った佐紀は、鍵を閉めてズボンに手をかけた。持ってきた小さなビニールに脱いだショーツを入れて、おむつに片足ずつ通していく。細身の佐紀には子供用のおむつでも若干の余裕がある。そのままズボンを引き上げるが、薄型タイプのおむつのため、ピッタリタイプのズボンだったが傍目にはわからない。


「履いてきたよ~」


佐紀はいたずらっぽく笑うと、お母さんにおむつのゴムの部分が見えるようにズボンを少しだけめくった。「コラ!」と小声で注意し、アンタそれパンツ見せてるのと同じなんよ、と怖い顔で佐紀を諭した。



おむつを履いてはいるが、基本的におむつに用を足すことは許されていない。あくまでも緊急時に使うことと、トイレがない時の精神安定剤みたいなものであって、おむつを汚す前提にはなっていない。今回は4泊の旅行だが、お母さんは8枚くらい持ってくるようにと佐紀に伝えた。それは、夜は必ずおむつで寝るようにしているからだ。佐紀には夜尿症などの症状は全くない。


佐紀自身のおねしょは、6歳ごろまで続いた。旅行先でベッドを汚すわけにはいかないので、両親も念のため7歳ころまでは旅行先の宿泊ではおむつを履かせるようにしていた。このころにはおむつのサイズも大きくなり、ビッグよりも大きいサイズなどを買うようになっていた。佐紀が2年生になるころには夜のおむつを嫌がったため、旅行先でもおむつをすることはなくなった。実際家でもほとんどおねしょすることはなかった。


しかし、5年生の時に行ったドイツ旅行が契機になる。飛行機や長時間のバス移動、観光地では昼間もおむつを履くのは継続していたが、夜のおむつは3年以上使っていない。その間海外で失敗したことは一度もなかった。その日は市内の観光地を徒歩で回り、クタクタに疲れ切っていた。汗もたくさんかいたので、夕食ではたくさん水分を摂ったのも良くなかったのだろう。翌朝佐紀は3年ぶりにおねしょをした。


お母さんがフロントに電話し、拙い英語で事情を説明すると、ほどなくして清掃員が片付けにやってきた。


「Wie hast du einen bekommen? Auch in diesem Jahr.」


佐紀に向かって怒鳴るような口調で言う。誰もドイツ語を理解できないが、文句を言われているのはわかる。帰り際お父さんはフロントの人と少し言い合いのようになったが、結局ベッドのクリーニング代金として日本円で2万円近く払わされたらしい。


両親とも、気にしなくていいと言ってくれたが、「どうせ昼間はおむつなんだし」と努めて明るく佐紀は言った。結局ドイツ旅行ではほぼ24時間おむつで過ごし、その後の旅行でも宿泊時は必ずおむつ着用するというのが暗黙の決まりとなった。5年生からは身長もグッと伸び、比較的伸縮性のあるメーカーのビッグよりも大きいサイズでも厳しくなった。以降は今も使っている子供用のスーパービッグサイズをお母さんが定期的に買ってきてくれている。何の使い道もないが、サイズアウトしたおむつたちは、クローゼットの奥で段ボールの中に眠っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る