第27話 地球外生命体と思えば、何とか(肆)

 槐が持ち掛けた取引に応じる姿勢を見せた博子は、期待に胸を弾ませているらしい。槐が会計をしている間、彼女は鼻歌を歌いながら、レジの横にある棚に並べられた商品を物色している。にこは博子が万引きをしたりしないかと冷や冷やしながら、彼女の動向に目を光らせる。

 会計が済んで、ファミリーレストランの外に出ると槐は徐に博子に何かを差し出してきた。


「諸々の準備に時間がかかりますので、猶予を頂きたいです。何かありましたら、此方の番号に連絡をして頂けますか?僕に出来ることでしたら、対応します」


 槐の連絡先を書いたメモ用紙を渡された博子は「これ、何て読むの?」と言って、槐の名前を指差す。ファミリーレストランにやって来て席に着いた際に槐はきちんと名乗ったのだが、博子は全く覚えていないようだ。内心で呆れはするものの表情には出さず、槐はメモ用紙を受け取り、自分の名前に振り仮名をつけて、博子にもう一度手渡した。 ”二連木”も”槐”も漢字が読めないと言われることはこれまでにも多々あったので、彼は慣れている。


「取引が成立するまでの間ににこさんに迷惑をかけるような真似をされましたら、資金援助の話はなかったことに致しますので十分に気を付けてください」

「はいはい、お金を貰うまでににこの家に行ったり、にこに電話したりしなければ良いんでしょ?それくらい出来るわよ、子供じゃないんだし!ねえ、とりあえず今日の分のお金をくれない?百万円を待ってる間にお金が無くなっちゃうかもしれないでしょう?」

「取引の報酬である百万円以外の金銭の支援もすると、僕は申し上げていないと思うのですが?分かりました、この話はなかったことに……」

「冗談!冗談よ!仕方がないな~、にこがイケメン君の代わりにお小遣い頂戴?」

「先程申し上げましたよね?にこさんに迷惑をかけるような真似をされましたら、資金援助の話はなかったことに致しますと」

「冗談よぉ~!もう、イケメン君は冗談が通じないんだからぁ~!それじゃあね、イケメン君、それとにこ!百万円払ってくれるの待ってるからね~♪」


 あれこれと捲し立てて強引に物事を進めてきた博子がその手腕を披露しようとするが、槐がその調子を崩し、会話の主導権を握る。これ以上いつもの手段を使っても効果がないようだと悟った博子は、槐の機嫌を損ねて取引をなかったことにされても困るので、そそくさと退散していく。電車やタクシーを使って、男が待っているカプセルホテルへと戻っていくのだろうかとにこが眺めていたが、博子は歩いて何処かへと消えていった。交通費を節約する頭があるのなら、生活費を節約することだって出来ただろうに、と、にこの頭を過ぎる。


(ああ、そうだ……家に帰らないと。明日も仕事があるし、少しでも体を休めないと、色々と辛い……)


 一歩踏み出そうとした時、槐がにこの手を握ってきた。そして流されるように、にこは槐に連れられて歩き出す。「ねえ、何処に行くの?」と彼女が気だるげに尋ねてみれば、槐は振り向きもしないで「僕の家」とだけ答えて、タクシー乗り場で待機していたタクシーを拾う。精神的に疲れていて思考が鈍っているのか、にこが特に抵抗せずにタクシーに同乗したので、槐はそのまま彼女を自宅があるマンションへと連れて行ってしまった。




 高級マンションの煌びやかなエントランスを抜けた先にあるエレベーターに乗り込んで、降りる階を指定するボタンが押されて、豪華な装飾がされている扉が音もなく閉まる。


「……ねえ、何で私を此処に連れて来てんの?」

「……にこさんを一人きりにするのが嫌だったから」

「……ふうん。……ねえ、暫くの間、私に関わるなってメールをしたはずなんだけど……あんた、見てないの?」


 ああ、これを尋ねようとしていたんだった。と、漸く気が付いたにこが語りかけると、繋いだままでいる手から、槐が体を強張らせたのが伝わってきた。下へと向けていた視線を上げてみると、肩越しに見えるた槐の表情は悲しげで、博子と対峙していた時の強気な態度の欠片もない。この表情は見慣れている槐のものだ、と、にこは安堵して小さく息を吐いた。


「そのメールは、見た」


 微かに震える声で槐が答えて、エレベーターが目的の買いに到着したことを知らせる音が鳴る。扉が開いて、二人はエレベーターを降りて、廊下を歩いていく。どちらも言葉を発しないので、二人の足音が廊下に響く。重たい沈黙は槐の自宅のリビングに入るまで続き、ソファに腰かけて頭を抱えるように項垂れた槐がそれを破った。


「にこさんのメールを見て、どうしてそんなことになったのかが分からなくて、不安で堪らなくなって……にこさんに直接理由を聞こうと思って、にこさんの家に行ったら……にこさんとあの人が言い争っているのが聞こえて……間に割って入ったんだ」

「……ふうん」

「どうして、あんなメールを送ってきたの、かな?僕がいつものように、何か……にこさんの気に障るようなことをしてしまったのかな?」


 槐の隣に腰かけようとはしないで突っ立ったままでいるにこは感情の読めない目をして、俯いている槐の旋毛を見つめる。


「あのオバサンがいきなり現れて、金寄越せって言ってきて……断っても毎日待ち伏せされて、金寄越せって騒がれて、疲れて、あんたのメールに返信するのをサボってたら……苦情が入ってるって大家に言われて、このままだと追い出されるかもしれないから、あのオバサンから逃げる為に引っ越ししようと決心したんだよ」

「……うん」

「あのオバサンに関わると疲れるから、どうにかしようとしてたんだよ。だから、そのことに集中したいから、あんたの用事に付き合うのは……暫く勘弁してもらおうと思って、メールした。そしたらオバサンが来て、あんたまで来た」

「……そう」


 嫌われてしまったわけではないと知って安堵するが、槐は未だ顔を上げない。


「あのさあ、私も訊きたいんだけど」

「あ……うん、何でしょう?」


 ここで漸く顔を上げた槐は、恐る恐るにこの顔を見た。彼女は能面のような顔をして、此方を見ている。細い目をより細めているのが、怒っているようにも見えなくもない。槐の心が、ヒヤリとする。


「何で、他人の家の事情に首突っ込んでくるの?然もさあ、百万円もくれてやるとか豪語しちゃって、馬鹿じゃねーの、あんた?あのオバサンはさ、自分の幸せの為に他人に平気で迷惑かけられる人間なんだよ?あのオバサンの妄言聞いてれば、直ぐに分かるよね?あのオバサンに関わると碌な目に遭わないって、私を見てれば分かるよね?私一人でどうにか出来る、今までだってそうしてきた、あんたの手なんか借りなくても問題ない。あんたみたいなお坊ちゃまには荷が重いんだよ……何で、首突っ込んで、掻き回していくかなあ……!?」


 誰かに解決の糸口となるようなことは尋ねたりしているので、自分一人の力で何でも解決してきた訳ではないことをにこは理解している。それでも、誰かに「助けて」と言ってはこなかった。それで何とかなってきたという自負があった。だから今回も何とか出来るので、槐に横から口を出されることが我慢出来ない。


「……にこさんはお母さんと関わりたくないと言っているけれど……それでも、お母さんを突き放せないでいるよね?さっきも、悪態は吐いても強い拒絶の言葉は出てこなかったし、行動にも出ていなかったよ。これまでも、やろうと思えばいくらでも出来たのだろうけれど……お母さんと縁を切るようなことはしてこなったよね?にこさんは本当は……お母さんとのことは、どうしたいと思っているのかな……?」

「……裕福な家庭でぬくぬくと育ってきたあんたに、私の何が分かるっていうんだよ!?そりゃあ、捨てられるものならとっくに捨ててるわ、あんなクソババア!だけどねえ、よく考えてみろよ!此処は日本、法治国家!あの時の私は未成年!未成年は保護者の許可がないと何も出来ないようになってんだろうが!!」

「それはそうだけどね!だけど今のにこさんは未成年ではなくて、成年だよね!?……このままではにこさんが、あの時みたいに僕の前からいなくなってしまうかもしれないって怖くなったから、横から口を出したんだよ!あの人がにこちゃんの未来を奪ったんだって、にこちゃんの頑張りを全部無駄にしたんだって思ったら腹が立ったんだ!あの時に味わった思いをもう一度味わいたいなんて、僕は思わない……っ」


 槐がソファから立ち上がり、にこに詰め寄ってくる。槐の必死の形相が怖くなってにこは二、三歩ほど後退るが、槐に負けるのが悔しくなり反骨精神を奮起させて足を止めて、下から彼を睨みつける。


「……にこちゃんって呼ぶなって、言っただろーが!」

「今の僕はもう中学生じゃない。社会人ではなくて、未だ学生の身分ではあるけれど、成人はしているよ。あの時に出来なかったことが、今の僕なら出来る。僕は今度こそ、にこちゃんを助ける……っ!」


 ”助ける”という言葉が、にこの心に突き刺さる。けれどもそれは期待感を煽るものではなくて、にこの魂に根深く染みついてしまっている猜疑心を刺激するだけだった。


「じゃあ、どうやって私を助けるんだよ!?助けて、それでその後はどうするんだよ!?契約書に一筆書かせて、恩を返し続けろって言って、一生私を扱き使うつもりなんだろ、あのオバサンみたいに!」

「そんなことはしない!」

「しただろーが、恋人契約とやらを!」

「あれは、ああしないとにこちゃんが逃げていってしまいそうだったから、逃がしたくなくて、やってしまいました!御免なさい!!」


 一歩退いて美しい最敬礼で謝罪してきた槐に度肝を抜かれて、にこが言葉を失う。槐がゆっくりと顔を上げて、動揺しているにこをじっと見つめるので、彼女は気まずそうに顔を背けて、リビングの壁に目をやった。勢いに水を差され、自分のペースを見失ったにこは攻撃の言葉も一時的に失う。

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