第41話 はじめまして、経験したことのない私(肆)
正解なのか不正解なのかが分からないクリスマスを過ごせば、直ぐに大晦日がやって来る。アパートの部屋の広さはそれほどではなくても、しっかりと掃除をすれば、時刻は午前から午後へと移り変わっていた。掃除の後片付けを済ませて一息吐いたところで、インターホンが鳴る。玄関の覗き穴を確認すれば、一緒に年越しをする約束をした槐が外に佇んでいた。
「いらっしゃい、槐」
「お邪魔します、にこさん。ああ、大掃除をしていたのかな?僕に何か御手伝い出来ることはありますか?」
にこがエプロンをしているので、そうだと判断したらしい槐に「大掃除ならついさっき終わらせちゃった」と告げれば
彼はがっくりと肩を落とした。そんなに気を遣わなくても良いのに、と、にこが声をかけようとした拍子に槐は面を上げて、手にしていた紙袋を彼女に差し出してきた。
「掃除には間に合わなかったようだけれど、年越し蕎麦は必要としてもらえるかな?」
「これから昼御飯を作ろうかと思ってたところだから、丁度良い。あんたも食べる?」
「お腹がペコペコです」
にこの自宅にやってくる前に実家に寄っていた槐は、帰り際に母親から年越し蕎麦を御裾分けしてもらったのだそうだ。蕎麦の扱いに慣れていない二人は蕎麦を茹でるのに苦戦し、ぶちぶちに切れてしまっている年越し蕎麦を食べることになる。然し、麺自体とつゆが美味だったので、そんなことは全く苦にならなかった。それから他愛もない話をしたり、年末恒例のテレビ番組を観賞したり、のんびりと時間を過ごしていれば――除夜の鐘が鳴り始め、最後の一回が日付の変わった頃に鳴らされる。
「明けましておめでとう御座います」
「昨年は大変お世話になりました。本年もどうぞ宜しく御願い申し上げます」
どうしてか二人は正座で向き合って、深々と御辞儀をして――肩を揺らして笑い合った。
一月一日の早朝、二人は商店街の近くにある小さな神社へと初詣に向かう。近所の住人もちらほらと初詣に出てきていて、行違い様に見知らぬ人たちと新年の挨拶を交わした。槐に一般的な神社の参拝方法を教授してもらい、にこは社にいらっしゃる神様に「今年は平穏な生活を送れますように」と祈りを捧げた。社の脇に遠慮がちに置いてあったお神籤を二人で引いて、結果を見せ合う。槐は大吉で、にこは凶だった。
(新年早々神に見放された……)
今年もまた不運に見舞われるのかと絶望したにこを哀れに思ったのだろう、槐がお神籤の交換を申し出てくれたのだが、「いや、それはきっと意味がない」と言って、にこはきっぱりと断った。
今年は良くないことに見舞われやすいので、十分に気を付けて生活をするように。そういう警告をしてもらったのだと思えば、心のダメージは随分と軽くなった。
正月休みが終わって、仕事始めの日を迎える。にこは暫くぶりに自転車をこいで出社をして、更衣室でお局様――もとい、朝比奈に遭遇した。助け舟を出してもらって以来、彼女への苦手意識が薄らいだのか、にこは気軽に挨拶をかわせるようにまでなっていた。
「あら?媚山さん、そのネックレスはどうしたの?」
流石はお局様、仕事着に着替えているにこの首元を飾るそれに気が付く。誤魔化して逃げ切る自信はないので「クリスマスプレゼントで貰いました」と正直に白状すると、「”軽トラ王子”に?」と返されたので、にこはこれまた素直に認める。
「そう。良かったわね、素敵なものを頂いて。似合っているわよ、そのネックレス」
「有難う御座います。朝比奈さんも素敵な指輪をしていますね、若しかして……ダイヤモンドですか?」
朝比奈の左手の薬指でキラキラと輝く小さな宝石の付いた指輪をそれとなく褒める。にこの予想通り、彼女の機嫌が見る見るうちによくなってきたので、それが正解だったのだと確信する。
「ええ、そうなの。今お付き合いをしている方に頂いたの」
合コンという名の戦場を渡り歩いてきた女豹は遂に獲物を仕留めたらしい、と、噂好きのパートタイマーのお姉様方が話しているのを耳にしたので、にこは知っている。戦場に迷い込んだ仔犬はそれなりの財力を有しているらしい、ということを。
以前のにこであれば煩わしくて堪らないと敬遠していた、女性同士特有の会話のやり取りが少しずつ出来るようになってきたのかもしれないと、自分の成長を実感して、少しばかり嬉しくなる。
(さて、と。今日から御仕事だ。頑張っていこう)
着替えを済ませたにこは気合を入れんとして、頬を軽く叩いてから、先に更衣室を出ていった朝比奈の後を追うように仕事場へと向かっていく。
初詣のお神籤で凶を出してから、言動などに気を付けていた結果だろうか。比較的穏やかに過ごすことが出来て、二月が訪れる。乙女心が爆発するチョコレートの祭典ことヴァレンタインデーの季節である。クリスマスも年越しも正月も初詣も体験してきたので、にこはヴァレンタインデーにも挑戦することを決めた。手作りチョコレートという考えは存在しなかった上に美味しいチョコレートが食べたかったにこは、槐用と自分用のものを求めて、デパートの催事場まで足を向けた。其処はクリスマスとは違う修羅の国で、にこは無事に目的を果たし、帰宅出来たことを心から喜んだのだった。
迎えたヴァレンタインデー当日。にこはプレゼント交換宜しくチョコレート交換を行う。
「あんたもチョコくれるとは思わなかったわ」
「日本では女性が男性にチョコレートを贈ることが多いようだけれど、海外では男性が女性に花を贈ることがあると耳にしたんだ」
「へえ……それで花の形をしたチョコね……」
にこの価値観が花より団子であることをよく理解しているようで、と、にこは苦笑する。花の形をしたチョコレートは上品な味わいで、一度に全部食べてしまうのが勿体なくて、一日に一粒ずつ食べて楽しむことにした。
ふとした拍子にカレンダーの日付を見れば、二月ももう下旬。三月があっという間にやって来ることを知る。
ヴァレンタインデーの次は雛祭りを挟んで、ホワイトデー。チョコレートのお返しは何が良いのだろうかと考え出した或る日の夜のことだ。自宅で資格の勉強をしていると机の上に置いていたスマートフォンが震えて、竹生弁護士からの電話着信を知らせてきた。
常識人である彼女がこんな遅い時間に電話をかけてくるとは余程の事態が発生したのではないかと感じて、にこは電話に出た。そして彼女から告げられた言葉を耳にして、にこの頭は真っ白になってしまう。
目は開いているはずなのに眼球に靄がかかってしまっているのか、物が良く見えない。イヤホンや耳栓もつけていないのに、耳が音を上手く拾ってくれない。徐々に不快な感覚が薄れていって、誰かに手を強く握られていることに気が付く。自ずと熱源へと顔を向けてみれば、隣に槐がいて、にこは見覚えのない建物の中にいることを理解する。槐へと向けていた視線を変えてみれば、近くに竹生弁護士がいて、制服を着た若い男性が片手に持った書類を見ながら、此方側に説明をしてくれていることが理解出来てきた。
(ああ、そうか。私、警察署にいるのか)
若い警察官に連れられて、三人は建物の奥へと進んでいく。漸く頭の中や五感がはっきりとしてきたにこは、どうして自分や槐が此処にいるのかを思い出してきた。
切っ掛けは、竹生弁護士からの電話だった。彼女から告げられた内容の衝撃が大きくて、何をしたら良いのか見当がつけられなくなったにこは槐に助けを求めていた。電話越しのにこの様子から徒事ではないと察した槐が慌てて駆けつけてくれて、呆然自失となっている彼女を警察署まで連れてきてくれたのだ。そして警察署の建物の前で、竹生伊弁護士と合流して、今に至る。
やがて三人を先導していた若い警察官の足が止まる。其処は霊安室で――にこは深呼吸をしてから、開かれた扉の向こうへと足を踏み入れた。死者を弔う簡素な祭壇の前に、白い布に覆われた遺体が安置されている。にこがその前に立つと、顔を覆っていた布が外されて、包帯を巻かれた人間の顔が現れる。
「此方の御遺体は、媚山博子さんという方で間違いないですか?」
そう尋ねられたにこは静かに、然しはっきりとした声音で「はい、間違いありません。この人は媚山博子です」と答えていた。
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