第42話 本当に本当のさようなら

※法律や、警察のお仕事に詳しくない人間が頑張って調べて書いているので、間違っていることを書いてしまっている可能性があります。それほど御大層な内容でもないのですが、真に受けないで頂けますと幸いです。




 母親の博子が死んだ。

 とあるビルの下で血を流して倒れているところを通行人に発見され、通報を受けた救急隊員が駆けつけたものの、既に心肺停止の状態で搬送された病院で死亡が確認されたそうだ。身元の確認をする為に所持品と思われるビニール袋を調べてみると、殴り書きがされている紙が数枚と財布、エコー写真が挟まれた母子手帳、そして竹生弁護士の名刺が入っていた。名刺の人物は関係者ではないかということで、竹生弁護士に警察から連絡がいき、竹生からにこ、にこから槐へと伝わっていったのだ。

 霊安室から別室に移動して、中年と若い警察官に簡潔に説明をされた。職業柄、竹生は顔色を変えず冷静に事態を把握していっているが、にこや槐は動揺しながらも何とかついていく。博子の死には自殺、事故死、殺人の可能性がある為、いくらかのことを確認してもらえないかと言われたにこはそれを了承して、博子の所持品を一つ一つ見ていく。薄汚れた財布の中には、合わせて数十円程度の小銭だけが入っていた。絶縁契約の対価として払った百万円はもう使い切ってしまったのかと呆れてしまう。エコー写真が挟まれた母子手帳を見て、妊娠していると主張していたことは真実だったようだと知る。然しお腹の子供については警察からは何も聞かされていない。その子供はどうなってしまっているだろうか。竹生弁護士の名刺を所持していて、契約書を所持していない理由は何なのだろうか。若しかして、博子は契約を反故にするつもりだったのだろうか。

 そして最後に、遺書と思われる数枚の紙に目を通す。


『なつおにお金ぜんぶとられた おなかのあかちゃんもしんだ わたしはしあわせになれなかった おかしい あんなになつおのためにがんばったのに』

『きよしにお金ちょうだいっていったらなぐられた きよしはずるい わたしにこどもおしつけてにげたくせにせきにんとらない にこにはお金をはらうくせにわたしにはくれない お金くれないきよしはおかしい』

『にこもどこにいるかわかんない べんごしがおしえてくれない けーやくいはんとかいう けーやくなんてしてないのにおかしい あのべんごしうそついてる』

『だれもたすけてくれない ひどい わたしかわいそう わたしだけかわいそう にこがたすけない ひどい にこがわたしをたすけるのとうぜんなのにうらぎった そだててもらったおんをわすれてる わたしにひどいことする ははおやをたすけないなんておかしい にこはあたまがおかしい わたしがどれだけにこのためにじぶんをぎせいにしたとおもってるの わたしのじんせいかえしてよ』

『にこなんてふこうになればいい わたしをころしたのはむすめのにこです じぶんがしあわせになるためにわたしをころしました にんげんじゃないです けいさつはにこをたいほしてください』


 この汚くて読み辛い文字は間違いなく博子の直筆だとにこは認める。文中に登場する”なつお”は博子が恋人だと言っていた人物、”きよし”は元夫でにこの父親、”べんごし”は竹生弁護士で、”あかちゃん”については博子が妊娠していると言っていたことは記憶していると伝えた。『わたしをころしたのはむすめのにこです』の一文があるからだろうか、にこは念の為にアリバイを訊かれたが、二人の警察官はにこを犯人だと疑っているようには見受けられなかった。

 こうして話し合いは終わり、博子の親族であるにこは遺体の引き取りを求められる。にこは竹生弁護士や槐の力を借りて、博子とは絶縁しているのだと警察官たちに説明して、それを拒否した。博子の遺体の扱いは彼女の実家の人間か、警察、または役所に委ねられることになるだろう。




 竹生弁護士とは警察署で別れて、にこは槐と共に自宅へと戻る。時計は今が深夜の時間帯であることを知らせている。


「朝まで此処に居ても良いかな?」

「……何で?」

「僕の勝手な思い込みなのだけれど、にこさんを一人にしてはいけないような気がして……」


 にこの冷たい手を槐が握りしめる。彼の体温が心地良くて、それだけで強張っていた気持ちが緩んでいくような感覚があった。


「じゃあ、朝まで……愚痴に付き合ってよ」


 ベッドを背凭れにして、二人はラグの上に座る。繋いだ手の指を絡ませて、肩と肩をくっつけて。


「……母親が死んだって聞いて、ショックだったんだけど、悲しいとは違ってて。警察署に行って、死に顔を確認して、ああ、この人本当に死んだんだって実感して……でもやっぱり、悲しくはなかったんだよね。寧ろ、ほっとしてる。これでもう、あの人は私の目の前に現れないんだって」


 ぽつぽつと話すにこの様子から、彼女が母親の死を悲しんでいないことが伝わってくる。それに歓喜している訳でもないことも。


「だけど何でだろう?全然、気持ちが晴れやかにならない。何でさ、お前は不幸になれとか母親に言われないといけないの?どうして私が悪者にされないといけないの?あのオバサンが死んだのって自業自得でしょう?私は関係ない。最期まで自分勝手で理不尽で……許せない、許せない……っ!」


 自分の幸せを追い求めて、選んでやってきたことの結果が離婚や片親家庭、借金、挙句が娘からの絶縁、そして自らの死へという形で現れたのではないか。それをにこの責任とするのは理不尽以外の何ものでもなく、娘であるというだけでにこに怒りをぶつけるのは当然だとする思考も到底理解出来ない。


「私が幸せになるのは許せない?何で私があんたを幸せにするために自分の人生犠牲にしないといけない?私の悲しさ、虚しさ、怒りが全然あのオバサンに通じることなかったってことが……悔しくて堪らない」


 心の奥底で燻っていたものの正体が漸く現れたのかもしれない。にこは悔しいのだ。母親が何も反省しなかったことが。昂る感情が涙腺を刺激して、見る見るうちに視界がぼやけて、熱い雫がぱたぱたと膝の上に落ちて、服に染みを作っていく。


「だからっ、遺体を引き取って、葬式なんてしてやらないっ。墓も作らないし、仏壇も用意してやらないっ。あのオバサンの死後の面倒までみてやる義務なんて、私には……無い……っ!そうじゃないと大金払ってまで絶縁した意味がなくなっちゃう……っ!」


 にこの涙は止まる気配を見せず、鼻水まで出てきてしまう。空いている手をスカートのポケットに突っ込んでみるが、其処にハンカチはなかった。洗面台までタオルを取りに行くべきかどうか逡巡していると、槐がハンカチを差し出してくれた。にこは有難く受け取り、涙と鼻水を拭いて、このハンカチを綺麗に洗って返すことを心に誓う。


「にこさんの人生はにこさんのものだから、どうやって生きるのかを決めるのは、にこさんだよ。お母さんの望む通りに生きなくても良いよ。僕は、にこさんを責めない。だけど……お母さんの呪いの言葉に引き摺られてしまいそうになったら、遠慮なく僕を巻き込んで。頼りないかもしれないけど、頼ってください。一緒に考えることは出来ると思うから……」

「……うんっ」


 槐がにこを引き寄せて、腕の中に閉じ込める。にこは彼に身を預けて、泣きじゃくり、震える背中を温かい手が優しく撫で続けた。




 ――翌日、にこは仕事を休んだ。

 博子の死が悲しくて、悼む時間が欲しくなったのではない。泣きすぎて、尋常ではないくらいに目が腫れてしまった。目を閉じていてもヒリヒリと痛み、開けることも困難な状態では仕事が出来ないと判断したのだ。

 単位は足りているから問題はないよ、と言って、大学の授業を休んだ槐に一日中世話を焼いてもらった。至れり尽くせりで申し訳なかったが、彼が傍にいてくれたことで、ぐちゃぐちゃになってしまった感情は随分と落ち着きを取り戻せた。御蔭様で、次の日の朝には目の腫れもすっかり引いて、にこは出勤することが出来た。

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