一日目 晴れ 【違和感】

 一日目 晴れ 気温それなり 湿度ほどほど


 けたたましい目覚ましの音がスマートフォンから鳴り響き、夢見心地の碧は不快感を覚えながらも目を覚ました。寝付きの悪く浅い眠りの中で、何かしらの夢を見ていたような漠然とした感覚を覚えているが、詳細な内容は既に記憶の片隅から亡失されていた。

 一体何の夢を見ていたのだったか。重い瞼を手の甲で擦って欠伸をこぼし、寝癖混じりの蓬髪を掻いた。睡魔に襲われる火曜日の朝方は、油断をした途端に睡眠欲求が頭をもたげる。

 昨日、卒業直前行事の遠足で、三学年全員で遊園地へと赴いた。その反動からか身体の随所に筋肉痛が巣食っており、動く度に鈍痛が走る。そんな身体に無理を強いて、碧は卒業式練習をすべく、今日も学校へ向かわなければいけないのだった。

 寝覚めの悪い重い身体を動かして、覚束ない足取りでリビングへ向かう。しかし階段から一階を見下ろしてふと、碧はおかしなことに気がついた。一階の照明がついておらず、やけに暗いように感じる。いつもならば母が先に起床をして、朝餉の準備を済ませている時間である。

 違和感を覚えながらも薄暗い階段を降りると、リビングの木戸を押し開いて室内を覗きこんだ。

「おはよー」

 リビングは、電灯はおろかシャッターすら開かれておらず、社交カーテンの切れ間から黒い障壁が覗いていた。部屋の中には人の影もなく足音もせず、碧自身の呼吸音が目立って聞こえる程に静まり返っている。

 いつもであれば、東から登る陽光がカーテンを介して薄く室内に溢れ、温かい豆腐の味噌汁と白米が食卓に並べられているはずだ。隣接するキッチンで調理中の母親が、碧を「まだ出来てないから。顔は?洗ったの?」と叱るのも、日常の光景であるはず。

 高校三年生、思春期真っ盛り。このぐらいの歳になると、親に対する朝の挨拶という類がこっ恥ずかしいもののように感ぜられる。

 兎にも角にも碧は、返答の来ないまま闇の広がる室内を見て疑問に思っていた。明確な記憶こそないが、母が朝から外出するなどと言っていたような覚えはない。

 碧が起床するより早くに出勤していく父親が、碧が起きた後に姿が見えないのは至極当然のことなのだけれども。朝起きて一番に母の顔が見えないのは、この家では比較的珍しいことである。

 ゴミでも捨てに行っているのだろうかと、碧は深く考えずに洗顔だけでも済ませてしまおうと一度廊下へ引き返して、突き当りの洗面所の扉へ手をかけつつ、玄関の様子を横目で伺った。

 冷たい空気が満たすそこには、母が普段使いしている靴が乱雑に放置されている。どうやら、母は家内の何処か居るらしい。もしかしたら碧が見間違えただけで、未だ寝室で横になって眠っていたのだろうか。刺すような冷水で顔を洗って覚醒させた意識で思考をまわす。

 ここ最近の母から多忙な様子は見受けられなかったが、日頃の疲労が徐々に体面へと出てきているのかもしれない。であれば不用意に叩き起こすのも申し訳なく思え、ハンドタオルで顔を吹きながらに階段を一瞥すると、碧はまたリビングへと踵を返した。

 高校三年生という学生の範疇であれど、碧にだって簡素な朝食を作る程度の家庭科の知識は備わっている。適当に卵でも焼こうかなどと考えながら室内照明を全点灯すると、薄暗く陽も差さなかった暗澹とした部屋が、瞬く間に人工的な明かりで穏やかな色に包まれた。




 黒い焦げ目が随所にある汚い卵焼きと、大きめの茶碗にまあるく盛った冷たい白米を卓上に起き、碧は適当な席に腰をかけてテレビのリモコンを手にとった。普段の朝に見るのは、8チャンネルの天気予報と運勢占い。母親と今日の運が良いのはどちらかと比べ合うのがたまの余興である。

 電源ボタンを押すと、液晶下で小さく灯っていた赤のライトが青色へ変わり、画面が明るくなる。それと同時に流れはじめたのは、番組のメインBGMである陽気な音楽と、今日の天気予報──ではなく、乱雑に画面を汚す砂嵐のモノクロだった。

 不規則で耳障りな音と共に画角を覆い隠すのは、茶とも白とも黒とも、極彩色ともとれるポリゴンの入り乱れた色。チャンネルを切り替えるボタンを押そうとも、明滅と共に延々と流れ続けるのは雑音とノイズのみ。

 機械の故障か、もしくは屋根に設置されたアンテナが異常をきたしたのか。碧は生憎と機械整備の達者な知識はもっておらず、雑にボタンを押しては首を傾げるのみで、要因が掴めそうにはなかった。

 唯一頼りになる父は仕事に出払っているし、母は未だ二階で夢の中。テレビの故障でわざわざ起こすのも忍びなく、碧は碧は一人で不可思議な現象に唸りながら、諦めて嘆息するとテレビの電源を落とした。手早く朝食を済ませ、洗い場の水桶に使用済みの皿を浸す。

 碧が高校へ到着するまでには、電車を数度乗り継いだ後に徒歩で移動をして、約一時間程度かかる。少々時間がかかる位置に通っている。郊外の山間に在する古い屋舎の学校ゆえに、移動に無駄な手間を要する。

 普段は七時以降に家を出ているのだが、母と話しながら食事を取ったわけでもない現状、時間は有り余っていた。いつもより早くに家を出てしまおうと、碧は足音をたてないように細心の注意をはらいながら階段を登ると、自室に戻って身支度を始めた。

 別段急いでいるわけではないが、家にいるだけで退屈が凌げるわけでも無く、であれば早めに学校へ向かってしまおうと思っただけのこと。壁に掛けられた時計へと目線をむければ、時刻は七時前を示している。

 ハンガーにもかけずに勉強机へ放っておいた衣服を引っ手繰るように取ると、手早く身につけてネクタイを巻いた。アイロン掛けも面倒臭がったシャツには薄いシワがよっており、スカートには数段降りした跡が残っている。

 よれた通学鞄に筆記具や折り畳み傘、モバイルバッテリーやイヤホンなどの諸々を詰め込んで肩に提げると、階段をリズムよく一段飛ばしで駆け下りて、靴を足に引っ掛けた。

 そのまま平然と鍵を開けて家を出てしまおうとして、ふと足を止めて家内を振り返る。

「行ってきます」

 照れ臭そうにか寝ている親を気遣ってか消えそうな小声で呟くと、碧は家を出た。




 雲間から差す朝日の光芒が眩しく、朗らかな朝の陽気は寝起きの頭を惑わし重くする。肌を撫でるように柔和な風が引き連れた、冷えた空気と僅かな草花の香り。早朝の光景に僅かばかり胸を踊らせながら歩く道は、何処かいつもと違う景色に様変わりをしているように目に映る。

 普段よりも早く家を出た所以か、人通りは疎らどころか全くと言ってよいほど無く、鎧戸の降りるばかりな住宅街は閑散としていた。愛犬を連れて公道を散歩する婦人も、息を切らして芝を走る蛍光の運動服の男性も、未だ見かけていない。

 脇道も大通りも車通りも無く、走行音がせず無音なおかげか、町並みがやけに静寂に沈んで薄暗く見えた。電線上を占拠して煩く囀る鳥の鳴き声はおろか、羽ばたく胴の影や羽根先すら、今日はまだ拝んでいない。普段と数刻時間が違うだけで、朝風と共に見える景色はこんなにも様変わりした趣きのあるものなのかと、呑気なことを思いながら最寄り駅へと辿り着く。

 少し寂れた古い駅。近々改装工事が行われる予定らしく、屋舎の一部がブルーシートで覆われて、搬入された工業資材が施設の隅に積まれている。不思議と、駅構内の何処にも人の影は見当たらない。

 いつもならば疎らな人が利用する改札口や、駅員が常在しているはずの窓口、切符や定期券の購入を行う専用機械の前ですら誰の姿も見られなかった。雑踏の足音や誰かの話声だって、平常であれば考えられないほど珍しいことに、全く耳に入って来ない。聞こえるのは吹き抜ける風の唸るような音のみ。

 通勤通学時間帯はかなり人が利用するはずだが、平日であれども訪れる時間が数十分違う程度のことでこんなにも違う姿になるもののなのだろうか。心の隅で疑念を抱きながらも、碧は改札口に定期券をかざすと、足早にホームへと階段を降りた。

 次の電車は何分後だろうかと確認すべく、トタンの屋根から提げられている掲げられいる電工の案内掲示板に目を向ける。しかしそこには、何の文字も表示されてはいなかった。電車の到着予想時間、黄色い線の内側でお待ちくださいという定型文、他の路線の運行情報、その全てが無いままに、不気味なほど黒塗りの板が、ただ黙してそこにある。

 機械系統の故障か駅の改装工事に伴う何かなのか。何にせよ数分程度待っていればそのうち次の電者も来るだろうと、碧はその場で立って待った。

 斯くして、数分が経過する。待てど構内アナウンスが流される気配はなく、電車のけたたましい車輪の摩擦音が近づく様子も上下線において見られず、人の姿は向かいの公道にすら見受けられない。碧は今になってようやく頭の中に、理解の及ばない違和感を覚えた。驚くほどの無人、そして無音。朝方特有の人気の少なさと呼ぶには異常なほどの状況は、碧の五感が機能失い、人を認識することができなくなったのではと錯覚してしまうほどだった。

 訝しげに思った碧は鞄からスマホを取り出すと、友人へ手早くLINEを送る。

『駅に全然人居ないんだけど。電車も来ないし。何かどっかで事故でもあった?遅延してんの?』

 利用する時間は違えど、碧と同じくこの駅が最寄りの友人が一人居る。きっと彼女もそろそろ起床して出かける準備をしている時頃だろうと思い至って連絡をした。

 しかし、返事が来る兆しは無い。彼女は普段から遅刻癖があるから、寝坊をしておりまだ夢の中に居る可能性は高い。はたまた食事中か、荷物の準備中か。卒業前の軽い鞄に一体長時間かけて何を詰め込むのかは疑問に思うところではあるが。

 何時来るかわからない返信を待ち続けるのも無駄だと思い、碧は次いでと言わんばかりに別の友人への文面を打ちこむ。碧とは使用する路線も在住する市も違う方面だが、仲の良い友人だ。遅刻や欠席の数も少なく、時間管理能力に秀でている。きっと今は、学校へ向かう電車に乗っている頃だろう。

『今日めっちゃ早く家出たんだけど、駅が変なことなってる。全然人居ないし、そもそも電車来ない。貸し切り?それともここ、きさらぎ駅?』

 人の行きつけない無人駅の都市伝説を揶揄しつつ、普段と変わらない軽い文章を送った。しかし矢張り彼女も、既読は一向につかない。誰も彼も都合が悪いタイミングで送信してしまっているのだろうか。呆れて大きく嘆息すると、暇を潰すべくSNSのアイコンをタップして起動した。

 起床時に確認したホーム画面は、幾ら更新しても新規のツイートが表示される兆しはない。朝から今にかけての時間で、どうやら新しく呟いた人はいないらしい。知り合いのどうでも良いような呟きも、好きな芸能人の発言も、昨夜の十二時頃を境にぱったりとなくなっている。

 碧は諦めて根気強く待ち続けようと、不動の構えの覚悟でスマホを胸ポケットに仕舞い、通学鞄からイヤホンを取り出すべく漁った。

 ふと、ホーム下の線路沿いに立てられた鉄柵の向こうの、駅前のコンビニが目に映る。二十四時間営業のそれは周辺の店とは違って既に開店しており、暇を持て余した碧は先に昼食のおにぎりを購入しておけばよかったと僅かに後悔をした。

 しかしその悔悟と共にふと、拭えない違和感を覚える。薄目で見える店の内部に、商品を買いに来た客はおろか、レジカウンター内に店員の姿すら見られない。あのコンビニの制服は見慣れていた。店のマークの付いた、特徴的な緑の制服だ。

 遠目で見ても奇抜なはずのそれは、幾ら目を凝らして観察しようとも、碧の視界に影すらも映らない。店からホームまでの距離はさほど遠くない故に、見間違えや見えないという可能性は薄いだろう。店内の清掃中や棚の整理中であることを考えるにしても、客の多い時間帯であるはずの朝方に、店員がレジを長く離れすぎているのではないだろうか。

 否、そもそもの話として客が居ない。全く。一人たりとも。

 ふと碧は、改めてホームを見渡した。

 誰もいない。駅沿いの、まだ蕾のままの桜並木の下にも、駅前のロータリーにも、人影は無い。公道の脇には制止したままの乗用車ばかりで、走行中の車は見当たらない。

 バス停も無人だ。そういえば、今朝碧がホームに降りてから、見慣れたはずの赤いバスが発着するのを見た覚えがない。

 何かおかしい。直感が連れてきた疑心にしたがって碧は、就寝中だと思われる母親のスマホに電話をかけた。

 数コール。でない。

 自宅に電話をかける。でない。

 出勤したはずの父親。でない。

 友達数名に。担任に。学校に。でない。

 冷やかしだと怒られる覚悟と、犯罪すれすれの悪事を働く罪悪感と共に、緊急連絡110のボタンを押した。でない。

 119の消防へ。でない。

 公共機関、ましてや国家の中枢であるはずの両者による応答がなかったことに、碧は戦慄した。

「誰か!誰かいませんか?!」

 叫ぶような呼び声は物悲しくも虚空に消え、返答は無い。

 瞬間、碧は何かに弾かれたように走り出すと、駅の階段を一段飛ばしで駆け上がった。駆け足で改札口へと飛び込むと、規制音と共に飛び出した停止版によって行動が阻まれる。しかし碧はそれを跨いで乗り越えると、家への帰路を全速で駆け抜けた。先程までの穏やかな気持ちなど毛ほども無く、明らかに自身の身体または世界がおかしい夢のような状況に、急く思いだった。




 見慣れた家屋、我が家の玄関口前。いつもと何ら変わらない景色。隣家のボロい母屋の屋根瓦が剥がれているのも、庭先の雑草が伸び切っているのも。近場の公園の倉庫のトタンが色褪せているのや、古い遊具を虫が食っているのも、代わり映えのしない光景であるはず。

 誰もいないことを除いては。

 焦って当惑しながらも碧は、震える手で挿した鍵を回すと、家内へ飛び込んで音を立てて激しく扉を閉める。

「お母さん!お母さん、居る?お母さん!」

 声はしない。空虚に向かって叫ぶのみの寂れた感覚。玄関口で乱雑に脱ぎ捨てられた母の靴の様相は朝と変わらないように見えた。

  壁に沿って置かれた、陳腐な木製の靴箱。見える限りには、碧のローファーや母のヒール、余り使わない誰かのサンダルなどが並べられており──父が出勤時に履く革靴も、仲良くそこにあった。

 二人の靴は全てここにある。素足を晒して出かけるわけもないのだから、二人は家に居る。

 しかし二人は家に居ない。

 不気味な感覚に全身が総毛立ちながらも碧は運動靴を乱暴に脱ぎ捨てると、転がるようにリビングへとあがった。未だ鎧戸が降りたままの室内は、照明をつけたままのはずなのに妙に薄暗く、肌にまとわりつくような悪寒を覚えるた。

 小刻みに震える体に鞭打って、子鹿のような足でソファによじ登る。未だ夢の中に居るのかと思い至った碧は、強く強く頬を抓った。爪が食い込んで痕が付き、やがて赤く変色しては患部に血が滲み始める。

 あるのは明確な痛みだけ。頬を叩いてみてもそれは変わらない。

 自身の身体が何かの病に苛まれたのか、碧の知識にないものに罹患してしまったのかと考えた。

【人 居ない 見えない】【音が聞こえなくなる 病気】【都市伝説 人が消える】

 様々な単語を並べて検索しようとしても、めぼしい情報は露出してこない。検索結果を更新するたびに話の内容の整合性は薄れ、終いには車内釣り公告のほうがマシだというような安っぽいウケ狙いの記事ばかりが出てきた。

 天災が引き起こされたのかと、震える手でテレビの電源を入れる。しかし今朝と何も変わることなく、相変わらずの無機質で粗雑な砂嵐。情報源を探そうとツイッターを開いたが、矢張り誰も何もツイートをしていなかった。

 知らない何処かの誰かに至るまで、である。本日の深夜二十四時ちょうど以降、新規のツイートはどのワードで検索をしても表示されない。

 それは、碧の視覚聴覚が異常を来したと考えるにしてはやけに世界的な現象で。

 碧はこの日、外出をすることは一切なかった。陣取ったソファから降りることはあれど、屋内だけを拠点として生活をして。

 家族の帰宅を待つように座り続け、僅かな情報でも得られればと携帯端末に食らいついて探した。昼飯も夕飯も入浴も放って調べ続けてやがて、鎧戸の降りた部屋に僅かな冷気と共に夜が来ると、眠気に負けて寝落ちるのだった。

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