拾漆

 すると、少しは安心してもらえたのか、美衣子のずっと開いたままだった両目は閉じられた。

 そのまま顔を覆い、痙攣するように泣いている。

 それを確認して、俺はゆっくりと立ち上がった。


『暁ぃ、ホンマに行くんかぁ?』


 イナリの情けない声が再度俺をひき止める。

 だが、行かなくちゃいけない。

 俺が行かなきゃ……行かなきゃ……

 イナリを無視して、再びドアノブに手をかける。

 キィ、と音をたてて、一度完全に閉まってしまった扉がゆっくりと口を開いた。

 玄関から伸びる廊下は明かりがついておらず、奥の部屋の煌々とついた電灯だけが僅かに此方まで届いている。

 廊下は何処と無く靄がかっているように見える。

 煙ではない、靄だ。

 靄が廊下全体に引き延ばされたように漂っている。

 それが幻でないことの証拠に、室内は冷凍庫の中のように寒かった。

 何かに操られているかのように踏み出した。

 玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下へと上がった時点でザワリと肌が粟立った。

 やけに気温が低い。

 でも、全身をはしる悪寒は、寒さのせいだけではない。

空気の濃さがおかしいのだ。

 部屋に入る迄は違和感としてしか感じなかった閉鎖的で澱んだ空気が何倍にも濃くなって充満していた。


バタンッ!!


 背後でやたらと大きな音をたてて扉が閉まる。

 思わず振り返った扉は、もう二度と開かないのではないかと錯覚するくらい静かに枠に収まっている。

 閉まった衝撃の余韻すら感じさせない。


『暁……?平気か?』


 後ろにしっかりと付いて来ているイナリが、強張った表情で扉を振り返った俺に声をかけてくる。

 しかしその声も力なく弱々しい。

 けれど、一人でいるよりは、こいつがいるだけ何倍も心強い。

 心配げに見上げるイナリに、俺は力なく笑みを返して、再度前へと向き直った。

 頭の中で危険を報せる警報が五月蝿い程鳴っている。

 だが足は前へと進んでいく。

 もう俺の意志云々で進んでいないのは明らかだった。

 戻りたいと思わないわけではなかった。

 いや、頭の中では嫌と言うほど逃げ出したいと思っている。

 なのにまるで前にしか道がないような気がして戻れない。

 だから、やたらと鈍い動きで、けれど着実に一歩、一歩と進んでしまう。

 なんだか呼吸が苦しく、空気を上手く吸い込むことが出来ない。

 全身を鷲掴みにされているような圧迫感に押し潰されそうで、涙が出そうだった。

 そんな肌で感じる一つ一つの異常にどんどんと恐怖を煽られ、追い詰められる。

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