夜明け前

 酷い焦燥に駆り立てられて、閃は目を覚ました。無意識に空間に爪を立てようとした左手が、不自然に硬直する。

「――ッ! ……っ、? ……っ……!」

 コロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロサ


 殺、さ、な、けれ、ば


 衝動が膨れ上がって、頭蓋骨を圧迫する。すぐ傍に人の気配がある。格好の獲物がいる。衝動に遵おうとする体が、けれど不自然に硬直して動かない。膨れ上がり続ける衝動に、息が詰まる。何で動けないんだ。苛立ちに頭が痛み出す。視界が明滅する。喉を石に塞がれたみたいに息ができなくて酸素のない苦しみに溺れていく。

 殺したい。殺したい。殺すのはタノシクて、キモチガイイ、から。殺せば、きっと、こんな焦燥もなくなる筈だ。殺しさえすれば。なのに何で動けない。何が妨げるんだ。


 そこで漸く、思考が醒めた。


「……ッ、ハ……のやろ……っ」

 広めの天幕。その下で、自分の他に寝ているのは巴だけだ。厚手の毛布にくるまって、すやすやと安らかな寝息を立てている。

 彼の眠りが深いのは知っている。だからつい先日は逃げることができたのだ。治安が良い町で、宿の女将は子供好きで、置いて行っても危ないことにはならないだろうと確信が持てる町だったから、巴が爆睡している隙をついて逃げ出した。

 その結果がこれだろうか。寝ずに見張るというのが難しいから、寝ている間にまた逃げられないように。流石にこんな野宿の途中で子供を放り出していくのは目覚めが悪いからしないのに。しかし、まあ、気付かないうちに行動阻害の魔術をかけられていたのはムカつくが——巴の方が先に寝たから、閃がまだ起きているときの犯行だ——今回ばかりはありがたい。閃としても、親のコネだかなんだかはわからないが、曲がりなりにも国際警察の師団長などというお偉い役職についている子供を殺すことは避けたい。


 目を閉じる。殺したい殺したいと衝動が喚いている。それに遵ってやりたいのはやまやまだが、仕方なく今は宥める。そうでなければいつまでも苦しいばかりだ。意識して深く息を吸い、ゆっくりと吐く。そうして荒くささくれ立った呼吸を落ち着かせていく。

 それから自分の存在の定義を精査しにかかる。まずは行動阻害の魔術の上に重ねられた『固定』の魔術。


「……か¢ぜに飛は∫゛∞された揺り≠かごが 木にひ(っかか⊃った

ママが悲め⇔いをあげδるのg√mに 揺Ⅹりかヰごの坊やは夢Йの中」


 声を潜めて、うたう。定義に余計な記号や文字を書き加えて、言葉の意味を通らなくさせる――定義を破綻させる。

 『固定』を解いたら、次は行動阻害の方だ。書き加えられた定義を探す。巴の魔力を辿って、その部分を消し、場合によっては書き直していく。適当に記号や文字を加えればいい『破綻』とは違って、書き直しは精密にしなければならない。面倒臭く時間がかかるから、閃はこの――魔術としては初級も初級の術が苦手だ。特に他人がかけた魔術を書き直していくのは面倒臭い。自分でかけたのであれば何処をどう書き加えたのか覚えているから、元に戻すのも楽なのに。

 その面倒臭い作業を完了させる頃には、殺人衝動も大分落ち着いていた。のろのろと上体を起こす。巴はやはり健やかな寝顔を晒していた。拘束をかけていたとはいえ、殺人鬼の隣でよくもまあ呑気に寝られるものだ。何かを食べる夢でも見ているのか、むにゃむにゃと口元を動かしている。

「……寝てりゃあただのガキなのにな」

 ぼそりと呟いた。起きていると腹が立つことばかりだが、子供のあどけない寝顔には、少し毒気が抜かれる。


 起きる気配のない巴から視線を外し、閃は起き上がった。天幕から出る。

 冷たい澄んだ空気に、肺から冷やされる。まだ夜明け前だ。気温はかなり低い。分厚い防寒着を着ても、外気に触れる肌から体温が奪われていく。

 覆いフードを目深に被って、ふらふらと歩き出した。

 東の地平線に近づくにつれ濃紺は絵具を水に溶かしたように白ばみ、地平線はぶどう色に染まっている。だがそこに背を向けると真っ暗だ。深く、深く、溺れるほどの闇。今にも足元の地面が抜けて落ちそうだと、想像して、ゾッとする。なのに足はそちらに向かった。

「夜明け前が一番暗いんだったか」

 いつか何かの本で読んだ語句フレーズが口をついた。ただの比喩だったか、本当に現象としてもそうだったかは忘れた。


(この夜もいつか明けるんだろうか)


 光に背を向けたまま浮かんだ言葉に、滑稽だなと自嘲した。


 幾何か歩いた頃に、人の気配を感じて足を止めた。じっと待つ。乱暴で品のない足音が、複数。十、いや十一か。

 待ち続けると、現れたのは如何にも野蛮そうな男たちだった。物盗り、或いは人攫いか。どちらにしても上等な相手ではなさそうだ。彼らは閃を見つけると、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべた。

「よぉ兄ちゃん、こんなとこで何してんだぁ?」

「男なのか? 厚着だと凹凸わかんなくて見分けつきづれえよな」

「顔見せろよ。綺麗な顔してたら可愛がってやるからよぉ」

「うわ、お前男でもいいのかよ。どんだけ性欲溜まってんだよひくわー」

「うるせえ! てめえがこの間俺の唾つけてたオンナ盗りやがったんだろうが!」

「ああ、あのオンナはヨかったぜ? お前には勿体ない上物だった」

「んだとてめえ!」

 ぎゃあぎゃあと下品な話題で盛り上がる男たち。どうやら人攫いの方らしい。顔を気にするということは、臓器ではなく人そのものを売買している連中か。

 男の一人が、身動ぎもせずに立つ閃へと近づいてくる。

「なんだよびびっちまったのか? いいから顔見せろよ」

 覆いフードへと手が伸びる。それを眺めながら――閃は、嗤った。


 ぱりん、と。硝子が割れるような。


 一陣の風が吹き抜け、男の胸から上が吹き飛んだ。


「……は?」

「……なんだ?」


 言い合いをしていた男たちは、ぽかんと口を開けて、胸から上を無くした体が膝から崩れ落ち、倒れるのを見ていた。血が土に染み込んでいく。


 閃は剣を軽く払い、喉をひけらかして嗤った。

 ああ、やっと、殺せた。

 やっと、やっと、やっと、殺せた、殺せる、殺せ、殺そう、全部全部、思う存分に。

 殺人衝動は落ち着きはしたけれど、完全に沈黙していたわけではない。そして今の一撃の感触で、また騒ぎ始めた。今度はそれを妨げるものは何もない。堪えなければならない理由はない。

 細胞が歓喜する。感覚が研ぎ澄まされていく。

 目の前の命が鮮やかに光っていて、それを刈り取れることにこれ以上ないほど歓喜した。ああ、はやく、はやくと。飢えた獣のような唸り声が喉の奥から漏れる。

 人を殺すのは、タノシクて、キモチガイイ。


「ああ、だから——死んでくれ」


 そうすれば麻薬のような享楽に浸れるのだと、もう骨の髄まで沁み込んでいる。

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