神宮寺由美は二度死ぬ

宮内優美清春香菜

第1話

 夏の日の今日、軽くご飯を済ませて自宅から二駅の神社へ向かった。

 どうしてかはわからなかった。でも、気がついたらそうしていた。一人暮らしを始めてから、私はこういうことが多かった。思い立ったらそうすることが多かった。でも、今みたいに出かけることは珍しかった。私は出かけるのが好きじゃなかった。そんな私が神社に行きたくなったのは、前の晩に故郷のことを考えていたからだと思う。


 お日様を頭上に、白いガードレールとその向こうに広がる田園風景を目にしながらアスファルトの道を歩く。アスファルトの焦げ付いたような匂いがする。


 上京するまで、ただただなんでも見上げていたあの頃までは、『東京』というと都会のイメージしかなかったけれど、探せば意外に馴染みの光景があると知ったのはここ数年のことだった。静かで河川敷があったりして、そういうものを見ると、私はなんといってもリラックスする。


 力いっぱいに息を吸って、空気を胸いっぱいに満たしてみた。売り場に立っている時の淀んだそれとはまるで違い、ただの気体のくせにすごく美味しかった。


 そんなこんなで神社に着いて、こんなこと、八月の炎天下にやるもんじゃなかったな――と今さら後悔したりする。シャツとジーンズと神社への道のりは戦いで、私はちょっとふらふらしてしまった。


 木々の茂る神社では、ミンミンゼミの鳴き声が騒々しい。


 私はいったん立ち止まって辺りを見回す。樹液の匂いがする。小学生の頃、教室に置いてあった虫カゴの匂いだ。そんな夏そのままの匂いに、あの暑い教室とか、給食の牛乳とか、長らく考えもしなかったことを思い出す。


 やだな! 私はまだ二十四、老けた思考をやめにしよう!

 それでようやく、鳥居に繋がる石の階段の脇に、黄色がまぶしいホンダのカブが停まっていることに気がついた。


 先客がいることをわずらわしく思う。だけどだからといって、去るのを待つというのも馬鹿らしいと思い、堂々と石段をのぼっていく。


 石段を登り切ると、屋根のように生い茂る青々とした樹木が石畳に作るまだらな影の下、鳥居の形をくっきりと浮かび上がらせる日光を受け、女性の――女の子の輪郭りんかくがくっきりと浮かび上がっているのが目に入った。


 私はそれを目にして、なんだかひどく非現実的だと思った。私はその立ち方を見て、なんだかひどく幻想的だと思った。夏の風が葉を揺らす音、セミの声。それしか耳に届かないこの場所がいっせいに音を失う。この気持ちは何だろう。言葉にするのがもったいないくらいの不思議な感覚。


 慣性のままに脚を動かし近づくにつれて、逆光による圧倒的な黒はゆっくり薄くなっていく。三メートルほどの距離まで近づいたとき、私はようやくそのコの具体的な容姿を捉えた。


 そこにいたのは、いかにも年下っぽい、まだ幼さを残した女の子。私が一目で惹かれたのは彼女の柔和な顔つき、それと触ってみたくなるような、柔らかそうなだった。キラキラと輝いている瞳は、楽しくて仕方がない毎日を映しているようだ。透き通るように白い肌が羨ましい。


 正直な話、私は初めて会ったこの可愛い女の子に、もうどうしようもないほど惚れ込んでいた。彼女に見惚れていて、気がつけば脚が止まっていた。


 世界が止まる。


 私と彼女しかいない世界で、至近距離で立ち止まっている様子は、どこからどう考えてもおかしい。


 セミが鳴いて、はっとして間を埋めるように「こんにちは」と言うと、彼女は私のほうへ顔を傾けて、私にまっすぐ顔を見せて、ニッコリ笑って「こんにちは」と言った。


 心臓がとくんと波打つのを感じた。


 彼女は私に笑顔を見せると、私の横をすり抜けて、私の進路と反対方向、石段のほうへと歩いて行く。私の目は彼女の後姿を追いかけて、徐々に小さくなっていく様子をこれでもかというくらいじっくりと捉える。


 私は『目が釘付けになる』って言葉、こういうことを指すんだなと思った。人間、ほんとに惹かれるものを目にしたならば、それに支配されてしまって、ずーっとひたすら見続けることになる。こういうことだったんだ……。


 そんなふうに甘美に放心していると、しかし彼女は不意に立ち止まり、私のほうへ振り返った。


 いけない!――さっと、ここ数年見せたことのなかった速さで首を動かし、目をそらす。私の視線に気がついただろうか?


 動揺した私は――私は別にあなたを見ていたわけじゃない――と、おどおどしながら木とか灯篭とか賽銭箱とか、そういったものに目を向ける。別にあなたを見ていたわけじゃない……いや、目を釘付けにされていたわけだが……いやいや、見てないです――という感じになる。


 ええいっ! さっきまでとは違う種類の汗が流れて来て、私はそれを振り切るように拝殿に身体を向けて、逃げるようにそっちへ歩いた。おそらく彼女は私の後ろ姿を見ているのだろうが、視界に入らないものはないものと考えよう。今、ここには私しかいないんだ。お辞儀をして、百円玉を取り出して、賽銭箱に入れる。それから鈴を鳴らして二度拍手した。

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