枯蕗

@celluloid

夕餉

 早いもので、去年の冬に上京してから半年近くが経過した。

 貧乏大学生の上京、というと、雑踏だらけのギラギラした摩天楼の片隅で、ゴミに紛れたネズミのように暮らす姿を思い浮かべるけれど、残念ながら僕の住んでいる町は都心から離れた所にあって、町並みも地方都市の平凡な景観とそんなに変わらない。

 むしろ、町の発展具合でいうと、地方都市に軍配があがるほど。

 

 僕が借りたアパートの周辺は特にひどい。なにせ、周囲360度がくまなく森で覆われているのだから。

 朝には色んな種類の鳥たちがけたたましく鳴きわめき、夕方には大量のカラスがひやかしにやって来る。犬たちは森の奥で野犬の一大社会を築いているし、猫たちはひび割れたアスファルトの真ん中で極彩色の鳥をむしゃむしゃと食べている。先月は狸、先々月は狐が僕の前を横切った。

 こんな調子だから、この森にはきっと鹿や猿なんかも潜んでいるに違いない。

 田舎、というより、もはや野生の風格だ。


 賃料が異様に安い、という一点で決めてしまった僕も悪いのだけれど、曲がりにも都内の町にあって、こんな陸の孤島に飛ばされるなんて、考えもしなかった。

 目下のところ、僕の最優先事項はこの孤島からの脱出である。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 僕の目の前には一匹の猫がいる。

 白地に黒の、見事に牛柄な猫だ。

 黄色く鮮やかな瞳で僕を見つめる猫は、見た目の割にずいぶん老成しているように感じられる。


 この猫は僕の飼い猫ではない。名前も知らない。

 ソファに座って本を読んでいたら、突然、ベランダの窓を開けて入ってきたのだ。

 食べかけの菓子パンを差し出してみても、ズボンのベルトを蛇のようにぐにぐに動かしてみても、猫は全く動じない。僕を監視するように、ひたすら僕のことを見続けている。


 僕は猫を放っておくことにした。

 きっと、人を見るのが好きな猫なのだろう。

 今日も今日とて退屈な一日。

 ソファに座り直して読書を再開した。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 不意に玄関が開いた。


 志木さんに違いない。僕の知る限り、呼び鈴を鳴らさずに扉を開けるような奴は、泥棒を除くと彼しか居ない。

 僕は起こしかけた身体を再びソファに沈めた。

 泥棒とニアリーイコールの男をわざわざ出迎える必要なんて、まったく無い。


「ん。帰っていたか。確か君の冷蔵庫にはツナ缶が入っていたよな。ちょっと借りていくよ」


 ガチャ、と冷蔵庫の扉が開く。

 どうやら、僕は勘違いをしていたようだ。

 志木さんと泥棒を繋ぐ方程式は、ニアリーではなく、イコールだったらしい。


「それ、明日の朝食にするつもりなんですけど」


 言いながら僕は立ち上がり、廊下に躍り出た。


「そのうち代替を見繕って返すさ」

「どうせしなびたキュウリとか持ってくるんでしょ? やめてくださいよ」


 廊下に備えられた冷蔵庫の正面では、薄手の長襦袢を着た、痩せぎすの青年が屈み込んでいた。

 思わず、「お前は戦前の書生か」と突っ込みたくなるが、これは彼の普段着である。

 志木さんはいつも和服を着ている。

 彼は奇人だった。


「やあ」


 志木さんは僕の姿を認めると右手を挙げた。

 もう片方の手はツナ缶で塞がっている。


「いや、『やあ』じゃなくって。それくらい自分で買ってくださいよ」

「コンビニに行くのが面倒だ」

「なら諦めてください」

「ところが聞いてくれよ。俺は夕餉ゆうげにインスタント拉麺ラーメンを作っていたのだがね、作っている途中で、拉麺に見合う具材など、とうに払底していた事に気が付いたのだ。具の無い拉麺なんて塩パスタにさえ劣るだろう。食えたもんじゃない。食えない食物は食わずに捨てるほか無いのだが、それじゃ食われずに捨てられる拉麺があまりに不憫だ。なあ、君もそう思わないか?」

「そんなん知りませんよ……。具無しのラーメンだって、我慢して食べればいいじゃないですか」

「俺には無理だ」


 浮浪者みたいな生活をしているくせに、志木さんは無駄にグルメだったりする。

 それでも、どういうわけか自分で作った料理は必ず食べる。自分の料理にだけ採点が甘いのかというと、そうでもないらしく、「死んでも食いたくないところを死ぬ気になって食べているのだよ」といつか僕に解説してくれた。

 プライドが高いというか、なんというか。


「具材でごまかさなければあの縮れミミズは食えんよ」

「また嫌なたとえ方をしますね……」

「そろそろ腹に何か入れなけりゃ空腹で死んじまう。なあ君。ひょっとすると、明日には人間の干物を拝められるかもしれないぜ」


 彼の事だから、本当に干物になっているかもしれない。

 僕はしばらく逡巡したのち、ツナ缶を諦めた。

 志木さんといえど、流石に人間一人の命のほうがツナ缶よりは重い。


「分かりました。僕の負けです。でも絶対に借りは返してくださいよ」

「いずれ百千倍にでもして返してやるさ。それじゃ、これはありがたく頂戴するよ」


 そして、「では」と一声上げ、志木さんは僕の部屋から出て行った。

 僕はため息を吐きながら玄関に背を向け、部屋に戻ってソファに身体を埋めた。

 あれはもはや泥棒というより強盗だ。

 友好的に近付いて言質を取るぶん、余計にたちが悪い。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 猫は居なくなっていた。

 ベランダの窓が閉まっている。

 出ていく時に猫が閉めたのだろう。

 本当、猫らしくないやつだ。


 空は赤みを帯びている。

 僕もそろそろ夕飯を用意しなくてはいけないのだが、なんとなく動く気になれない。

 読みかけの本を手元に引き寄せてぱらぱらと捲っているうちに、重たい眠気が僕の身体を包み始めた。

 夕暮れの静寂が眠気を助長する。


 夕飯は起きてからでいいかな。

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