鐘音響く街 その一
「は……? なんだ……?」
ガアンガアンガアン。
天まで届けと伸びる
「……ああ、昼か」
理解して、溜め息を吐いた。脳みそに手を突っ込まれて直接かき回されたかのようで、気分は最悪だ。苛々と舌を打つ。
この街に辿り着いたのは明け方だった。大鐘があるのは事前に知っていたが、まさかこんなにもうるさいとは思わなかった。どうりで人がいないわけだ。街自体は大きく栄えているのに、街の中心に当たるこの辺りには築数百年はしそうな古い家しかないから妙だとは思ったのだ。井戸もあるし人気がなくて気が楽だと思って寝床にしたが、こんなことなら金を渋らずにちゃんと宿を借りるんだったか。
耳に指を突っ込んでぐりぐりと弄る。鼓膜は無事だ。脳裏にへばりつく鐘の音を、頭を振って振り払う。ぱさりと髪が揺れた。僅かに痺れの残る指先を、強く拳を握ることで治める。
「……とりあえず飯だな」
くう、と腹が切なげな声を上げていた。もう半日は食べていない。夜の内に身は清めたし、市井に降りて問題はない。
手早く身支度を整えると、梁にひっかけておいた上着を下ろし、しわを手で伸ばす。少し湿り気が残っていて冷たいが、着ているうちに乾ききるだろう。袖に手を通し、
大陸の東側三分の一――属国まで含めるならおよそ半分を占める大国、アルタニア帝国。その北東部、凍土地帯の下にある大都市ベリジャニア。それがこの街だ。
「冬季に来るもんじゃないな」
防寒はしてきたつもりだったが、露出している部分が冷える。上着の
ガラの悪い連中と浮浪者くらいしかいなかった中心部と違い、大通りは活気に溢れていた。昼食時であるのも理由の一つだろう。家族連れやら休憩中の労働者やらが、やいやいと喋りながら道を行き交う。食事処も必死に声を張り上げて客を呼び込む。喧騒は鬱陶しくても、彼方此方から漂ってくるおいしそうな香りに腹の虫は大暴れだ。口の中に溢れた唾液を飲み込んで、目ぼしい露店を探す。できるだけ安く、それなりにうまいもの。懐にはまだ余裕があるが、節制するに越したことはない。
「おーぅい、そこのにーちゃん。寄らねーかい?」
彼がその声に釣られたのは、余り呼び込みに真摯でなかったからだ。にっかりと白い歯を光らせる露店の親父は、煙の向こうで額に汗を垂らしていた。大通りから脇に伸びる路地にある小さな露店だった。呼び込みもまともにしていないから余計に客足は少ない。それを気にも留めていないような陽気な笑顔に、足が向いた。
じゅうじゅうと肉の焼ける音。油が爆ぜ、焦げたタレの香りが漂う。手作りだろう、板に彫られた少し不格好な
「ま、でも、とりあえずはこれかな」
指さされた品とその価格を見やる。じゃあそれで。まいど。硬貨を渡して、代わりに焼きたてほやほやの串焼きを受け取る。簡素にブラックペッパーだけが振りかけられた一品だ。息を吹きかけて冷ましてから、口に入れる。ぷるりとした鳥肉は歯に少し力を入れるだけで千切れる程に柔らかい。甘露のように甘く濃厚な脂が強い香辛料の風味を和らげ、舌を犯していく。思わず目を瞠る。うま。零れた感嘆に、店主はしたり顔で笑う。
フォルセチキンという、北部の雪山でしか捕れない野生の鳥の肉だという。標高が非常に高く、年がら年中雪の積もっているような環境で生きていく為に、フォルセチキンはその身にたっぷりと栄養を溜めている。彼らの肉を好む肉食獣も多い。足もそう速いわけではないし、一度に数十もの卵を産む為、この辺りでは割と一般的な食品らしい。とはいえ此処から離れた都市などでは、特に貴族相手になかなかに高く売れるので、フォルセチキンを扱う店は大概そっちで銭を稼いでいる。この店主もその口だ。どうりで呼び込みも熱心でないわけだ。
此方の反応を見ながら、店主は
「これは激辛ニンジンのカケラを包んで焼いたやつ。舌が灼けるほどに辛いけどな、フォルセチキンの脂で大分緩和されんだ。それでも汗が噴き出る程度には辛いから気ぃつけな。フォルセチキンを三日三晩蜂蜜に漬け込んで焼いたやつなんかもオススメだな。麦酒に合う。これは自家製のタレを塗ったやつ。タレにはフォルセチキンから絞った濃っ厚な脂を入れてんのさ」
人の腕ほどの太さのごんぶとネギを挟んだネギマ。ポプリノスという、これもまた雪山に住む草食獣のタン塩。雪山の奥地に棲むヒヤリキンメの白身はあっさりしていて女性に人気だ。
聞いているだけでよだれが出そうだ。まず一本買わせて食わせ、味の感動が薄れないうちに畳みかけるように他の商品も紹介。これはずるい。全部手頃な価格なのもまたずるい。財布の紐も緩むというものだ。
「……蜂蜜漬けとネギマとタン、一本ずつ」
「まいど!」
にかりと輝く白い歯に若干の悔しさを覚えて、串焼きの残りを口に突っ込む。くそっ、うまい。完全敗北だ。
「そういや、なんで俺に声かけたんだ?」
ふと、気になったことを口にした。にーちゃん旅人だろ、と言われ、頷く。
「だからだよ、旅人さんだろうと思ったから、声かけたのさ」
店主はもう他に客を呼ぶ気はないようで、注文した品を皿に移した後はどっかりと椅子に腰を下ろした。熱いからと捲られた袖からは、太く逞しい腕が覗いている。
「言ったろ? この辺りじゃフォルセチキンもポプリノスも普通に食われてんだよ。街の連中釣るよりは、旅人釣った方が反応はいいんだ」
びっくりして、うまいうまいって言いながら食ってくれんのが、うれしくてなぁ。店主は本当に嬉しそうに頬を緩ませる。
「にーちゃん。もうこの街は見て回ったのかい?」
「いいや、まだ。昨日の閉門ギリギリに来たばっかでな。なんかねーの? 観光名所みたいなの」
「そうさなぁ」
豪快な見た目に似合わぬ穏やかな眼差しが、ふいと空を仰ぐ。それを追って振り返れば、其処にはどんな建物も届かない摩天楼。
「やっぱ、この街っつったら名物は鐘かなぁ……」
「…………ああ。あのくっそうるせぇ鐘」
正直にボヤくと、ぶふぅと店主が噴き出した。
ゲラゲラと大口を開けて笑い出した店主を前に、閃は反応に困ってネギマを咀嚼する。
あんたうるさいよ! 店の奥から女性の雷が飛んできて、慌てて店主は口を噤む。カミさんかい? ああ、ああ、おっかねえのさ。鬼嫁って奴か。でも料理の腕は確かなんだぜ? ノロケかよ、おアツイこって。
けらけらと笑い続けていた店主は浮かんだ涙を汗ごと拭う。
「にーちゃんは正直だねえ」
「噂にゃ聞いちゃいたんだけどな。鐘音響く街、ベリジャニアって。でもまあ……ここまでうるさいとは思わなかった」
高く、高く、天まで届けと建てられた灰青色の石造りの塔。煌々と輝く太陽の光を反射して、塔はぬらりと黝く染まっている。街の丁度中心に造られたそれは、街の外からでも見ることができた。摩天楼の最上部に、街の代名詞と言える大鐘は存在する。
『鐘は正午に十二回鳴る』、『何百年も、途絶えることなく毎日鳴らされている』、『ベリジャニアの住民は時間の感覚が正確で、遅刻や遅延は有り得ない』、『雪山に近く、朝夜は冷え込む』、『街の治安はいいが、鐘のある中央区画は放棄された住宅街で、無法者が
鐘の情報はうんざりするほど聞かされていたけれど、あんな耳を劈く程にうるさいなんて噂は一つもなかった。知らなかったのか、忘れていたのか、当たり前すぎたから言わなかったのか、どれだったのだろう。
鐘音響く街。比喩でなく、このそれなりに大きな街の何処にいたって鐘の音を聴ける。つまりそれだけ大音量で鳴らされるということだ。思い至らなかった自分に呆れればいいのか、いやでも普通は比喩だと思う。
けらけらと笑っていた店主も、鐘を見上げて、ふうと遠い目をした。
「あの鐘なぁ。まあうるせーよなぁ。あれの所為で、家捨てなきゃならん奴らもでたらしいからな」
三百年は昔、御国から寄贈された鐘らしい。寄贈品を粗末に扱うわけにもいかないがあまりのうるさく、街の中央に住んでいた者は家を捨てて街の端の方へと逃げ出した。だからドーナツ状のへんてこな街並みに成長したわけだ。
「鳴らさなきゃいいんじゃねーの」
鳴らすにしても、音量に気を付けりゃあいいのに。至極当然に思いついたことを口にすれば、店主は困り顔で笑った。
「そうできりゃあ良かったんだがね。そもそもアレ、誰1人として鳴らしたことはないんだよ」
「あ?」
「御国の『魔術師』さんの、『魔術』らしくてなぁ」
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