【落語台本】鰊御殿(にしんごてん)
紀瀬川 沙
第1話
▼津軽 外ヶ浜 鰊御殿(白土家)
【この物語は、江戸から見ますと遠く離れた津軽は外ヶ浜、ここへある一人の男がやってくるところから始まります。季節は春爛漫の頃と言っても東北ではようやく雪が降らなくなった程度のまだまだ寒い頃合。ただ、海峡の波も厳冬期よりかは少し穏やかになってきたという心持ち。そんななか、北国の土地にそびえる鰊御殿の戸をおもむろに叩いたこの男。もとは江戸の大店の奉公人をしていたのですが、度重なる不祥事、つまりは色事まわりのアクシデントですな、それが原因で主の方からはとうとう愛想をつかされ、主の遠いつてを頼ってここ津軽まで奉公に出されてやってきた次第。時刻は今まさに、鰊の漁に出た船の帰りやら陸の網の引き上げやらが重なり、海岸線は天地をひっくり返したように賑わっている真っ只中】
青五郎 「まったく、江戸では桜が咲いてる頃合いだってのに、やっぱり北国はまだまだ冷える」
老爺 「なぁに、心配するこたぁない。すぐに熱くなって着物脱ぎたくなろぉさ」
青五郎 「あ?おたくは?」
老爺 「いや、なに、このあたりに住まいする者だに」
青五郎 「住まい?津軽の謡か?俺は縁もゆかりも皆無だから、よくわからねえや」
老爺 「おお、沖合いから網起こしの大音声(ダイオンジョウ)が聞こえる」
青五郎 「え、これ、人の声かい?海鳥どもの鳴き声かと思った」
沖合い 「〽 ヨイーサー、エンヤサー、ヤーサー」
青五郎 「声の主は見えないな。あぁあぁ、かき曇ってんな」
老爺 「へへ、曇ってるからこそ、鰊の照る光が見えるだに」
青五郎 「へえ、そうかね。まったく、さっきからカモメもウトウも人も、無尽蔵にいやがってうるさってぇ。あぁ、まったく、ここに来るまでで鳥の糞何個浴びちまったか」
出稼ぎ漁師 「どいた、どいた、どいた、こんな忙しい時に、邪魔だ」
青五郎 「あぶね、おう、なんだ?」
出稼ぎ漁師 「おうい、番頭さんよー。船がきたー、網が揚がるぞー」
番頭 「はいはい、はいよー。モッコ衆がすぐ来るから。岸のほうはいつもの通りに頼んだよ」
青五郎 「江戸の店とは違う形で大繁盛だな。いよいよ、北国名物、鰊の大漁大漁ってか。それにしてもこの賑やかさ。お祭りだな」
老爺 「なに、松前、江差からここまで、ずっと毎日こんなだに」
出稼ぎ漁師 「どいた、どいた、ぼけっと突っ立ってたって怒鳴られるだけだよ」
青五郎 「ひときわ騒がしい野郎め。なんでえ、ど田舎っぺが」
出稼ぎ漁師 「誰だ、お前さん?ま、ちょうどいい、うちの船頭が陸の引き手なら猫でもおなごでも、一人でも多く寄越せと言ってる」
青五郎 「俺ぁ今来たばっかだぞ」
番頭 「言われてみれば、そうだね、お前の言う通りだ」
青五郎 「だろ」
番頭 「引き手にちょうどいいね
青五郎 「おいおい」
番頭 「大丈夫さ。見たところ、腕と足が二本ずつある」
青五郎 「なんだい、そりゃあ」
出稼ぎ漁師 「善は急げだ。ついてきな。金にはなるぞ、いいだろ?」
青五郎 「うるせえやい。だが金は要る。まぁ、こうまで言われて木偶の坊のように突っ立ってるのも、江戸っ子の名折れだ」
番頭 「そうか、あんた、今日来る予定の方だったんだね。何でも網元と江戸との遠い縁とか。でもまぁ、うちの家業も実際にやってみたほうが覚えは早い。話はそのあとだ」
青五郎 「ふん、合点。何をすりゃあいい?網がどうだらって」
出稼ぎ漁師 「簡単、簡単。ソーラン節にあわせて、力いっぱい手元の網を陸へ引け。そうすりゃ来年まで遊んで暮らせら」
青五郎 「そーらんぶし?」
番頭 「行ってみて聞いてみりゃ分かるよ」
出稼ぎ漁師 「細かいことは岸まで歩くなかでだ」
青五郎 「乱暴なこった」
出稼ぎ漁師 「乱暴なのがヤン衆の習わしだ」
【あれよあれよという間に青五郎は鰊漁の仲間入り。まぁ、もともと紹介された仕事もこの鰊御殿での仕事でしたから、一見は百聞にしかずとかでさっそく実践。でくわした漁師に案内されながら、青五郎には何に使うかまったくわからない漁具を横目に人と鳥とで賑わう海岸へと向かいます。浜辺に立ち並ぶ黒板の番屋に海鳥の白い糞といった光景。鼻には生きた鰊の臭いと死んだ鯖の臭いが混じりあって届きます。かたわらでは老若男女が囃したてる唄声が響きます】
ヤン衆 「〽 ヤーレンソーランソーラン」
子供 「〽 ソーランソーラン」
老婆 「〽 ソーランソーラン」
ヤン衆 「〽 鰊来たかと鴎にきけば わたしゃたつ鳥 波に聞け チョイ」
ヤン衆 「〽 ドッコイショ ハードッコイショ」
女 「〽 ドッコイショドッコイショ」
子供 「〽 ソーランソーラン」
【膝まで海に浸かりながら網を引っ張る男と女。中にはひそかに通じる目と目もあったりなかったり。人々の合わさった掛け声が北国の海に響きます】
青五郎 「この節にあわせりゃ百人力だ」
出稼ぎ漁師 「そうだろう。もとは松前のほうの唄だ」
青五郎 「〽 ドッコイショドッコイショ ソーランソーラン」
【こんな様子で一日の時間が経ってゆきました。朝から晩まで掻き曇りの天気でも、ひとたび鰊が陸に揚がれば一面の銀世界。青五郎の言ったようにお祭りか縁日か、神田祭か浅草寺の四万六千日か、いやそれらをも凌駕する喧騒のさま。そんなこんなでようやく一日の作業の終わりを迎えます】
【いつか老人が言ったように、今では青五郎も体が熱くて熱くて、着物は脱いでしまってふんどし一丁になっております。網を一緒に引いていた周囲のヤン衆ともすっかり仲良くなってしまって、何なら今夜の酒の席にも呼ばれてる次第で】
青五郎 「いや、疲れた疲れた」
出稼ぎ漁師「なんの、なんの。明日もだて」
青五郎 「はは、のぞむところ。もらったこの笛、ピィーと吹きゃ、いつだって」
出稼ぎ漁師「その意気、その意気」
青五郎 「これも見たこともねぇ鳴り物だ」
番頭 「お疲れだったね。初日からよく働いてくれたよ。そりゃあ、海の向こう、蝦夷の笛だ」
青五郎 「蝦夷の?どうりで」
出稼ぎ漁師「松前には我らと同じ者が多いが、なかには蝦夷の者もおる。ここ津軽にはそうそういないがな」
青五郎 「へぇ。いかめしい錦絵でしか見たことねぇや。鮮やかな羽織みてぇな着物着て毛むくじゃらで、たいそう大きな槍みてぇな矛みてぇなもん持って」
番頭 「あぁ、着物や刺青は我らとだいぶ違うがね。絵みたいなあんな危なっかしいものじゃないよ。普段からいい商売させてもらってる」
出稼ぎ漁師「着物も鳴り物も他にも、物珍しさが都で高く売れんだと。蝦夷の物もそうだけんど、それよりもっと東の民の物なんて手に入った日にゃ」
青五郎 「へぇ、そうかい。蝦夷より東ねぇ」
番頭 「もっと東の島々には顔かたちもまるっきり違うのがいるって噂だ。見たことないけどね」
青五郎 「へぇ、広いねぇ。そういや、なんか化け物の頭の骨もここで見たな。江戸とは何もかも景色が違うわ」
出稼ぎ漁師「ああ、そりゃヒグマって熊の骨だろ。向こうの神様らしい」
青五郎 「あんなもんが生きているとなるとオチオチ寝てらんねぇじゃねぇか」
番頭 「安心しな。こちら側の岸にはいないよ」
出稼ぎ漁師「寝ると言えば、まだまだ、このあと夜の郭もあるだろよ?」
青五郎 「おう、そうだった。ここからが大事」
番頭 「お前さん、今日一日働いてくれたのはいいが、我らが主への挨拶はどうする気だい?」
青五郎 「明日でいいだろ?網引きもいいが、明日こそ、周旋された仕事をしたいからね」
番頭 「なんだい、そりゃ?」
青五郎 「ん?何って、ここまで言われて来たのは、景気のいい鰊の商家でそろばん弾いて、台帳書く仕事って」
番頭 「おいおい、そんなわけないじゃないか。ここにはもう私がいますもの」
青五郎 「え、それじゃ話がちが」
出稼ぎ漁師「おうい、そろそろ行くぞ。みんな待ってる」
青五郎 「おう。おい、番頭、なんか話が怪しいようだが」
番頭 「そうだね、どういうことか」
青五郎 「はっきりしようぜ」
出稼ぎ漁師「おうい、行くぞったら」
青五郎 「お、おうよ。番頭、明日も俺はここに来るから、その時に膝突き合わせて話をしようぜ」
番頭 「そうだねぇ」
【おやおや、懸命に鰊漁で働いて、夜の楽しみに繰り出すのもよいものの、肝心かなめの周旋された仕事の中身が店と青五郎とで違うようで。一体どうなることやら。次のお話にて】
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