第39話 はじめまして、経験したことのない私(弐)

 人生の分岐点ともいえる大きな仕事を成し遂げたにこは、時折呆けたように宙を見つめることが増えた。不安を抱えているのではないかと案じた槐が「どうかした?」と声をかけると、彼女は「何でもない」と返して――ぎこちなく笑う。たったそれだけのことで、彼女は心につっかえていることがあるのだと槐は確信するのだが、そんな彼女にかけるに相応しい言葉が見つからず、槐もまたぎこちなく笑って「そう」とだけ呟く。そんなことが日常の中に新しく組み込まれた。


『媚山さんの傍にいて、彼女を見守ってあげて欲しいと思っています。二連木さんが出来る限りで構いません。精神的に疲れて共倒れになってしまうことは、貴方にも媚山さんにも良くないことですから』


 ふとした瞬間に「自分の選択は本当に正しかったのだろうか?」だとか「子供が親を捨てるなんて、道義を踏み外すことではないだろうか?」と、疑心暗鬼に陥って、自分を責めてしまうことがあるかもしれない。これまでに関わった親族との絶縁に関する案件で、にこと同じ選択をした人々の中にはそういった状態に陥り、やがては心を病んでしまう人が少なからずいたのだということを頭の片隅に置いていてほしい。にこの母親の問題を解決に導いてくれた一人である竹生弁護士は、槐にそんな助言をしてくれていた。槐はそれを守り、彼女の拒絶がなく、また時間の許す限りはにこを見守っている。確かに竹生弁護士が心配していたようなことがにこの身に起きているかもしれないと思うこともあるので、彼女が助言をしてくれて良かったと感謝している。


(僕はにこちゃんの選択が間違っていたとは思わない)


 だが、それを彼女と喜び合いたいとも思わない。

 血の繋がった娘を”失敗作”だと、本人に向かって平然と言ってしまう母親であっても、にこは母親を見捨てられなかった。そんな母親を庇う必要がどこにあるのかと思えるのは、槐が他人だからだ。若しも槐がにこと同じ立場の人間だったとしたならば、彼女と同じ行動をとってしまう可能性があるのに、だ。

 結局のところ、両親や兄と良好な関係を築けている槐には、実の親に見切りをつけざるを得なかったにこの心情を深く理解することは出来ない。これからもきっと理解出来ないことがあって、知らず知らずのうちに彼女の心を傷つけるかもしれない。それでも槐はにこの力になりたいと願ってしまうことを止められない。例え要領良く行動出来ない自分に嫌気がさすことが分かっていても、止められない。

 些細なことで喧嘩をして、槐が子供のような許しの乞い方をして、それに呆れて苦笑いをしてにこは折れてくれる。そんな不器用な彼女が、槐は愛しいと思っている。






**********






 にこが新居に引っ越しをして数日。彼女のいた気配が薄くなってきた自宅のリビングで緑茶を一服していると、ローテーブルの上に置いたスマートフォンが震える。画面を覗き込めば、にこの名前が表示されていて、「車を貸してもらえないだろうか?」とメッセージが届いていた。


「……どうしたんだろう?」


 ペーパードライバーであるにこに自家用車を貸与するのが嫌だという訳ではないのだが、槐は何となく「どうして?」と返信してみた。彼女は機嫌を損ねることもなく、「話すとちょっと長くなるけど」と前置きをしてから、質問に答えてくれた。

 ――以前、にこは勤務先の社長に親身になって相談に乗ってもらったことがあった。その後、問題が解決したことを社長に報告したところ、「よく頑張ったね、誰かに頼ることが出来て良かった」と労わってくれて、嬉しかったとにこが言い、それを聞いた槐も嬉しくなる。

 それから世間話のつもりで引っ越しをしたことも社長に告げると、聞き耳を立てていたらしいお局様を筆頭にして周囲の人々が集まってきて、にこがあたふたとしているうちに、彼女は各家庭の不要となった家具や家電製品を殆ど無償で入手出来ることが決まっていたそうだ。そして、休日にそれらを引き取りに行く約束も取り付けられていたので、彼女は唖然とするしかなかった。人々の行動は親切心からとはいえ、中々に強引ではあったが、にこ自身は生活に必要な物は使えれば新品でなくとも問題ないという考えの為、出費をかなり抑えられるので運が良かったのかもしれない、と、にこはメッセージを送ってきた。


(……良かった、にこちゃんが色々な人に頼れるようになって)


 大きな荷物の運搬には男手がいるだろうからと、槐はにこに手伝いを申し出る。彼女は「有難う。凄く助かる」と喜んでくれて、彼の胸の内がほんわかと温かくなった。






**********






 約束の日、槐が軽トラックを運転してやって来ると、自宅アパートの前で待っていたにこが唖然とした様子で此方を眺めていた。


「槐が軽トラ……似合わねえ……」

「……そうかな?」

「いやあ……うん、金持ちのお坊ちゃまが軽トラに乗って現れるとは思ってなくて度肝を抜かれたというか……。それにしても、身長が低くて手足の短い人間が乗り込むには優しくない構造をしてんな、軽トラ」


 少々難儀しながら助手席に乗り込むにこと、御礼の品として渡す物なども載せて、槐は彼女と共に家具と家電製品回収の旅に出発する。


「ところで、この軽トラはどうしたの?あんたが普段乗ってるのは軽自動車だったよね?実家の御屋敷の方にもありそうにないけど……」

「実家の庭の手入れを頼んでいる庭師の親方に借りたんだ」


 家具などの運搬には所有している軽自動車は向いていないだろうと考えた槐は、もっと大きな自動車を貸してもらおうとして実家に赴いた。すると其処で偶然にも庭の手入れの下見にやって来ていた親方と会った。


『やあ、お久しぶりです、槐坊ちゃん。此方に帰ってらっしゃったんですか?』

『こんにちは、親方。うん、今日はね……』


 槐が幼い頃から交流のある親方に実家を訪れた理由を話すと、「大きな荷物を運ぶのでしたら、御屋敷にある高級車よりも、この軽トラの方が向いていますよ」と返ってきた。親方の仕事の都合を確認すると、にことの約束の日には仕事が入っていないようだったので、親方に頼んで軽トラックを貸してもらったという次第だ。


「――それはそれは御親切に。用事が済んだら、親方さんに御礼の品を買っていくかぁ……どういうものが良いんだろ?」

「そうだなぁ……」


 庭師の親方への御礼の品やら、何やらと色々なことを話しているうちに、一軒目の御宅へと到着する。不要になった折り畳み式ベッドを無償で譲ってくれる中台なかだいさんが槐を見るなり興奮して「このイケメンと何処で知り合ったの!?」とにこに詰め寄り、彼女は照れ臭そうに「幼馴染で……今はお付き合いをしています」と答えていた。それを目撃した槐の目尻が下がり、口の端が上がったことは言うまでもない。他の御宅でも同様のことがあり、その都度にこが槐を「お付き合いをしている人です」と紹介してくれて、槐の表情が益々崩れていく。最後の方はにこの紹介の仕方が投げやり気味だったが、それでも槐は笑顔だった。

 そうして夕方になるまでには全ての御宅を回り、不用品を回収することが出来た。二人はにこの自宅へと戻り、二人で力を合わせて、荷物を部屋の中に運んでいく。殺風景だった部屋も物が増えたことで、一気に生活感が増した。テレビ、電子レンジ、冷蔵庫の動作確認をして、洗濯機の確認は明日に回すことにして、疲れ果てたにこがベッドの上にうつ伏せで寝転がると、槐はその縁に腰を掛ける。


「あ~疲れた。もう動けない、動きたくない」

「御疲れ様です、にこさん」

「私よりもあんたの方が働いてたでしょうが。……今日は手伝ってくれて有難う、槐。本当に、助かった」


 のろのろと起き上がり、ベッドの上で正座をして、にこが深々と頭を下げた。槐はきょとんとしてから、にっこりと笑う。


「……どういたしまして。僕は嬉しいことがあったから、気持ちよく疲れているよ」

「何かあったの?」

「行く先々でにこさんが僕のことを”お付き合いしている人”だと紹介してくれてたでしょう?それが物凄く嬉しかったんだ」


 てっきり知人、若しくはただの幼馴染だと紹介されるものだとばかり思っていた。と、口から出そうになって、槐は急いで口を噤む。


「下手に誤魔化したって、月曜日に出勤したら、質問攻めされてボロが出るのは分かってるから、正直に言っただけだよ」


 にこが細長い目をより細長くして、唇を尖らせて、顔を背ける。拗ねているように見えるが、実際のところは照れているのかもしれないと前向きに捉えて、槐がはにかむ。それを横目で見ていたらしいにこは、槐の頬を両手で摘まんで引っ張ってきた。恐らく、槐の緩みきった表情にイラッとしたのだろう。


ふぁひょうらそうだ


 何かを思い出したらしい槐が間抜けな声で喋ったので、にこは反射的に彼の頬を引っ張っていた手を離す。


「何?どうかしたの?」

「軽トラック、夜遅くにならないうちに親方の所に返しにいかないと。だから僕、もうお暇させてもらうね」

「あぁ……うん……」


 玄関の外まで見送りをしてくれようとするにこに「此処までで良いよ、有難う」と告げ、槐は靴を履く。挨拶をしようと顔を上げると、いつの間にやらにこの顔が至近距離に迫ってきていて――少しかさついた唇が、彼の唇と触れ合って、直ぐに離れていってしまった。


「これ、軽トラを貸してもらった御礼。私の代わりに親方さんに渡しておいてもらえると助かります。宜しく。それから……夜道に気を付けて、帰っていきなさいよ」

「……うん」


 にこと別れるのが急に惜しくなったが、もう靴を履いてしまったし、御礼の御菓子が入った袋を持たされてしまっている。槐は後ろ髪を引かれる思いを抱えて、庭師の親方の家へと向かっていった。

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