お店のトイレがこわいという話(またはちょっとしたデイ・トリップと環境譚)
ぱくぱくかつおちゃん
お店のトイレがこわいという話(またはちょっとしたデイ・トリップと環境譚)
お店のトイレってこわくないですか?どこのって、どこでもです。本屋さん、ごはん屋さん、レンタルビデオ屋さん、楽器屋さん、とにかく、かなりの数のお店にトイレは備え付けられているわけですが、軒並みこわいのです。
お店のトイレ界隈にどのような取り決めが存在するのかは存じませんが、お店の中は綺麗に整備されているのになぜかトイレだけヒビや塗装の剥げ、薄暗い照明と、全体的にうす気味の悪い演出がなされた所が多いように思います。そりゃトイレにまつわる怪談の一つや二つ誰でも話してみたくなるはずです。恐らくかの稲川淳二も異論ないでしょう。
目の前に棚があるトイレが何よりも恐怖を誘います。しんと閉まった観音開きの扉がいつドバーン!と開け放たれるのか、中にはたして何がいるのか、いつもそればかり気になって、トイレなどと呑気なことは言っていられません。
二枚の扉の間にはわずかな隙間が存在します。トイレというのは暗いものですから、その狐目さながらの細い暗闇はじっと見つめれば見つめるほど、徐々にその瞳を
無防備に座り込むわたしも、さすがにそのまま暗闇に飲み込まれるばかりではありませんから、思い切ってふんと立ち上がります。眼前にそびえる、のっぺりとした木製の扉は壁一面を覆い、大きく構えています。暗闇の入り口、小さな取手にそっと手をかけ、逸る鼓動が恐怖もろともむくむく加速して、ギュムと目をつぶり、そうして思いっきり!
ばーん。
開いた扉の向こうは、当然何もありませんでした。何もありませんでした。ありませんでした。
わたしは三回、心の中でそう唱えてからぱちりと目を開きました。
なんということでしょう!
わたしは思わずフリーズします。そこには何もいませんでした。しかし確かに、中にもう一つ扉が存在したのです。なんの変哲もない扉の中に現れたのは、ほんの一回りばかり小さい、薄っぺらな引き戸でした。
一体これは何でできているのでしょう、金属製のブックマーカーのような、おしゃれな柄が切り抜かれていて、その色は黄金色、まるで遠くに旅行をしてきた友人がくれるささやかな旅土産のような質感の扉です。よくみるとその柄は
引き戸に手をかけ、両側にスパンと開きます。
なんということでしょう!
新しい扉が現れました。三つ目の扉は、先ほどとうって変わって漆黒に塗られていて、漆塗りの器のような気品を称えています。わたしはしばしその美しさに見惚れてから、ハッとしてゾッとしました。ハッゾッの根元は、この作りがとてもお仏壇のそれと似ていることに気づいたためでした。
母の実家、祖母の住む家にある祖父のお仏壇は、確か黒い重い扉を開けるともうひとつ黒い、先ほどより軽い扉が顔を見せ、その中に金色の薄い栞みたいな扉があり、その奥にやっと位牌が鎮座しているというつくりでした。
はじめに開けたのは木でしたから、その扉、金の扉、そして今立ちはだかる、重そうな黒塗りの扉。木の扉が一枚目の扉を隠すものであるとするなら、金の扉が本当の一つ目の扉だったということになります。
それが、仏壇を中から、つまり仏様サイドから開いていっている状態だと気づくのにそう時間はかかりませんでした。わたしはもう死んでいる……?もはやお仏壇の中に住んでしまっているということ?展開早くない?
わたしは冷や汗をかきながら、黒塗りの扉をさらに両手で開きました。
なんということでしょう!
もうこんなに扉があってはリフォームの匠も困惑することうけあいです。階段を収納に大改造☆どころの騒ぎではありません。
姿を現したのは、ここまでわたしが繰り広げた素晴らしくて恐ろしい仮説をぱっとかわし、拍子抜けさせるようなものでした。ここは森の中かしら……?
森の中を彷徨い歩いていると、一軒のお家を見つけました、古い洋風の民家のようで、扉には草木の彫刻がなされています。といった風貌の木彫りの扉が突如現れたのです。
洋風のお屋敷の扉に極めてありそうな、古びた金属製の取手は、わたしのようなファンタジー精神たくましい乙女の手をあっさり惹きつけてしまいます。
緩やかに曲線で構成されたその取手は触れるとひんやりして、既にわたしの心は童話の世界の入り口にいました。
もうさっきまでの恐怖心なんてのはどこかへ行ってしまって、わたしを占拠するのはただただ好奇心のみとなりました。あとは、ありったけの扉を最果てまで開き続けるまでです。
勝手にお店のトイレの棚を開いたのは確かにわたしです。でもそれをこんなに加速させて魅きつけて止まないこの扉のつくりは、これこそが職人の仕事。リフォームの匠も脱帽でしょう。
人間は古来より、箱の中に箱、その中にもまた小さな箱、といった仕組みそのものに魅了されてきた生き物です。それは日本のみにとどまるわけもなく、ロシアでもマトリョーシカなどと、かあいらしい玩具を生み出させました。まだあるの?もっと出てくるの?こんなに開いちゃっていいの?わたしたちはその魔法にかかり続けてきました。その際たる姿が、扉の向こうに扉。ここに尽きると思われました。わたしの眼前には、世界一妖しい魅力をまとった、邪悪なほどの引力で
わたしは無我夢中に扉を開いては、なんということでしょう!を繰り返しました。幾重にもある扉はそれぞれが個性を持ち、美しい姿であったり、趣があったり無機質であったり、様々な顔を見せながらわたしを奥へ奥へと引き込んでゆきました。
そうして、わたしは一体何枚の扉を開いたのでしょう。もう見当もつきません。一回りずつ小さくなっていった扉は、遂に葉書一枚分くらいの大きさになりました。そこで初めて、片開きの開き戸が現れたのです。
わたしはごくりと生唾を飲み込みました。メルヘンをおかずに二、三杯の白米をいただけると自負するわたしの勘がピンと働いたところによると、どうやらこれが最後の扉のようでした。
わたしは深呼吸をして、その最後の扉に手をかけ、ゆっくりとその向こう側を見たのです————————
「うわ、うわうわ!どちら様?」
何やらいかついフェイスシールドをした、中性的な雰囲気の人がそこにいました。
壁に開いてしまった穴から、隣の部屋を覗き込むような具合であちら側が見えています。
ごちゃついたデスクの上に、何やら見たことのあるようなないような、電子機器がドカドカと積み上がっています。さながらオフィスのようです。
わたしは突如として現れたヒトに驚き、しばらく鯉のように口をパクパクさせるより他なにも出来ずにいました。
「あぁ、やっぱりそういう反応しますよね。
小生はここの管理の当番をしてる者です。たまにね、過去の世界と繋がる関門なんですよここって……って言っても、うっかり開けちゃう人の方が珍しいですけどね。
小生が事務局の当番してる時に開いたのは初めてですよ、いやぁびっくりしたなぁ」
その人は、そう言って少し呆れたような優しい笑みを浮かべました。
「勝手に開けてしまってごめんなさい……どういうことなんですか?」
「意外と不躾ですねぇ、まず自分が名乗りなさいよ。おねーさん今セイレキ何年?」
からから笑いながら質問返しをされたので、少し考えて「2020年です、すみません」と答えると、その人は扉の向こうで「わ〜なんかキリがいいですね!」と呑気な反応を見せました。
「こちらは2210年です。場所は日本。え〜……おねーさん達で言う、本州の真ん中辺、ナガノってとこです。行政区分とかは変わっちゃってると思うから、今の地名は言ってもわかんないと思います」
わたしは再び目をぱちくりします。なんですって?2210年?とんだ未来じゃありませんか。全く信じられないまま、わたしはあちらの人に尋ねます。
「どうして未来とつながっているのですか?」
「立地的にね、そちらとこちらは丁度時間軸の歪む地点らしいんですよ。祖父から聞いた話なので正直小生もよくわかったもんじゃありません」
「どうしてそんな未来なのにご自分のことを小生だなんて古風にお呼びになってるんですか?」
「えっ、そちらで今頃流行ってるんでしょ?知ってるよう小生、歴史が好きなもので」
「流行ってないですね……あんまり会ったことありません」
うそー!と未来の方がコミカルな表情で驚いています。わたしは大混乱極まったために、既にこの状況を受け入れてしまっているのでした。
「なぜ2210年なんて、遠い未来につながっているのでしょうか」
わたしは最大の疑問をここで未来の方に投げかけました。未来の方は慣れた様子で何やらマニュアルのような分厚い冊子をパラパラめくりながら口を開きます。
「おねーさん今、お手洗いにいらっしゃるでしょう。小生のいる2210年てのは、特殊な世界線での2210年、つまり実質2210年の世界で、世界中のお手洗いの時間分先に進んだ世界なんですよ」
「はい?」
わたしは失礼ながら、素っ頓狂な声をあげてしまいました。意味がわかりません。こんなに同言語なのに理解が追いつかないことが今まであったでしょうか。クラス対抗リレーで陸上部の韋駄天にバトンパスをしなければならない瞬間のようなきもちです。
「並行世界ってご存知で?」
「パラレルワールドというやつですか?」
「そうそう!小生がいるここは並行世界の、裏の方ってわけですよ。だから本来の2210年が実際どんな感じかは知りません。おねーさんの世界からそのまま推測するにこうなるよって、所謂モデルハウス……モデルアースですね」
うふふと笑って見せる未来の方と対照的に、わたしはハテナマークを連発しておりました。もでるあーす??
「お手洗いって、うっかり長居しちゃう人いるでしょう。中で人と連絡を取ったりとかうたた寝したりとかまあ色々するみたいですけど、その時間が全部吸い込まれてこちらに来るわけですよ。そうすると、どんどんこちらの時間が進んでいくわけです。2020年でしたっけ?そこらの人たちがお手洗いでのんびりしてしまった時間が全て我々の世界を早めているんです。ほらそうこう言ってるうちに今2211年になりましたよ」
未来の方はそう言いながら、見たこともないような、言うなれば未来的な装置に表示された日付を示してくれます。
「わたしたちはそんなにお手洗いで長居をしているでしょうか」
「意外とね、してますよ。まあ全体の合算だからって部分もありますけど」
「もう一つ伺ってもいいですか?」
「はい」
「そのフェイスシールドは皆さんつけてらっしゃるんですか?」
未来の方はその質問に、一瞬不思議そうな顔をしてからあぁ、と手を打ちました。
「これはね、そうだね、みんなしてますよ」
「なんのために?」
「紫外線とウイルスから身を守ってるんですよ。オゾン層がどうのこうのって聞いたことあります?」
「こちらの現代で喫緊の問題です」
「ですよね、まあ解決はしなかったんですよ、結局今とてつもなく強い紫外線が降り注いでます。このお面は透明ですけど、紫外線がしっかり防げるんですよ。しかも厄介なウイルスが何十年か前に元気に勢力を拡大しちゃったんですけどね、そいつも防ぐことができちゃうってスグレモノです」
「なるほど……」
わたしは未来のことを想いました。わたしたちが、これだけ声をあげたりビニール袋の無料配布をやめたりしていても、結局そんな世界がやって来ている。なんて無力なのでしょう。
「そう聞いたら大変だなって思いますでしょ?それがね、今世紀には今世紀なりのやり方とか幸せとかがあるんですわ。そんなに深刻に考えるのもばからしいでしょ、どうせおねーさんその頃にはとっくに死んでますしね」
いたずらっぽい笑いで未来の方が軽口を叩きました。わたしはその言葉に、どこか救われた気になってしまいました。それでよいのでしょうか、解決にはなっていませんから、きっとそれでは近いうちにあちらの地球はなくなってしまうのでしょう。そう思うと、やっぱり無力にせよ割り箸を断り続けたい気持ちになるというのが無力な乙女なりの、今世紀のやり方なのかなという気がしてきました。
「幸せを願います」
とわたしが言いますと、未来の方は愉快そうに「ありがとうございます」と返しました。
「小生もね、おねーさんの幸せを祈ります」
わたしはよくよく頭を下げてお礼を述べてから、未来の方とお別れをしました。それから一つずつ、ゆっくりと扉を閉めて行きました。最後の扉、つまりはじまりののっぺりとした扉をはたりと閉めると、その閉じる音が何かのスイッチとなって、わたしはちっぽけな空間に突然一人になった気になりました。
いいえ、元より、トイレは孤独の空間のはずでは?
トイレってこわくないですか?お店のトイレのことです。特に、目の前に棚があるところ。観音開きの扉同士は、真ん中に狐目のように確かな暗闇が存在しています。わたしはいつもこの暗闇に見入ってしまい、恐怖を覚えると小走りにトイレを後にするのですが、今ばかりはこの目の前の暗闇に何かしらのトキメキを感じました。扉は極めて一般的な、木製ののっぺりとしたものです。
そのトキメキが何によるものなのかはわかりません。持ち前のメルヘンでフレーバーカクテルの一つや二つこしらえて店でも出せそうなわたしの勘ですから、それ相応の不正確さではありますが、わたしの眼前にあるその棚からは、恐怖ではない感情が込み上げてくる気がしました。
わたしは開けてみようかと思いましたが、お店のものなので、むんむんと湧き上がる好奇心をドウドウとなだめて堪えました。
世の中には開けてみたくても、触れてはいけない扉があるものです。わたしはそそくさと、トイレを後にします。お店を出て、さんさんと注ぐ午前の太陽の光をぺかーんと浴びました。
一筋涙が溢れたのは、なんのせいでしょう、わたしはそうして晴れやかな尊い気持ちになりました。ひどく穏やかで、だれかの幸せを祈るようなあたたかい心持ちで、あくびを一つ。
本日も乙女なりにささやかに、しゃきしゃき働くとしましょう!
お店のトイレがこわいという話(またはちょっとしたデイ・トリップと環境譚) ぱくぱくかつおちゃん @pakupaku-katsuocyan
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