第38話 はじめまして、経験したことのない私(壱)

 母親と、時折オマケで存在を思い出す父親との事実上の絶縁が叶ったからといって、直ぐにでも平穏な毎日が訪れてくれるという訳ではないらしい。大きな仕事が終わって得た達成感は直ぐに消え、いつの間にやらやって来た脱力感と折り合いをつけながら過ごしていた或る日のこと。空き物件の相談をしていた不動産屋から連絡が入った――契約が決まっていたのだが、急に御破算となってしまった物件があると。それは条件の良い物件で一度内覧もさせてもらっていたので、にこは其処が気になっていた。彼女は他の誰かに奪われないようにと「其処に決めます!」と即答していた。


 築年数が三十年程だという二階建てのアパートは勤務先に自転車通勤が出来る距離にあり、周囲にはコンビニや小さな商店街があるので買い物にも困らない。遠出をしたい時も、バス停や電車の駅が徒歩二十分圏内にあるので、自転車さえあれば利用しやすい。一度は敬遠した家賃の額だが、以前暮らしていたオンボロアパートの家賃を基準に考えてしまっていたのが間違いだった。1Kの部屋の家賃の平均額をちゃんと調べてみると、妥当なものだったので、即答したことはとりあえず失敗ではなかったと分かり、にこは安堵する。こうして不動産屋との契約は成立し、入居日も決まった。それに合わせて電気、ガス、水道の契約も済ませ――本日、にこは新居へと引っ越しをすることになったのだった。




「槐、荷物は一先ずこの辺にまとめて置いておくことにするわ」


「はい、了解です」




 槐の軽自動車に荷物を載せてもらい、部屋に運び入れるだけの作業は一時間もしないうちに終わる。六帖の洋間の片隅に置かれた荷物の他に、備え付けにエアコン以外の家電製品や家具がない部屋は殺風景だ。




(槐の家に避難するのに邪魔だからって、でかい荷物を全部処分したけど…早計だったかな。いや、でも丁度良い機会かも。値段が安くても良い品質の家電とか売ってるから、それを買って揃えていこう。だってねえ、リサイクルショップで買っても前使ってたのより新型なのは間違いないし)




 電気、水道、ガスが使えるようになっていることを改めて確認してから、にこは部屋の中をじっくりを観察している様子の槐に声をかける。




「槐、今から布団を買いに行きたいんだけど……車を運転してもらえるかな?」




 季節が夏であったならば平気だったかもしれないが、今時分は十二月の冬。エアコンがあるとはいえ、冬の夜を布団も無しにフローリングの上に寝転がって凍えながら過ごす勇気と元気がにこには無い。




「勿論。……ああ、そうだ。引っ越し祝いに、床に敷くラグとマットレスをプレゼントするよ。この部屋の床には床暖房がないようだから、敷布団だけでは背中が冷えてしまいそうだ」


「……有難う御座いま~す」




 部屋の埃でも探しているのかと思っていたが、槐はそんなことを考えていたらしいと分かり、にこは苦笑する。


 ――私なんかにお金使わないで、自分やもっと大事な人や物の為にお金を使いなさいよ。とは思うが、その申し出は正直に言って有難い。彼女は彼に向って笑顔を浮かべたつもりなのだが、表情が硬い。心の内の葛藤が、表情筋に影響を及ぼしているのかもしれない。にこの表情を見た槐が察して、形の良い眉を下げる。




「僕はまた、何か余計なことを言ってしまったり、やったりしてしまったかな?」


「あー……違う。あんたの善意に悪意が無いっていうのは分かってるんだけど、まだ素直に受け入れる勇気がちょっとないっていうか。……慣れるまで時間がかかるだろうから、その度に謝罪しますんで容赦して頂けますと幸いです」


「僕が引っ越しの手伝いをしたり、引っ越し祝いを送ろうとするのは嫌ではない?」


「嫌だったら手伝ってって頼まない。それと……ラグとマットレスを奢ってもらえるのは有難過ぎる」




 嗚呼、またしても可愛げのない言い方をしてしまったと自己嫌悪するにこが恐る恐る槐の様子を窺う。彼女に頼ってもらえることが嬉しい槐が満面の笑みを咲かせているので、これ以上は反省しないことにする。どうしてか、そんな気分になってしまった。




「……さて、買い物に出かけようか」




 二人で廊下に出て、玄関の鍵を閉めて振り返ったにこが不意に槐に手を差し出す。すると、槐が流れるように懐から財布を出した。言葉に出さずに「手を繋ごうか」と出した手は、「金を寄越せ」という意味に捉えられたのだと悟り、にこが嘆息する。




「いや、金の催促をしたんじゃなくて、あんたと手でも繋ごうとしたんだけど」


「えっ!?そ、そうだったの!?御免ね、気が付かなくて……っ!とても失礼な真似をしてしまったよね、嫌な思いをさせてしまったよね……御免なさい……」


「あんたが私のことをどんな風に認識しているのかが分かって……呆れはしたけど、ちょっとだけしか怒ってない。いや、これまでにあんたにしてきたことを考えれば怒る権利なんてないんだけど……まあ、何だ、これからの媚山にこに期待してください。宝くじを一枚買っただけで一等当てるくらいの確率で」




 苦笑いしたにこが槐の瑞々しい手を取って歩き出す。槐がおずおずと握り返してきたので、彼女より一層力を入れて握ってやった。ちらりと視線を上げれば、隣を熱く槐の口元が綻んでいるのが見えた。槐が喜んでいるのなら、それで良い。








 それから買い物先で、引っ越し祝いの品の上限金額について一悶着があったが、にこはラグとマットレスを手に入れることが出来た。これで暫くの間、フローリングの上で寝ても寒い思いをしないで済みそうだ。これで機嫌はほどほどに直っているのだがまだ拗ねているように見えていたのか、槐が御機嫌取りのドーナツを一つ買ってきた。食べ物を与えれば何とかなる、と、思い込んでしまっている槐に噴き出して、にこはドーナツを半分にして、片方を槐に渡した。二人で半分こしたドーナツはチョコがかかっていて、美味しかった。


 ドーナツ半分こで完全に機嫌が直るにこはチョロい。にこが喜ぶだけで、自分も喜ぶ槐もチョロい。二人とも、チョロい。変なところで似た者同士だから、にこと槐は育ちが違っても、喧嘩はしても、それとなく上手くやっていけるのかもしれない。

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