五日目 曇り 【青春】

五日目 曇り 気温まぁまぁ 湿度高め


 朝八時。碧は数日ぶりに学生服に身を通していた。シワの寄ったシャツに珍しくアイロンがけをして、折り目の残ったスカートの跡を消すように、丁寧にシワを伸ばす。

 何故なら今日は、本来であれば卒業式の日だから。その式が決行されることが無いと知っていても、人生でたった一度の高校の卒業式の空気感だけでも味わおうと、碧は無意味であれど高校へ赴くことを決めたのだ。

 今日も今日とて街は静謐に包まれており、それをおかしなことと思わなくなった碧自身が異質になりつつあるのも、また確かなことである。

 非日常も慣れれば日常となる。それが慣れて良いものであるかどうかは別問題として。

 改札口に定期券をあてて通ると、碧はその道を踏みしめるような足取りでホームにおりた。先日と変わらず、光の灯らない電光掲示板を見上げる。その奥に映った花曇りの暗澹とした風景に、碧は大きく嘆息した。

 電車は来ない。そう知っている。運行する技術を持った人間はもう居ないのだから当たり前だ。碧はホームに腹ばいになってから、恐る恐る線路へと降り立った。線路特有の鉄線、ホーム下に溜まったペットボトルやポリ袋。普段なら見るはずのないものが映る景色は、何故か懐かしく感じてしまう。

 もう電車は走るはずのない線路と知っていながらも、衝突の可能性を頭が考えて、底冷えするような重苦しい恐怖感が心の隅に芽生えていた。

 元の日本であれば、線路内侵入は犯罪行為だ。通報されれば現行犯で逮捕されてしまう。しかしこの国は既に廃都。機能していない機関を恐れるのは無駄な話である。

 荒れた地面に敷かれたレールに沿って、碧は普段使いしていた路線を自らの足で歩くのだった。ある意味では、通い慣れた通学路。

 しかし車窓から見る景色は足早に過ぎ去ってしまうもので、こうやってゆるりと歩むとまた別のものが見える。線路の片隅に生える小さなたんぽぽの花なんて、高い場所ばかり見上げていては視界に映らないものだ。



 春の穏やかな風は心地よく、夏のような蒸す暑さは感じないけれども、歩き続けてきた疲労は確実に蓄積しているものである。額を伝う汗を手の甲で拭うと、碧はスマートフォンの表示を確認した。時刻は十一時すぎ見上げた空にある太陽はほぼ真上に上昇していた。

 三時間弱の時間と途方もない岐路を経て、碧は通い慣れた高校に辿り着いていた。普段なら電車で三十分そこらの道程も、時速の遅い人間が進めば何倍もの時間を浪費する。

 校舎内には案の定誰も居らず、閉じていた校門をよじ登って不法侵入した碧は、本校者から体育館へ続く渡り廊下にあった扉から校内へと入った。授業をする教科担任の声、黒板とチョークが鳴らす音、生徒たちの談笑。何も聞こえない校舎の雰囲気は、普段の様子とは様変わりしていた。

 まるでこの学校が神聖なものに感じてしまうほど。静謐とは末恐ろしいものである。

 季節は春、出会いの季節。

 数日後には、顔を合わせることもない後輩である高校一年生達が、入学式と共にやってくるのだろう。

 三年四組。教室の自分の席に着席する。くじ引きで決まった座席の隣席は、あまり会話をすることのなかった男子生徒だった。進学当初よりは仲良くなったが、あくまでクラスメイト止まりの関係で、親睦を深めることもできなかった。

 無心で黒板を眺める。そこには何も書いていない。誰かが念入りに消したのだろう、とても綺麗な板面だ。本当ならば、そこには下級生が描いた卒業祝いの絵が描かれているはずだったのだろう。

 穏やかな春の心地が、眠気を誘ってきた。思わず机に臥すと頭が夢見心地になる。うとうと微睡んでいると、碧は優しい夢の中に混ざり込んでしまうのだった。



 それは、なんでも無いただの夢だ。情景も何も無い、ただ真白な光景に誰かの声だけが反響する。

「ちょ、スキル使ってスキル!俺死ぬって、俺死んじゃうって!」

「コンビ二のおにぎりばっかで飽きないの?もっと別の味あるじゃん」

「はい俺の勝ち!ジュースおごる!いやぁ奢りたかった!奢りたかったからいいんだよ!嘘本当は嫌だ」

 碧は自覚した。これは自身の記憶の一部だと。よく絡む友人と昼ご飯を食べる際に、クラスの至るところで作られたグループから、騒ぎ立てる声がするのだ。男子数名が机を囲んでゲームをしていたり、隅の机で女子がメイクを直していたり。

 友達と一緒に昼ごはんをたべたり、カラオケに行ったりした馬鹿騒ぎの過去だ。



 碧は、機械的でノイズの混じったチャイムで目を覚ました。窓の外からさす日は暮れ始めているのか、室内を赤く彩っている。どうやらかなりの時間そのまま眠ってしまったようで、体の節々が固まって痛みを訴えている。まだ働かない頭が、重く鈍く痛い。

 夢を見ていた。良い夢だ。いろいろな友達が出てきた。目が覚めた反動で段々と薄れていく、夢路の記憶。悪夢でも無いのに、消えないでほしい。

──ふと、夢に友情出演をしてくれたはずの友達の声が、思い出せなくなった。

 どんな声質をしている人達だっただろうか。高い声、低い声、ダミ声。泣きそうにかすれた声、楽しそうに笑う声。それは全て、どのようなものだっただろうか。

 人は死んだら、先ず先に──

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