第七話

「ふはぁっ!!」


 ブラックアウトから意識を取り戻した俺は、勢いよく伏せていた顔を上げた。


「…………」


 ざわざわ、とかすかにこちらを訝しむ声と、視線を感じる。どうやら周囲には何人か、人がいるらしい。


 ぼんやりしていた視界がようやくハッキリしてきた。ここはどこだ? 少なくとも俺の部屋ではなさそうだぞ。


 回復した視界にまず入ったのは、誰かの黒い背中だった。次いで黒板。さらにこちらに向けられた無数の学ランとセーラー服姿の背中達。


「秋色……お前寝ていたな?」


 終いには、怒りに顔を引きつらせているブラウス姿の黒髪ロングの女性。


 ……コレは、紛うことなき、授業中の教室ではないか。


 ……夢か?


 そうだよ。俺はさっきまで自室にいて、二十五年間守り続けてきた童貞を捧げるとこだったんだ。ソレが何で学校の教室で授業受けてるワケ? ホワイ?


「コラ、聞いてんのか秋色」


 黒髪ロングのツリ目美人が、俺の前までつかつか歩いてきて、教科書で頭をはたいた。


 ……ん? この美人には見覚えがあるぞ。確か……


「……ジュンコ先生?」


 そうだ。彼女は俺の中学二、三年の時の担任の英語教師、ジュンコ先生ではないか。


「……ようやく目が覚めてきたみたいだな?」


 なおも彼女は教科書を、俺の頭の上でポンポンとバウンドさせる。


「……いや、まだ夢を見ているみたい……です」


 何なんだコリャ。


 一体どうなってんの?


 あの女は? そして俺の童貞は?


「何言ってんだコラ。さっさと帰って来い」


「いて。アレ? 夢なのに何故痛い? 何だコリャ? いつだ今は? どこだここは?」


「アホか。ここは二年四組の教室で、今は英語の授業中だ」


 二年四組ぃ? 英語の授業中ぅ? 保健体育の実技じゃなくて?


「じゃあお前が見ていた夢を英訳してみろ。ソレが出来たらお咎めなしにしてやる」


 イジワルな笑みを浮かべながら、ジュンコ先生は教卓へと戻っていく。


 英訳って……


「え、えー……」


「ほら、五秒以内に話さないとチョーク投げるぞ」


 チョーク投げって……実際にやる人はあんまいねーぞ。


 ……従う外ない、か。


「あー……I think so time has come! あー……It’s a my lost virgin time she was hold me tight and kiss……(時は来た! 俺はそう思った。俺の童貞を捧げる時だ! 彼女は俺をキツく抱きしめ、そしてキスを……)」


「何を言っとるんだ貴様はぁぁあっ!」


「ぐわっ!」


 俺の額のど真ん中にチョークが炸裂した。


「しばらく立ってろこの色ガキ!」


「あい……」


 ワケが分からないながらも、俺は言われた通りに席を立つ。しかし痛い。夢にしては痛すぎる。


 周りには学ランにセーラー服だらけ……って! 俺も学ラン着てるじゃないか!


 ソレに伊達メガネもしてないな。しかも周りの面子は……名前忘れたのもいるけど、中学二年の時のクラスメイト達ではないか?


 ……うん。どうやらここは、間違いなく俺が中二の時の教室だな。


《どーですかー。調子わ?》


「おわっ!」


 いきなり頭の中に声が響いた。肉声ではなく微妙にエフェクトされたソレは、最初校内放送かと思ったのだが、周りのみんなは特に何かを聞いた様な様子ではない。むしろいきなり奇声を上げた俺の方を見るばかりだ……あ。


「……秋色。廊下に行きたいのか?」


 こめかみにビキビキと血管を浮かべたジュンコ先生が殺気を放ってくる。


「し、失礼しました……」


 命の危険を感じた俺が、何とかそう謝ったところでまた……


《おーい。聞こえますですか? 調子わどーですか?》


 変な声が聞こえた。何じゃコリャ。マジでどうなってんだ?


 周りの連中は相変わらず無反応だ。まるでこの声が聞こえていないかの様に。


 アレ? でもこの声は聞き覚えがあるぞ。ついさっきまで……


《聞こえてたら答えやがれですよ!》


「……あ。執行者の、女……?」


 俺は小さな声でそう返事をした。少なくとも講義中のジュンコ先生の声にかき消される程度の大きさで。


《お。どーやらうまくいったみてーですね。無事に過去に戻れて何よりですよ》


「うまくいった? 過去? どういうこった?」


 またも俺は囁く様に、どこに向けてすればいいのだか分からない質問を投げ掛けた。


《だから、『お試し』させてあげるって言ったぢゃねーですか。あんたがごねるから》


「……はい?」


《本来ならこんな使い方わしねーですが……特別ですよ。きっかけわ作ってやったですよ。後わ自分でテキトーに相手見繕って、初体験でも何でもしやがれですよ》


 ますますワケが分からん。


 お試し? きっかけは作ってやった?


 どういうこった?


「あ……」


 もしかして、もしかして、もしかすると。


「コレが、償いの、『お試しコース』ってヤツなのか?」


《そーですよ。言ったぢゃねーですか》


「お前が言ってた『させてあげる』って……まさかコレのことか……」


《そーですよ》


 何じゃソリャぁぁああ……。お前がサセてくれるんと違うんかぁぁああ……。


 いざとなると腰が引けまくってたくせに、勘違いだったと分かった途端急激にがっかりしてしまう俺だった。


「何だこのやるせなさは……ギャルゲーで気に入った子が攻略対象外だと知った時のような切ない気分だ……」


《は? 何言ってるですか?》


 いや、待て……今はソレより驚くべきことが起こってるんじゃないか?


「俺は……過去に戻って来たのか? ソレも……記憶を持ったまま」


《そーですよ》


「まさか……まさか、誰かが命を殺めるのを防ぐ『償い』ってのは、過去に戻ってやるモンだったのか?」


 俺が直面した事実に戦慄しながら、震える声でそう聞くと、執行者はこう答えた。


《そーですよ。言ってなかったですか?》


「言ってねーし……聞いてねーよ……」


 俺は頭をガリガリ掻き毟りながらそう呟いた。


 ……何てこった。マジだった……! マジであの『執行者』は死後の世界からやって来た、罪人に償いをさせるサポート要員だったんだ……!


 信じる、なんて口で言ったモノの、この目で見るまでは現実の話だとどうしても思えなかった。が、ここに来て確信に至ってしまった。こんな、過去に飛ばされたとあってはもう信じるしかない。マジだ。


 普通に人生を生きていたら、間違いなく、ない。あり得るはずのない事態に、俺は困惑しつつも、心の奥底でとんでもない興奮を覚えていた。


 だって、コレは、あり得るはずがないと思いながらも、俺が、ずっとずっと願っていたことだったから。


 しかし、しかしだ。あいつの話が真実だったとすれば。


 ……俺が自殺しちまうって話も……マジなのか。


 どうして。何故なんだ? いくら先の人生に光明が見えなかったとしても、この若さで自ら人生に幕を降ろすなんて。自分のことなのに信じられない。


 一体二十五歳以降の俺の人生で、何があるっていうんだ?


《おーい。聞いてるですか?》


「あ、ああ……」


《ぢゃあ、お試しコースでの注意事項を説明しますですよ》


「注意事項?」


《まず、コレら過去への回帰点わ、あんたの記憶から決まるモンですよ。今回わ、あんたが『初体験をしたい』と思ったから、『この時ならイケたかもしれない』と無意識下で思ってる時間に来たワケですよ。そして、記憶から回帰点を発生させられるのわ一度きりです。だから、失敗したらもうここにわ帰って来れねーですよ。コンティニューわナシ。ですよ》


「え……ええ?」


《ソレでさらに制約の説明ですよ。嘘が吐けねーですよ》


「嘘が……?」


《正確にゆーと『自分でも思ってないこと』わ口に出しても誰の耳にも聞こえねーですよ》


「んなバカな」


 だって、言葉ってのはただの音であって、ソレに意味があるのは人がその音をそう意味づけたからであって、例え脳が意味を理解出来なくても、耳は音を拾っちゃうモンだぜ?


《ホント疑り深けーですね。じゃあ試しにでけー声で言ってみるですよ》


 んなバカな。こんな状況で大きい声なんか出したらジュンコ先生マジギレだぞ。


 ……だけど、ちょっと試してみたい気もする。百聞は一見にしかず、だ。


「俺は天才だーっ!!」


『…………』


《…………》


「で、あるからして……つまりこの場合はコレを過去形にして……」


 しーん、ってか。


《ホラ、聞こえてねーですよ》


 ……マジか。えぇー……? どんな原理でだよ? あ、じゃあさらに試しに……


「俺! 超イケメンっ!!」


『…………』


《…………》


「しかしこの場合は、現在完了になるから……」


《だから聞こえねーですってば。しつけーですよ》


 ……ははは。やっぱりね。


「……やっぱり天才でも、イケメンでもない俺なんて……死ねばいいんだ……」


「お前が死ぬべきかなんてあたしにゃ分からんが、廊下に立っていたいのは分かったぞ」


 俺が暗澹とした気分で呟くと、一触触発、ブチギレ寸前の表情で顔を引きつらせたジュンコ先生がそう答えた。


「こっちは聞こえるんだ……はい。廊下で泣いてきます……」


 ちょっと死にたい気持ちが分かった俺は自ら教室の出入り口へと向かった。そこで――


「あ……」


 ――見覚えのある顔。忘れることなんて出来ない、憧れていた女生徒と目が合った。


「アスカ……ちゃん」


 胸中に驚きを抱えながらも、何とか俺は廊下側から後ろ手にドアを閉めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る